第五幕:目には目を

第31話:ただ清白に

「じいちゃんばあちゃんに、なんもおねだりせんかったよ。お菓子、内緒でうちゃる言われても要らん言うたよ。ご飯のお代わりもせんかったよ」


 幼い手が、指折り数える。


「でもダメじゃった? 学校の服、うてもろうたけえ? ランドセル?」


 一つずつ、ゆっくり淡々と。しかし淀みなく、彼は問い続ける。

 玲菜はそれどころでなかった。後ろ手をついたまま、貪るように息を吸い集める。


「ヘイちゃんはね、何でもうてくれるんよ。じいちゃん、ばあちゃん、キンジョノヒトじゃないけえ、ええんでしょ?」

「なっ、なんっ」


 ぜえぜえと声をかすれさせて。咳き込みながら、玲菜は言った。震える指を了に向けもした。

 数秒。彼は待ったが、意味の分かる言葉にならない。


「僕がいけんことしたらね、なんでいけんのか教えてくれるん。僕が嫌なことね、せんでもええ言うてくれるん。じゃけど、やってみよ言うて助けてくれるん」


 少し、早口になった。

 俺はどんな顔で聞いていれば。あるいは何かするべきか。考えようとしたが、やめた。


「そうじゃ。捨てる時、ママ言うたよね。あんたが悪いんよって。なんが悪かったんか教えて? 僕、どうしたら捨てられんかったん?」

「くっ——」


 呼吸の落ち着きかけた玲菜が、また苦しげに歯を食いしばった。自身の首に手を持っていき、そこにある見えない何かを取り除こうと力を篭める。


「教えてくれんのん? 聞きよるのに答えんのは悪い子、いうてママ言うとったよ」

「う、ぶはっ。はあっ、はあっ」


 何十秒かの間を空け、玲菜は溜めた息を吐き出す。その場で潜水でもしていたみたいに。

 何度か呼吸をすると、突然に息を止める。そしてまた首にかかった何かを、外そうともがく。


「言うっ! 言うけえ、殺さんとって!」

「うん」


 二度か三度目だ。僅かな息継ぎの機会に、玲菜は叫んだ。了が頷き、その通りに首は締まらないようだった。

 じゃあ逃げるのでは? と思ったが、動かない。しきりに後ろを向こうとしていたから、動けないのかもだが。


「だって、小学校の手続きせんといけんかったんよ」


 口の中でモゴモゴと聞こえにくい。が、およそそんなことを言った。何の説明にもなっていないのに、当人は頬を膨らませてそっぽを向く。

 涙か涎かで顔がぐしょぐしょでも、何ら感情が湧かない。沈黙が一分にも達する頃、了が怪訝に首を傾げた。


「なんね。お、親を脅そう言うん?」


 泣き出しそうに、玲菜の顔が歪む。

 そう言うが、了は何も言わなかったし表情も変わらなかった。変わらず感情の消えた、無理やりに読み取るなら憐れむような、そんな顔のままだ。


「わ、分かったわいね。あんた勝手に育てばええのに、入学とか給食費とか玲菜じゃないと手続きできんいうて、面倒くさいんよ。そんなんしよったら、ダンナにバレてしまうし」


 さっきまでのブツクサとした物言いはどこへやら。一転、キンキンと捲し立てる。


「赤ちゃん作って、結婚する言わせたんよ。もったいないじゃろ!」


 今度こそ満足だろう。とばかり顎を震わせながらも、玲菜は了を睨む。「は、放しんさい」とも。

 けれど。というか当然に、彼は俺に助けを求める。


「どういうこと?」


 と。


「ええと……了が悪いいうて勝手に言いよるだけで、お前はなんも悪うないわ」


 そんなもの、解説できるか。要約もせず結論だけを答えると、了はほんのり口角を上げた。


「分かった」

「ちょ、あんた! このバカ! 嘘吐き!」


 すぐさまの罵倒も意味が分からない。手間は省いたが、嘘は一つもないのだから。


「ママ」


 ひと声。

 玲菜は黙った。黙らされたのかもしれないが、俺には区別がつかない。


「僕が悪いことするけえ、ママは叩く言うたよね」

「ん、んんん——!」


 上からロープで吊るように、玲菜の身体が浮かんでいく。押し潰れた玲菜の声が、言葉にならないまま漏れ落ちた。


「僕が要らんけえ、捨てたんよね?」


 俺の背丈より高い位置。浮かんだから見上げるのか、見上げるから浮かぶのか。了はまばたきもせず、母親を見据える。

 それから右回りに、海のほうへ向く。同じく玲菜も同じ軌道で宙を滑った。

 何をする? 問う必要はない。次に玲菜が止まったのは、堤防より向こうへ行ってからだ。


「あんた玲菜より、そんな男の言うこと信じるん!」


 最期に機会を与えたのは、彼の優しさだ。そうは言っても親子だからとか、当人が言っても俺は信じない。


「ヘイちゃんしか信じんよ」


 およそ五秒。了の答えを聞き、理解する時間は十分にあった。

 しかし玲菜が次に何を言うこともない。まばたきの間に蒸発したかと思うくらい一瞬で、姿が消えた。

 すぐさま、大きな水飛沫の音がした。

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