第32話:あの命とこの命

 誰かが見ていたら、などとは頭になかった。

 逆らえない相手を一方的に。自分の思うまま、いいように扱った。その立場が逆さまになって、何を遠慮する必要があるだろう。


「ヘイちゃんっ!」


 だから、語気鋭く叫ばれても慌てなかった。ただ了ではない、覚えのある声がどうしてここに、と首を返す。


「ウイさん——?」


 姿を捉えた時、既に彼女は凄まじい勢い。大きく腕を振り、長いスカートを引き千切りそうなほど前後に力強く脚を伸ばす。

 視線も行く先も、俺や了を向かない。まっすぐに堤防へ、階段を上ったと思うと飛び下りた。


「ちょっ、何を!」


 追いかけ、俺も堤防に上る。覗くと水面が白く泡立ち、ウイさんも玲菜も見えない。

 しかしすぐ、頭が浮かんだ。

 黒いのと茶色いのと。黒いほうのウイさんが、茶色の玲菜を引き上げようとしている。腋に肘をかけ、岸壁へ近づく。

 二人とも足がつかないのだろう、何度も水を冠った。波とは呼べない、小さなうねりしかないのに。

 とりわけ玲菜は、水の上へ口を出せないらしい。ウイさんが、反動で自分の沈むのも構わず引き上げてやり、ようやく溺れた金魚のように息をする。


「ごぼっ——へ、ヘイちゃん!」


 目が合った。岸壁の凹凸に手をかけたウイさんと。

 玲菜にも岩肌を握らせ、なおかつ腰の辺りを支えてやる。だが何度も、玲菜は繰り返しに水底へ引っ張られた。飾り立てたネイルが弾け飛び、立つ泡に朱色が混ざるようでも容赦なく。

 支えるウイさんも巻き込まれ、がぼがぼと水を呑む音が耳に苦しい。


「了くんに何さしよるん!」


 何をさせているか、って。母親に捨てられた了が、同じことをやり返しているだけだ。

 彼を振り返り、また水面に目を戻す。


「しっ、死にとうない!」


 結んでいた髪が解け、どこが顔か分からない玲菜が呻いた。ウイさんが支えにする凹みを奪い、彼女を蹴りつけ。


「ウイさん!」


 短い黒髪が沈んでいく。玲菜は両手に支えを得て、岸壁に張り付いた。あちこち血を流しながら、必死にしがみついた。

 気づいた時、俺は堤防を踏み切っていた。近づく水面と、あまりに近く見える水底に肝を冷やしながら。

 ざぶ。と全身を泡に包まれたが、足のつく感じはまるでない。上からよりも暗く濁って見える水の中、発見したウイさんは胎児のごとく丸まっていた。


 近づこうにも前へ進まない。特に泳ぎが苦手でもなかったはずなのに、水を蹴る足がうまく伸びなかった。

 どうにか腕だけで、ほんの数メートルを行く。ウイさんに触れる頃には、息も体力も限界を超えた。

 無我夢中で浮き上がり、叫ぶ。


「ウイさん、ウイさん!」

「うっ……」


 彼女に意識はあった。開いた目に睨まれたかと思うと、大量の水分を浴びせられた。口からだ。


「げほっ、げほっ、おえっ!」


 まあ、おかげで無事らしい。海側に付いた階段へ引っ張ろうと手を取る。

 だが、振り払われた。だけでなく返す刀、いや手のひらが俺の頬を打つ。

 濡れた肌と肌が、爽快なまでの破裂音を奏でた。その大きさに適って、ジンジンと痛む。


「あたしはどうでもええ! あたしが死んでも、了くんのせいじゃないけえ!」


 また、彼女の手が俺の頬を襲う。今度は相撲の張り手みたいに、ぐいっと方向を変えられた。そこには見るからに全力を振り絞り、水面から顔を出そうとする玲菜がある。


「ひ、ひいっ! ひ……ぐぼっ!」


 血だらけの手で岸壁にしがみつき、必死に天を仰ぐ。飲んだ海水を吐き、怯えた目で足下を見る。

 放っておけば、きっと力尽きて沈む。


「あんなこと、了くんにさせてええんじゃね!」


 治まらない咳の合間に、ウイさんは怒鳴る。


「あんた二度と、あの子の頭ぁ撫でんさんな!」


 どういう意味だ。何を言われたのか、たぶん正確には理解できなかった。

 けれど、何となく。了と話さなければいけないと思う。


「了、了!」


 呼んですぐ、堤防に彼の顔が覗く。


「ヘイちゃん大丈夫?」

「俺は大丈夫よ。あの、一旦タイムにしてくれんか? 休憩」


 うまく説明する自信がない。いつものように、ええよと応じてほしい。なんて考えは、やはり甘かった。


「なんで?」


 いつもと変わらず見える了が、首を傾げた。

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