第30話:大切なのは一つ
「ねえママ、なんで僕を捨てたん?」
俺と玲菜が睨み合い、歯を軋ませた。その沈黙に、了は問う。
知りたい、と。
少し困ったように眉を下げ、怒りも悲しみも感じさせない。いつもの彼だった。
「ねえ、黙っとらんで。何か言うて!」
答えず、ヒステリックな玲菜に怒鳴り返したかった。母親だろうが、と。
「あんた、答えたれや。嫌う理由はあったんかもしれんけど、やってええことと悪いことがあるで」
親子は必ず好き合うものだ、なんて妄想はしていない。だからこそ、人を人とも思わない、了が居ないように振る舞うのが許せない。
「そ、それはこっちのセリフよね。
「はあ……?」
くっきりと眼を浮かび上がらせる、濃いメイク。それも手伝い、ひん剥いた玲菜の目玉が飛び出したかに見えた。
「お、おい。お前の母ちゃん大丈夫か?」
「それ! それやめて! どこで何を聞いてきたんか知らんけど、嫌がらせなら帰ってや!」
何らか、病でも抱えているのか。幼い子に聞くことでなかったが、思わず言った。
が、玲菜の声に会話を阻まれる。了に首を向けるのさえ、元に戻せと顎をつかまれそうな勢い。
「うーん。僕、ママには見えんみたいじゃねえ」
「は? お前まで何を言いよるんや」
初めて見る腕組みは、俺の真似か。しかし真面目に考える顔は、ここまで何度も見たものだ。
「やめて!」
どうしたんだ、と了の脇へしゃがんだ。するとひと際大きく、玲菜が叫ぶ。ガチャガチャと音を立て、赤ちゃんにかかったベビーカーのベルトを外しにかかった。
「ウイ姉ちゃんがね、言うたん。僕のことね、見える人と見えん人が
「ウイさんが? そんなん、いつ」
「お風呂入った時」
頭の中が「はあ?」「ええ?」と、疑問の声ばかりになる。冗談にしては、店構えを大きくしすぎだろう。
いやウイさんが仕込んで、披露できずじまいだったのか。だとすると了の母親もグルになり、俺だけを騙す壮大なネタということだ。
そんなバカな。
「あの。ほんまに見えんの?」
いまだベルトのバックルを外せない玲菜へ、間抜けな質問と分かっている。だが他に思いつかなかった。
彼女もキッと非難の目だけで、答えてくれない。
「ヘイちゃんが聞いてくれる?」
「え。そりゃ別にええけど」
なんとも不思議な話だ。
了の姿も声も、俺には普通に見えて聞こえて。玲菜とだって同じく。それなのに、同じ日本語で話しているのに。俺が通訳として成立するとは。
「僕ね、痛かったん」
「ん?」
「お正月でね、寒かったん」
「うん」
また唐突に何を言い出したのだろう。首を傾げた俺だが、とりあえず最後まで聞く。
「ヘイちゃんが来てくれた池。僕ね、ママに捨てられたん」
「うん……」
「お水に落ちたのに、痛かったん。沈んでからね、息できんでね、
まさか。
喉が詰まる。一瞬、目の前が滲んで見えなくなった。けれど拭い、彼から目を離さない。
「ずうっとね、寒いんよ。お水から上がってもね、タオル貸してくれても、お風呂入っても」
ああ、そうか。了をおんぶしても、いつだって肌がひやりとしていた。子供にも冷え性があるんだなくらいに思っていた。
バスで、電車で。なんだか視線の向いたのはそのせいか。駅のゲートを見たおばちゃんが、「なして?」と言ったのも。
「了、悪い。俺、気づいとらんかったわ」
「ええ? ヘイちゃん
必ず、俺には笑ってくれる。母親に向けていた、凍えた視線を解いて。
俺には何もできない。何もしてやれなかった。
だからせめて、了の疑問に答えをやりたい。
「おい。あんた」
「もう、なんで取れんの!」
もはや会話をする気はないらしい。ひょっとして俺が乗っても問題なさそうな、骨太のベビーカーを蹴るばかり。
「あんた、了を捨てたんじゃの。蝿ヶ峰の池に、真冬に、自分の子供を
ピタリ、真白い手が動きを止める。過呼吸を起こしそうだった荒い息も治まり、今度は窒息したかというほど静かになった。
「答えぇや、あんたの子が聞きよるで。なんで僕を捨てたんか、いうて」
「ど、どこで——誰に何を聞いたんか知らんけど、こっちは何のことか分からんけえ」
ゆらあっと彼女は立つ。血走った剥き目が睨むようで、一瞬たりと同じ位置にない。
見え透いた開き直りを放ったかと思うと、挿したままの鍵につかみかかってひねる。
「おい」
どうする気だ。問おうとしたが、扉の開くほうが早かった。およそ予想の通り、玲菜は扉の内側へ駆け込む。
腕を伸ばし、閉まりかけた戸を押さえた。
この赤ちゃんまで見捨てるのか、とは思っても声に出せない。
「なんねあんた! 玲菜は悪うないんよ、帰れ! 死ね!」
「
俺の手を、玲菜は蹴りつけた。しゃがんでいたせいで、踏みつけられるほどに低い位置だ。
放せば扉を閉められる。姿勢を直そうにも、蹴りには容赦も合間もなかった。
「ママ」
短く、冷たく。了の声が、やけにはっきりと聞こえた。辺り一面、空気さえも動きを止めたみたいに静かだ。
ほぼ同時、玲菜も足を上げたまま動かない。
「ヘイちゃんはね、友達んなってくれたんよ。ずっと一緒に
「くっ、う……」
焼けつきそうだった、早すぎる真夏の空気が冷えていく。彼がひと言を発するたびに。
息を詰めた風に玲菜が呻いた。膝を折り、タイルの床に尻もちをつく。その顔はみるみる青褪め、何もない己の首から何かを引き剥がそうともがく。
「ひ……!」
俺まで苦しくなりそうな苦悶の中、小さな悲鳴が上がる。視線の向くのは、了に。
やっと。この母と子は対面を果たしたらしい。
「なんで? どうしてなん? どうして僕を捨てたん? ねえママ、教えて」
大人の足で四歩の距離。手の届かない母親へ、幼い子は喜怒哀楽のいずれもなく問う。
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