第29話:出遭う

「あっママの——名前?」


 途中から、了の声が疑問形に変わる。彼の視線は、同じ表札を見上げていた。


「ええと、どうじゃろ、名前が一緒なだけかもしれんけど」


 小一って漢字が読めるんじゃったっけ?

 と、バカなことを。母親の名前くらい、目にする機会は山ほどあったはず。だから、苗字が違っているのにも気づいた。


「お家、ここじゃなかったん?」


 息を呑む俺に、首を傾げる了。

 ああ、住所が違う。そう言ってこの場を離れ、適当に付近を歩き回ろう。締め括りに、また別のところへ引っ越したらしいと言えば終わりだ。

 きっと誰も疑わない。今以上には、誰も傷つかない。


「ああ」

「違うん」


 頷いた。すると彼は疑う様子もなく、きょろきょろ見回す。

 さっきの女性は遠かったし、顔もこちらへ向かなくて分からなかったのだろう。ほっと息を吐き、少なからずニヤリともした。


 ——うるさいわ、しゃきらもなぁとか言うなや。


 悪寒が走る。了のことを想うのに、なぜかとんでもない顔が浮かんだ。

 違う。俺は


「違う」

「ほうなん。じゃあ、どこかねえ」

「いや、違う。この家でうとる」


 何を言っているんだ。わけの分からない俺の言葉に、了はまた「ほうなん」と。今度は微笑んで。


「聞いてみんと絶対じゃないけど、たぶん間違いないわ。悪いの」

「なんで? ヘイちゃん、ちゃんと約束守ってくれとるんよ」

「いや、まあ」


 曖昧に首を振り、否定した。

 しかしあの女性が了の母親なら、今は留守だ。他人の家の前で、長々と喋っているのもどうか。

 掘り下げるのを避けた、自分へのあからさまな言いわけ。しかし実際に怪しくもある。彼の手を引き、女性の去った道まで行く。


るわけないわな」


 ここから来たんだっけと思うくらい、先ほどと似た細い道路。微妙にカーブする道筋の左右へ商店や公園などは見えず、誰の姿もなかった。

 たしか荷物は、小さなバッグか何かだけと思う。


「探しようもないし、その辺で待つか。ベビーカーで、何時間も出とらんじゃろ」

「うん、待つ」


 今が午前十時過ぎ。遅くとも昼食の時間には帰ってくる、という予想だ。

 アパートが見えて、了が退屈しないところ。考えるまでもなく、堤防しかない。

 手近な階段を使い、堤防の上へ。七、八メートルか、思いのほか低い位置に海面があり、一歩退がった。


 右と左の岸壁に、あちらはレジャーボート、こちらは漁船が繋がれていた。視線を遠く、二百メートルほどの対面へ向こう岸がある。

 けれども強い潮の香、行き交う船。海であることは疑いない。地図で見たまま、洞海湾は細長く、穏やかな波の底が見通せた。

 堤防の海側にも階段があった。水際まで下りた了は、また魚影を探す。しかし直に「らんねえ」と、足元の水面へ小石を投じ始めた。指先ほどもない小さな石だ、別に構うまい。


 それにしても。

 既に新しい夫と子が居るのには驚いた。堤防に腰掛け、了を見下ろし、今さらの疑問に行き当たる。


「了、父ちゃんは?」

「父ちゃん?」

「いや、何でもない。知っとるんかな思うただけよ」


 彼も、彼の祖父母も、父親について言及しなかった。問わなかったから、かもしれないが。

 さっくり何でもないように聞いてみれば、質問に質問が返された。俺が母ちゃんと言っても、ママと翻訳していた了なのに。

 何それ、と幼い顔に浮かぶ興味の色は薄い。

 空気みたいなもんか。納得したこと、なかったことにした。


 それから随分と待った。通るのは船ばかりで、歩く人のないのが救いだ。

 しばらくぶりにスマホを出すと、もうすぐ午後一時。


「昼飯、買ってくりゃあかった。了、腹減ったじゃろ」

「ジュース飲みたい」


 言われてみれば、カンカン照りになっている。海風が涼しいからいいものの、このままでは熱中症だ。

 よく考えると、家の外で捕まえる必要はない。どこかで時間を潰し、また戻って来た時に在宅していればそれで。


「うん、何か食べ行こ」

「食べる!」


 元気良く立ち上がって、彼は手をはたいた。パンパンと軽快な音と共に、白い煙が広がる。

 どれだけ砂遊びを楽しんだのか。見れば了の周り、足場も岸壁も草の一本、砂粒の一つさえない。手の届く範囲、あらゆる物を水中へ投げ込んだらしい。


「うわ、そんな綺麗に掃除せんでも」

「ダメじゃった?」


 なんというか、ちょっと引いたと言うのが近いかもだ。

 ただ俺も、入れ込むと自分の世界に没頭する子供だった。落書き帳からクレヨンがはみ出しても気づかないくらい。


「いや、ダメじゃないけどの」


 そんなことより、行こう。手を伸ばせば、了は当たり前に握り返す。俺に問題なのは、ここのところだけだ。

 反対の手も握り、絵本のカブみたいに引っこ抜く。両手でぷらんと揺れながら、「あはははっ」と笑ってくれる。

 妙な気分だ。何も不安がる必要はないのに、安心したとしか言いようがない。


「あ、ママ?」


 宙吊りのまま、了の目が遠くへ向いた。俺の背中へ。

 ようやくか。昼食がおあずけになるけれど、済むべきことの済むほうがいい。彼を下ろし、振り返る。

 黒いシャツとベビーカー。うん、出かけていったあの女性と思う。幅の広いピンクのパンツ、ツヤツヤに光るサンダル。首や手首にもチェーンやアクセサリーが見えるし、肩下までの髪は真っ茶色。

 アイドルからママになりました。みたいな写真を真似たような出で立ち。ひと言で表せば、ギャルっぽい。

 苦手だ。


「り、了。最初、何て言う?」


 もう彼女の住むアパートのすぐ裏くらいを、こちらへ歩く。あちらも俺達に気づくはずだし、グズグズしていられなかった。


「なんで僕を捨てたん? て」

「あー、まあ。ほうか」


 ぶれない。当たり前だ、それ以上に重要な問いなどあるわけがなかった。

 だがそういきなりも、さすがに酷な気がする。


「あのの。悪いけど、俺が先に話してええか? 了の聞きたいことは邪魔せんけえ、ちょっとだけお話さしてくれいうて」

「うん、ええよ。ヘイちゃんの言う通りにする」

「ほうか。信じてくれて嬉しいわ」


 この期に及んで、と言うのもおかしいが。了はにんまりと笑う。将来、かなりの大物になるかもしれない。

 頭を撫で、階段で身を隠すように頼んだ。もちろん快諾で屈み込む。


「あの、いきなりですんません」

「はい?」


 ちょうど目の前の道路へ出てきたところ。軽く手を上げて声をかけると、これと表情もなく答えた。


「セールスとかじゃないんで、ちょっと話させてもろうても?」

「え? ええ」


 我ながら怪しい。彼女に訝しさが見えるのは、ヘタクソな会話のせいか、広島弁のせいか。

 ともあれゆっくり、道路を渡る。野生動物に近づく心持ちで。


「楽道、玲菜さんで間違いないです? 結婚されたみたいですけど」

「はあ……」


 誰だお前は。そういう顔ながらも彼女、玲菜は頷いた。

 住所は祖父から聞いたこと、結婚は表札から判断しただけ。手短に説明すると、より剣呑に眉が吊り上がる。


「細かいことはええけえ。何の用?」

「よ、用があるんは俺じゃなくて。連れてきたんです」


 話の中身が中身だ、一歩の距離まで近づいた。玲菜も自宅の扉へじりじりと近づくので、合わせて。


「誰を?」


 訊ねつつ、彼女はポーチから鍵を取り出す。チャラチャラと音を鳴らし、鍵穴へ挿し込んだ。

 ベビーカーには赤ちゃんが眠っている。どれくらいだろう、立って歩いてもおかしくないように見えるが。

 この子と会わせるのか。

 避ける方法を考えたが、バカな俺に思いつくことはない。


「了!」


 どうしようもない。

 諦めて、呼んだ。堤防へ向き、手を高く上げて。


「……了?」


 呻くような、怒ったような、じめつく低い声。

 そこまで嫌うか。ちらり彼女に目を向けると、メイクした頬や首すじを力任せに擦る。


「気ぃつけえよ」


 顔を出した彼からも目を離せない。堤防から降りる時はジャンプ、と法で定められているようだ。

 時既に遅しの苦言はともかく、了は無事に母親と再会を果たした。


「もうええん?」


 母親の真横に気をつけで、にこやかに俺を向く。

 それはどんな感情だ。奥歯を噛みしめ、答える代わりに玲菜へ問う。


「どうしても聞きたいことがあるいうて。迷惑なんは分かっとりますけど、遥々来たんです。答えてやってください」


 了の手を握ってやろうか。背中を支えてやろうか。悩んだが、ちょっと指し示すだけで、今は手を出さない。


「どういうこと?」

「どう、いうて」

「り、了を連れてきた言うたよね」

「ええ、ここに」


 なんだ?

 玲菜はしきりに息を吹いた。俺の示した、了の位置を見たかと思うと、自分の家や辺りをぐるりと見回したり。


「どこにる言うんね。変な冗談、やめてや」


 終いにそんな、意味の分からないことを言った。低く静かに、俺を呪うかの声で。

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