第26話:冷たいと温かい
雨も風も、幾分か弱まった。軒から軒へ、風上に顔を向けて走る。
と言って小走りにも足りない速度で。おかげでまあまあ、バス停へ着くまでに濡れてしまった。短い前髪から、気まぐれに雫の落ちるほど。
次のバスまで、十分ちょっと。
鬱陶しい。目頭へ流れ込む雨水と、自分自身の上がった吐息が。
早めに来たりしないだろうか。期待して、来る方向を見る俺が嫌だ。彼女の居場所を振り返るようでもあって。
あの人、一人で帰れるんか?
広島までの運賃、持っとるんか?
違う、そんな心配などしていない。強く、目をしばしばさせた。彼女が頭に浮かべば、別の男の顔がちらつく。
止めた足が、イライラと勝手に足踏みを始める。それが歩みへ変わるのには、数秒しかかからなかった。
「冷たいじゃろ。どっかで新しいタオル買って、拭いちゃるけえの」
後ろ手にかかる重みが冷たい。駅に着いたら、服も買ってやろう。カップラーメンも食べるか?
雨に濡れるのなどものともせず、了の息は規則正しい。いつも彼に救われてばかりだ。
下関駅までは、国道を道なりに。三十分ちょっとで到着し、まだ午前六時前。幸いに雨はやんだが、俺達はずぶ濡れだ。替えの服を買おうにも、そんな店は開いていなかった。
偶然、二十四時間営業のコインランドリーを見つけた。素早く乾燥が云々という売り文句で、洗濯すればいいと気づく。初めて利用するわけでもないのに。
その間、了には俺のシャツを被せておけばいい。脱がせていると、ようやくお目覚めだ。
「ん。服、脱ぐん?」
「びしょびしょになったけえ、洗濯しょう」
毎朝のことだが、彼は寝起きの悪さと無縁らしい。起きた瞬間から状況を理解し、自ら待合いのベンチに立って服を脱いだ。
「パンツも?」
「パンツも」
下着のシャツを着せてやると、恥ずかしがる素振りもなく子供用の白いブリーフが差し出された。何だか懐かしい。
洗濯と乾燥とで、およそ一時間。全裸に近い了を連れ回すわけにもいかず、おとなしく店内で待つ。
海辺でなく、見通しのいい国道沿いからも外れた。風景が変わったからか、座っていられそうだ。
むしろ油断すると、意識が飛びそうになった。俺の隣で足をぷらぷらさせていた了が、心配そうに覗き込む。
「眠いん?」
コンビニで買ったフカフカのバスタオルに包まり、ゴマフアザラシみたいだ。
「いや全然——眠いわ」
強がろうとしたけれど、やめた。些細なことも、彼に嘘を吐きたくない。
「寝んちゃい。お洗濯終わったら、起こしたげるけえ」
「ほうか? じゃあ悪いけど、そうさしてもらうわ」
頭を撫で、目を瞑る。ゴゥンゴゥンと重々しい洗濯機の音が遠退いていく。
ふと、なぜだろうと疑問が浮かぶ。どうして了は、ウイさんの行方を聞かないのか。
お返しのつもりだろう。小さな手が俺の胸をトントンと叩いてくれる。
まあ、後でええわ。深い谷へ落ちるように、俺の意識は暗く閉じた。
——寒気がして、ぶるぶるっと震えた。開けた視界に、知らない中年女性が入ってくる。普通にコインランドリーの客だが。
その人は手早く機械を操作し、さっさと出ていった。ちらと俺を見た気もするが、それだけで。
了とお揃いのバスタオルが俺の肩にもある。しかし濡れた服を着たままで、おまけに梅雨時の店内はほんのりと冷房がかかっていた。
なんだかぼんやりするし、風邪をひいたかもしれない。
「あれ、もう八時になるんか」
洗濯機が止まっていて、ついでに時計を見た。驚いて、寝ぼけた感覚が一気に醒める。
「起こしてくれて
「ヘイちゃん、気持ちよさそうに寝とったもん」
「気持ちよさそう?」
この冷たい服を着たままで。念のために指で触れると、ほとんど乾いた気配もなかった。
よく分からないが了の気遣いだ。「ありがとの」と頭を撫でる。
さっそく洗濯機の蓋を開くと、乾いた熱気が溢れ出た。中へ入る勢いで了の手が洗濯物へ伸びた。
「ふっかふかじゃねえ。気持ちええねえ」
二人分の服とタオルに、ほとんど全身を隠しながら運んでくれる。座っていたベンチへ放ると、すぐに自分のブリーフを探し出した。
「それ履いたら、チンチンもふっかふかになるで」
「ほんま!」
そんなに嬉しいか。言ったこちらが訝るくらい、彼は顔を輝かせた。
俺も手伝い、全身を洗いたての衣服で纏う。どうやら
「ヘイちゃん、気持ちええねえ。溶けちゃいそうじゃねえ」
「ぷっ。あはは、溶けちゃうか、ほうか」
表情だけなら、間違いなくトロットロだ。可愛らしくて楽しくて、声を上げて笑った。
「ヘイちゃんも早う着て。気持ちええよ」
「お。俺もか、タオルで隠しといてくれるか?」
「ええよ!」
駅のトイレで着替えようと思っていた。だが俺の縦縞トランクスを持つ了を前に、断る選択肢が存在しない。
「ほぉ、堪らんの」
「タマランねえ」
溶けちゃいそう、を実感した。ガラス張りの店内で、三百六十度の視線を警戒した緊張感を差し引いても。
清潔な服が気持ちいいのはもちろんのこと。温かいのがこれほど爽快とは目から鱗だった。
そのおかげか、着替えた瞬間から寒気を感じない。風邪をひくどころか、昨日や一昨日より快調な気がする。
「よっしゃ、気分のええとこで出発しょう」
「しょう!」
手を、打ち鳴らすのと繋ぐのとを同時にこなす。荷物も忘れずに背負い、下関駅へ。
もう人目やカメラを気にする必要はない。堂々と電車の切符を買って、目指すは小倉駅だ。
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