第25話:どうでもいい

「了、くん……」


 ぼそり。呟いたウイさんは、しばらく彼を見つめた。いや段々と這い寄るように、撫でる俺の手、腕、肩、顔へと瞳が動く。

 と思えば、また了に戻る。この期に及んで、まだ言い残しがあるのか。繰り返しの動作が、そうとしか見えない。


「もしかして、じゃけど」

「はい?」

「何ていうか、凄い聞きにくいんじゃけど」

「今さらでしょ」


 案の定。薄っぺらい言葉の物差しが、繊細に距離を測ろうと伸びる。

 俺の返答は、叩いて払うかの声になった。心穏やかにとは、とても無理だった。


「まさか死のうとか、した——?」


 彼女を笑えない。問われた瞬間、合っていた視線を逸らす。

 ああ、した。と、答えるのに困難はなかった。乗っていったスクーターを池に落とし、同じ場所へ飛び込むつもりだった。


 行方不明という形で、この世からフェードアウトできれば。俺を嵌めた誰かに「あいつ死んだ」と笑われずに済むのでないか。

 生き続けるなんて、もうどうでも良かったけど。せめてそんな反抗くらいはと考えた。

 崖のギリギリ、あと数センチ。未来が変わったのは、了と出会ったからだ。


「なんで急に、そんなこと聞くんです?」

「その。まさかと思うて」


 解答になっていない。いたたまれない風に、何かごまかすように、ウイさんの目も泳ぐ。


「ああ、そういう」


 想像した。俺が死ぬか、死なないか。どんな場合に彼女は気にするのだろう。

 それはもちろん、湯摺課長だ。


「アレですか。高卒で採用してやった使えんバカを追い詰めたら、自分で勝手に死んでくれるわ。いう課長の魂胆ですか」

「えっ、ちっ、違う! そんなんじゃのうて」

「違うんです? 俺を狙うん、湯摺課長が選んだんでしょ。同期まで使つこうて、死んでくれりゃあ手っ取り早いとでも言うてましたか」


 バカバカしい。捨てられて、今は恨んでいるみたいな態度をしても、これだ。

 誰が誰に、どんな愛情表現をしても好きにすればいい。無関係の俺を巻き込まなければ。


「それは、うん。家族とも縁が薄うて、頼る相手もらんじゃろって」

「何でも正直に答えりゃええ、いうもんでもないでしょ」


 どこか奥底から、笑いが込み上げる。愉快な気持ちなど欠片もないけれど、笑わずにいられない。

 堪えようともしなかった。しかし喉が引き攣って震える。「ふっ、ふふっ」という声だけでは、泣いているのか俺にも判別が難しい。


「へ、ヘイちゃん。あのね、でも、あたしが言いたいんはね——」

「笑えますよ。電話してきた同期の声、自分が捕まるんかいうくらいに怯えた感じがうまかった。録音しときゃかった」


 聞きたくない。ウイさんの境遇に同情する部分もなくはないけれど、そこまで俺は人間ができていないのだ。


「お願い、聞いてや。あたしね」

「もう、どうでもええんですよ」


 まだ何を積み重ねたいのか知らないが、はっきり言い捨てた。ナップサックを前に抱え、了を負ぶう。

 声の震えるのは動きながらだからだ。みっともなく自分に言いわけをして、歩き始める。


「ヘイちゃん!」

「気安う呼ばんとってください」


 背中で聞こえる絶叫に、ボソッと返した。聞こえたか分からないが、どうでもいい。

 親や兄と疎遠なのは、直属の上司にしか話していないはず。なのにどうして湯摺課長が。

 信用できるものなんて、何一つない。

 そんな世の中、こんな俺の命なんかどうでもいい。唯一、背負ったこの子を送り届けるまでは。

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