第24話:今はまだ
「いや、浮橋さんて。出産で辞めたって——」
たしかそんな風に聞いた。というだけを頼りに、辻褄が合わないと言いかけた。
「そういう話になっとるん?」
ギラッと血走った眼。上目遣いに覗いた一瞬のそれに、口を噤まされた。
カクカク、首を縦に振る。
「そか」
彼女は短く、地面のダンボールに吐息が九割の声を落とした。他にも肩とか、色々なものが落ちたように思う。
「西日本鉄鋼が撤退するいうて、何年も前から言われとったでしょ。それで身売りすることになったらしいわ」
まだ俺は、何をも言えない。ウイさんは正座で、怪談なら雰囲気がピッタリという重い口調で話し始めた。
人の流れの痩せた暮市の街並みが目に浮かぶ。事業の大部分を与えてくれた、親のような会社がなくなる。となれば身の振り方を考えなければならないのは、個人も会社も同じ。
しかし——
「高く売るために、データを?」
漏れたのでなく、売り渡した。そういうことかと問えば、「どうせ売るなら」とウイさんは頷く。久しぶりの気がする顔を見せて、改めて。
「
脈絡なしに吐かれた、文句なく日本の三本指に入る大企業の名は暗号めいた。
だが解読の鍵を受け取ったばかりだ。菱立重工と湯摺計器をスマホで検索した。すると来年度中に吸収されるというニュースが、三つ四つほど当たる。
どれも先週の日付けで、ざっと読んでみたが同じ記事の使い回しだった。
「話題にもなってないんですね、全然……って。あれ?」
検索ワードを変えてみる。湯摺計器、湯摺計器と漏洩、湯摺計器と人吉平太。
前職に関わる情報は、いくらでも出てくる。だがデータを盗まれたと、犯人は俺だと、示すものは一つもない。
「なんで。なんでないんですか、俺の記事」
アパートから逃げ出して今日まで、地に足がつかないでいた。いつ見つかり、覚えのない何億もの金を返せと言われるか、生きた心地がしなかった。
どんな報道がされているか知りたい、などと考える余裕もなかった。
「だってまだ、誰も知らんよ。あなたが、じゃなくてあたしがデータを盗んだこと」
「誰も?」
そんなことがあるのか。犯人が俺か彼女かは置いても、何億もの損害が出たものを。
「いえ湯摺社長とか、役員は知っとると思う。じゃなくて世間とか、警察とか」
「……じゃあ、俺」
今、現実に見える長い通路の先。大勢の人達が右へ左へと駆け回る。仕事に応じた、エプロン、前掛け、ツナギ、長靴。
対して俺は、適当に買ったちぐはぐなワイシャツと作業ズボン。ナップサックにはいまだ洗っていない、逃げ出した時の服がくしゃくしゃに詰まっている。
山の中、足音や人の声がしたと感じれば、全身を硬くした。眠っていても目覚めたし、聞き違いと思ってもしばらくは落ち着かない。
交番があれば回り道は当たり前。遠目に区別のつきにくい、あれは警察官かガードマンかと神経を磨り減らした。
「俺が捕まるいうの。何億の損いうて、嘘ですか」
およそ一ヶ月。防犯カメラや人の目を気にしてきたのは、まったくの無意味だった。
そんなむごいこと、それこそ嘘だと言ってくれ。いやその通りだと、早く楽にさせてくれ。どちらが本心か、自分でも分からない。
「うん、あなたは捕まらん。少なくとも湯摺計器いう会社があるうちは、何もしてない証拠ばっかりが残っとるけえ」
「どういうことです?」
ウイさんの説明してくれた内容は、俺には難しくて理解しきれなかった。
ただ要約するなら、サーバー室を映しているカメラと、サーバー内部に蓄積される作業内容の記録。そのどちらにも俺の行動が全て残っている、と。
「パソコンのパの字も知らんような俺に、改ざんできるわけがない?」
「うん、そう。でもあなたに技術がないんは、四苦八苦しとるのを見とった周りの人が
同期や同僚が居れば、機械オンチの人吉平太にそんな犯罪は不可能だと証言してくれる。たしかにそれは、時間が経てば曖昧になっていく。
「あと、業務に必要なデータはずっと残される。じゃけど業務データを守ってきた、いうことのデータは処分される。だって会社が吸収される時、業務データは
必要なデータを守ってきたデータ。早口言葉かなぞなぞか、頭がパンクしそうだが、つまりは防犯カメラやサーバーでの作業記録だろう。
俺が直にサーバーを操作するなんて、ログインして最初の管理画面を見るだけだった。書類の手続きに必要な情報がそこにあって、書き写すのに。
そういう何もしなかった積み重ねが、俺を守っている。しかし湯摺計器という会社が消滅すれば、俺が犯人でない証拠がなくなる。逆にそれまでは、俺を犯人に仕立てられない。
「じゃあ来年、吸収が終わったら。やっぱり俺は犯罪者いうことですか」
必死に考え、正解と思う答えを導き出した。けれどもウイさんは首を横に振る。
「ううん。西日本鉄鋼が暮市から
「なるほど、それでも何かあった時の保険ですか。俺は」
今度は頷く。細かなことはさておき、およその事態は呑み込めたらしい。
寝起きの。もとへ寝抜きのぼんやりした頭も、ややこしい問題を解かされたおかげで明瞭になった。「じゃあ」と、次に問うのにも迷いがなくなる。
「ウイさんは俺の監視役か何かですか」
「えっ、いや。ううん、違う、違うんよ」
神妙に伏せていた彼女の視線が、俺の正面に向く。顔色もさっと白んで、いかにも意外で心外と訴えた。
「何が違うんです? 湯摺課長からしたら、俺が今すぐに動き始めたら困るわけでしょ。例えば西日本鉄鋼の担当者に電話するとか」
スマホの画面に指を向ける。俺だって営業窓口の一人や二人は知っているのだ。
でもこれには、ウイさんは慌てた様子がなかった。
「ええよ。連絡しても」
「したら、ウイさんも困るでしょ」
「まあ実行犯じゃし?」
笑った風に語尾を上げるが、彼女の声は震えた。
「じゃあ、なんでですか。まさか偶然とは言わんでしょ、俺に着いてきたん」
とりあえずスマホはしまった。今後どうするかは、じっくり考えなければ決められない。
「信じてもらえん思うけど、偶然なんよ。スジグランドで買い
最初に会った時、彼女はスジグランドのレジ袋を提げていた。どう見たって自宅から二、三分の服装で、俺達の乗ったコミュニティーバスに乗り込んだ。
「俺の顔を知っとったいうことですよね。
「うん。ヤスちゃ——湯摺課長に、写真見せてもろうたことあるけえ」
課長の名前は
あれでヤスちゃんとかムカつくわ。という本音は言わないでおいた。
「ヘイちゃんが、あたしの身代わりにされた人いうて気づいて。どうしたいとか考える前に、追いかけよった」
「謝ろう、とかですか。信じられる思います? 俺んとこへ警察が来るいうて電話してきたん、同期じゃったんですよ。お互いに番号は知っとって、初めてかかってきたんがそれですよ」
ウイさんの歯がキュッと鳴った。何か言いかけ、口をモゴモゴさせて呑み込む。それが五度ほども繰り返された。
「許してもらえるとは思わんけど、ごめんなさい思うとるのは信じてほしい」
そんなことを改めて言わなくとも、彼女に悪意がないくらいはもう知っている。お調子者で、大して器用とかでもない、ただの面白いお姉さんだ。
だからこそ、信じるも信じないも答えられなかった。
「なんでですか」
「な、何が?」
「なんでそんなことしたんですか。ウイさん、そんな悪いことする人じゃないでしょうが」
俺はウイさんを責められない。実は彼女が黒幕で、お前を選んだのもあたしだ、とでも言われない限りは。
きっとムカつく答えが返ってくる。だとしても聞いておきたかった。
「だって……」
「だって?」
「もう会社がお終いいうて。あたしがデータ盗んであげたら、どうにかなるいうて」
「頼まれたけえ、ですか」
これでもかと眉を顰め、窄めた口がゴニョゴニョと。
恥ずかしさでというなら、どう恥ずかしいのかも明白にしたい。とまではさすがに言葉にしなかったが。
「小学生じゃないんですけえ」
代わりに言ったのと、どちらが辛辣だったろう。まだ起きる気配のない了と見比べながら。
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