第23話:見返り
問うたところで、やはりウイさんは眠っているも同然の様子だった。むにゃむにゃと言葉も不明瞭になっていく。
持っていたグラスをテーブルに置く。勢いが過ぎ、半分残っていた水が空になった。
「ヘイちゃん、こぼしたらいけんのよ」
元の椅子へ座る。と、濡れたところを了が拭いてくれた。わざわざ席を立って、台拭きで。
「ああ、悪い……」
悪くない。きっと交際相手が湯摺課長として、俺がウイさんに憤ることは何もない。
そう自分に言い聞かせても、彼女を収めた視界が細まる。正面から見るのを堪えられず、背けたくなる。
「了、腹いっぱいんなったか?」
「お腹いっぱいよ」
「ウイさん、自分で歩けんけえ。手ぇ繋げんけど悪いの」
「ええよ。ウイ姉ちゃん、赤ちゃんになってしもうたねえ」
支払いを済ませ、彼女を負ぶって店を出た。さっきと違う若い男の店員は、マニュアルの臭いのする「またお越しください」だけで店の奥へ戻っていった。
建物の外、長い軒のあるおかげで直ちにずぶ濡れとはならない。しかし吹き込むのと跳ねるのとで、時間の問題でもある。
近くの山など行けそうになく、当てもなく軒の続くほうへ建物の壁を伝う。
唐戸市場は近隣の港から魚介の集う水産市場だ。だから通路や搬入口だらけで、つまり人の入り込める凹凸が多い。
格子のシャッターが下りていなければ、だ。
百メートル四方もあるか。長い壁の一辺を終え、角を折れる。囲む道路を挟み、目の前が波止になった。
水面を照らしていない街灯の明かりでも、海が溢れそうに見える。
「了、すぐじゃけえ。座れるとこあるけえの」
俺のズボンをちょっと握って、彼は建物側を歩いた。顔も海の見えないほうへ不自然に曲げる。
まあこんな海は、俺だって怖いけれど。
すぐにまた角を折れ、波止でもない海に面した側に出た。隙間のない強い雨の音に被せ、時に波の音が耳を打つ。
ドォン、と。普段、思い浮かべるような生易しいものでない、巨大な太鼓へ入れられたかに思う。
「自販機じゃ」
灯りの点いた自動販売機が、軒下よりも随分と建物の内に見えた。足を早め、「了」と声をかける。
やはり、シャッターのない広い屋根付きの空間があった。
「ここなら濡れんわ。飲み物もなんぼでも買えるし」
変わらず海を見ようとしない了だが、頷くだけはしてくれた。自動販売機の背負う太い柱の陰に行き、彼を座らせる。
見回すと据え置きの灰皿やベンチがあった。その裏に畳んだダンボール箱も。持ってきて広げると、どうにか三人で寝転べる。ウイさんを下ろし、腕で自分の額を拭う。
「寒うないか?」
一枚だけのバスタオルを了にひっ被せる。俺はと言えば、何百メートルか走った直後みたいに火照っていた。
理由は考えない。柱の脇から顔を覗かせ、堤防に隠れた波を意味なく睨みつける。
「僕、大丈夫よ。寒かったら、ウイ姉ちゃんが寝られんねえ」
言う通り、彼女は自身の足を抱えて丸まった。その上にバサッと、バスタオルを譲り渡す了。
手先、足先、肩や首の出ないよう。端を整える手つきには、そういう気遣いが見えた。
「偉いのぅ」
「僕?
作業を終え、彼は俺の横腹へ戻ってくる。そのままあぐらの上へ半身を投げ出し、ワイシャツに顔を埋めて目を瞑った。
波が強く打つたび、薄目を開ける。小さなタオルを取り出し、顔を覆ってやった。これなら了の目に映るのは、俺の腹だけだ。
「ほんま偉いわ。見習わんと」
冷えた小さな頭を撫でながら、スマホでタクシー協会の電話番号を調べる。しかし繋がっても「朝まで予約でいっぱいなんですわ」と。
では歩いて行けるホテルはないか。俺の都合で彼と彼女を危険に晒したままではいけない。
「ご事情はまことにお察し申し上げますが、どうにもお部屋の都合が——」
多少の無理をしても辿り着けそうな範囲に、三十軒余り。二十四時間営業の店舗なども探したが、どこも似たような回答だった。
一時間もすれば日付けを跨ぐ頃合い。店を出た時にも、走る車の一台さえ見なかった。
「悪い。ここで寝るしかないらしいわ」
「ヘイちゃん悪ぅないよ」
もう眠ったと思ったのに、こっそり呟いた謝罪に返事を貰った。今度は「起こして悪かった」と、タオル越しに目を塞ぐ。否定の方向に首が動いて、すうすうと穏やかな息が聞こえ始める。
柱に遮られ、辺りの壁に跳ねる自動販売機の明かり。錆とヤニに汚れ、雨を防いでくれる天井。市場の奥とを隔てる格子。
誰かの居る日常が、そこここに色濃い。だが今は俺だけ。見通せない暗闇の向こうから、やって来る気がしてならない。
お前が悪い。ものを知らないから騙される。そうバカにして笑う湯摺課長が。
それから朝まで、一睡もできなかった。相変わらずの土砂降りだが、嵐とまででない。
仕事に来た市場の人に「立ち往生しちゃいまして」と言いわけしたら「雨宿りくらい、しゃあない」と見逃してもらった。たぶん呆れられていたが。
「ウイさん、目ぇ覚めました?」
一斉に照明が点き、彼女が身動ぎした。とは言え十分ほども声をかけなかったが、そろそろだろうと呼びかける。
ゆっくり、強張った身体をほぐすように手足の一つずつを伸ばす。時間をかけ、横座りになったウイさんは顔を俯けたまま。
「気分、大丈夫です?」
努めて、何も考えないようにした。頭の中で除夜の鐘が鳴っているなら、きちんとした話ができない。
「……あたし。どこまで夢かよう分からんのじゃけど、何か言うた?」
「何かって」
ガラガラ声だが、普通に話せるらしい。買っておいたスポーツドリンクを差し出すと、ためらう風にながらも受け取った。
「誰が不倫の相手、とか」
「さあ、はっきりとは聞いとらんですよ。俺の知っとる人かなと思うてますけど」
答えてしばらく、じっと動かない。俯けた顔も当然に見えない。
一分ほどか、おもむろにペットボトルの蓋を開けた。グビグビ音を立て、半分を飲む。
「サーバーからデータ抜いたの、あたし」
「え? いや、ええ?」
俺が会社を追われたのは、そのデータがよその会社へ渡ったからだ。思いもしなかった核心を、なぜこの人が。
問うべきは幾らでもあるはず。しかしいきなりのことで、頭の中が真っ白になった。
「あたし、浮橋
俺の勤めたサーバー室の管理者。その前任の姓を、なぜか彼女は口にした。
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