第22話:嵐の夜
耳に、ざざざっと叩きつける雨の音。俺達の他、どんどん客が増えて、店の賑わいは増したと思うのに。
テーブル脇の壁の向こう、雷轟も聞こえた。いつの間にか、外は嵐になっている。
黙りこくった大人を二人、幼い了が不安げな視線を交互させた。「ちょっと考えごとよ、心配せんでええ」と、言って頷いたが。
「クジラって、おいしいねえ」
濃い味付けのハンバーグが気に入ったらしい。寿司とオレンジジュースと、彼の手が三角形を辿る。
「そういえば了。兄弟とか
「うん、
それがどうかしたん? おそらくそんな風に、丸い綺麗な瞳が問う。
「いや何でもない。聞いたことあったか、分からんようなっただけよ」
プログラマーの兄。雑用さえクビになった弟。比較に過ぎなくとも、できのいいほうが可愛いに決まっている。
でも了は、一人。
どうしてそんなことをする。いくら考えても分からなくて、当人に笑ってやれたかも分からない。
「もう腹がいっぱいになってしもうたわ」
だから苦しい顔なのだと言いわけをして、そのくせグラスを逆さに呷る。
手を挙げて来てくれた店員さんに、ウイさんと同じ地酒を頼んだ。
「お寿司もおいしいねえ」
「おう、腹いっぱい食えぇよ」
時々、了の箸も止まる。俺も彼女も食べ物に手を伸ばさないので、いいのかなと窺っているらしい。
遠慮するな、と息を吸って膨らませた腹をさすって見せる。ウイさんはやって来た地酒を、ショットグラスみたいに一瞬で飲み干した。
——どうしたらええんじゃろ。
会話がなくなっても、店を出られない。思いがけない嵐から避難する客で、店が満席になったほどだ。
喋らず、食いもしない。となると酒を飲みながら、考えるしかなかった。
母親と会わせた後、了がどうなるか。
気の迷いは誰にでもある。彼を捨てたのがそういうものなら、仲直りの道もあっただろう。
しかし聞いた限り、可能性は潰えた。
それなら祖父母のところへ連れて帰るしかなく、俺にできるのはそこまで。時々、遊びに連れて行くくらいはしてやれる。たったそれくらいだ。
いや自分の明日さえ、ないも同然なのに?
深くため息を吐き、どうしたらいいのかと。ずっと同じところをぐるぐる回り続けた。
「あの、お客様」
「は、はいっ?」
誰かに肩を叩かれ、我に返る。大学生くらいの店員さんがちょっと腰を屈め、俺の顔を覗き込んだ。
「ヘイちゃん、考えごとなんよ」
「あ、ええ。はい、考えごとしてて。何か?」
メモ帳に何やら絵を描く了。貸してと言われて、渡した覚えは何となくある。
「お邪魔をしてすみません。その、お連れ様なんですが」
彼には触れず、店員さんが手を向けたのはウイさん。普通に座ってグラスを口に運んでいる。空だったが。
「お代わりを頼まれまして。同じ物ばかりをもう十四杯も飲まれているようで」
「す、すんません。迷惑ですよね」
「いえ私どもはいいんですが、ご体調は大丈夫かなと」
とても丁寧な話し方に、トンチンカンな答えを返した。それでも店員さんはクスリともせず、心配そうにウイさんを見守る。
「ええと、ありがとうございます。お代わりじゃのうて、水ください」
かしこまりました。と、これまた丁寧に頭を下げ、すぐに氷入りの水を持ってきてくれた。
「ウイさん、これ飲んで」
「あたしのお酒ぇ」
「はいはい、飲んで」
グラスを差し出すと、俺の手もゆらゆら揺れて定まらない。席を立ち、背中から彼女の口へグラスを持っていく。
「んはぁ、おいし」
一気飲みで、おそらく水と酒の区別がついていない。店を出ようと言うべきだが、嵐の気配は治まっていなかった。
「もっとちょうだい」
「はい、幾らでも」
さっきの店員さんに水を頼むと、ピッチャーで持ってきてくれた。どう考えても日本酒のはずがないけれど、ウイさんは満足そうに口へ含む。
「ウイ姉ちゃん、赤ちゃんみたいじゃねえ」
「ほんまじゃの」
俺が飲ませてやる姿を、了はにんまりと眺めた。彼に弟か妹が居れば、こんな優しい眼で見るのだろうと思う。
「赤ちゃんじゃないんよ」
ご機嫌だったウイさんが、急に口調を拗ねさせた。
「知っとりますよ」
「だって、あたしの赤ちゃんは要らん言うたじゃない」
誰と話している?
考えるまでもない、不倫相手だ。はっと息を呑み、彼女には水を飲ませた。
「じゃけえ、気をつけとったんよ。妊娠なんてしとらんのよ。じゃのになんで——」
「ウイさん、ウイさん」
俺はこれほどまでに酔ったことがない。座ったまま眠り、夢でも見ているのか。それとも幻覚か、わけが分からなかった。
呼びかけても正気に戻る気配がなく、段々と声が大きくなる。
他の客に気づかれれば、恥ずかしいのはウイさんだ。仕方がないから店を出て、どこか雨の当たらないところでも探すか。
そう決めた時だった。
「『しゃぁきらもなぁこと言うな』って。ヤスちゃん、そんなん言わんとって」
誰かのモノマネ。
しゃきらもない。とは広島弁でも、かなり年配の人から以外は聞くことの少ない言葉。くだらないという意味だが、特にバカにした時に使われる。
彼女の周囲に、この言葉を使う人の居ること自体は不思議でなかった。
ただ、鼻から抜けたように間延びした独特のイントネーションに記憶がある。二度と思い出したくなかった部類の。
「まさか、湯摺課長を知っとるんですか——」
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