第四幕:捨てて捨てられ

第21話:事実の片鱗

「了の……」


 曰く、ママ。

 どんな奴だ、と心の中でなじった回数はもう知れない。しかし改めて、どんな人ですかと問いたい気持ちは薄かった。


「知っといたほうが、ええんじゃない? 二人っきりにさせてバイバイとか、せんでしょ」※せん=しない

「そりゃあ、もちろん」

「じゃあ」


 聞かなきゃ、とは言われない。ウイさんの眼が、俺の隣の椅子に座る男の子へ笑いかける。


「僕のママ?」

「考えるん、しんどいかもしれんけど。ちょっと教えてくれるか」


 段階とかクッションとか、踏んだり置いたりするものがあるだろう。そう思うものの、まま問う。四杯目を傾ける彼女の顔を、視界へ入れないようにしつつ。


「どんな人——?」


 いつもの可愛らしい丸い目で、俺を見上げる。嫌がってはなさそうで、ひとまずほっとした。


「ほうよの。いきなり言われても、何て答えてええか困るよの」


 極端な話、いきなり包丁を抜くような人物の可能性だってゼロではない。だとしたら、了みたいな子は育たないだろうが。

 ——ああそうか、自分への言いわけで気づいた。俺はそこのところで引っ掛かっているのかと。


「うーん、仕事は? 母ちゃん、何の仕事しとるとか聞いたことあるか」

「お酒飲むんじゃって」


 間髪入れずの答え。

 自惚れでなければ、いつもは俺の問いに返答できることを喜んでくれる。それが淡々と、ただ義務を果たすような声。


「飲み屋さん、じゃろうの。夜、帰ってくるん遅かったじゃろ。朝かもしれんけど」

「僕、知らんのんよ。ママ、ずっと広島じゃけえ」

「えっ。一緒の家じゃないいうことか」


 ぴょこっと小さく頷く。

 放ったらかしと分かっていたが、同居もしていないとは。だというのに、遥々会いに行きたいと彼は言う。

 握っていたグラスが水滴で滑り、テーブルを転がった。


「あっ、すんません」

「だいじょぶ。空でかったね」


 派手な音で店員さんがすぐに駆けつけた。汚れていないことをウイさんが言い、一応と台拭きが置かれた。


「じゃあ何が気に入らんのんや」


 動揺したのかもしれない。うっかり口を滑らせた。「ヘイちゃん、それは——」と、珍しく憚るウイさんに言われて察した。


「分からんねえ。じゃけえママに聞きたいんよ、なんで捨てたんって」


 困り果て、唸る。いかにもそういう風に了は言った。

 何てことを子供に言わせる。グラスを握っていたら、今度は壁まで飛ばしたかもだ。

 滾る感情は彼の親にだけでなく、俺自身に向け。


「ねえ。一緒に住んどらんでも時々は帰ってきたんじゃろ、お母さん」


 なぜさらに追い打ちをかける。非難の目を向けながら、問うウイさんを窘める気になれない。


「うん」

「了くん、ええ子じゃけえ。そんなんない思うけど、お母さんを怒らせることあったん?」

「いっぱいあった」

「いっぱい、か。何か覚えとるのある?」


 どんな人か問うなら、そこだろう。俺には言えなかった言葉を彼女が口に出してくれる。くっと歯を食いしばり、待った。


「うーん。ママにお帰り言わんかったとか、ばあちゃんがおもちゃ買ってくれとったとか」

「え。お母さんの知らんおもちゃがあったら、いけんいうこと?」


 さしものウイさんも声を尖らせた。対する了は曖昧に首をひねり


「よう分からん」


と。

 それはそうだろう。たぶん理屈などなく、その時の気分で言っているのだ。ならば説明もあるはずがない。


「そっか。ごめん、もう一個だけ嫌なこと聞いてもええ?」

「ええよ。ウイ姉ちゃん、嫌なことせんもん」

「ありがと。ええとね、お母さん。了くんに痛いことする人じゃった?」


 肝心なところを丸投げにした。その見返りが、嫌なことをしないウイ姉ちゃんという褒め言葉だ。


「痛いこと?」

「叩くとか。タバコの火ぃ押しつけるとか」


 そっと。限りなくゆっくりと、彼女はその動作をやって見せた。

 頬を叩くふり。腕にタバコを押し当てるふり。


「あと——冷たい水かけるとか」


 バケツの水をかける素振りは、「ばしゃあっ」とおどけた効果音付きだった。

 可能性が高いかなと俺も感じる。きっとかけるのでなく、水風呂とか海に突き落とすのではと思うが。


「ほっぺは痛かった」

「それだけ?」

「手とか、足とか」


 叩かれた箇所を、了の指が示す。服で隠れる場所ということもなく、咄嗟に手が出るのだろうと想像させられた。


「叩く以外は?」

「痛いのはないけど、ごはん食べちゃダメいうて」


 ああ、と。ウイさんが漏らしたのは返事というよりため息だ。

 抜けきった息を補給するのに、三度の深呼吸が行われる。そうして彼女は彼の頭を撫で、料理の皿を集めてやった。


「お腹空くんは、しんどいよねえ。もう誰もそんなん言わんけえ、いっぱい食べんちゃい」

「大丈夫よ。ママが寝てから、じいちゃんが持ってきてくれよったけえ」

「うん。おじいちゃんもおばあちゃんも優しい人でかった」


 平穏なこの料理屋で一人、溺れているのでは。それくらいに喘いで、ウイさんはようやく言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る