第20話:乗り越えて進む

 入館して、数歩。大きな水槽が行く手に立ちはだかる。バンザイをした高さの水面、底を覗けば階下へ続いて見えない。

 透明な壁を一枚隔てただけで、すぐそこに莫大な量の水がある。水族館ならではの光景に、気圧されながらも感嘆の息を吐く。


「魚いっぱいるで。あれスズキじゃろ、了のじいちゃんがよう獲る奴」


 両手を水槽に預け、脇を見下ろす。そこにあるはずの姿がない。


「あれ——」


 振り返る。入場口と水槽の中間に、彼は立ち止まっていた。困り顔のウイさんを隣にしゃがませて。


「どした?」


 問うても、答えがない。二人ともが首を傾げる。

 後戻りして、彼の手を取った。目線を合わせ、もう一度聞いた。


「……お水、つめとうない?」

「ええ? 冷とうないよ。中へ入るんじゃないけえ」

「ほんま? 僕、お水に入らんでもええん?」


 水が怖いのか? いや浮き輪遊びは好きだと言っていたし、また海にも行きたいと。

 するとこの、水中へ放り出されたような圧迫感が怖いのかもしれない。


「当たり前よ。俺が一緒にるんじゃけえ、安心せえ」


 了が楽しめないのなら、すぐに退館してもいい。入場料がムダになるけれど、ウイさんに謝って返せば済む。

 その前に、彼を抱きしめた。「手ぇ繋いどらんで悪かったの」とも言って。


「どうしょう。見るんやめて、他に楽しいとこ行くか」

「ヘイちゃん、手ぇ繋いどってくれたら大丈夫。スズキ、見る」


 俺の肩越し、水槽を覗く仕草。後ろ頭を撫でてやり、「よっしゃ」と立ち上がる。

 繋がないほうの小さな手が前に伸びた。猛獣にでも触れようとするみたいに、一歩ずつ深呼吸を挟んで進む。


「冷とうないね」

「じゃろ?」


 了の足で、およそ十歩。立ち止まることなく、水槽に触れた。水温も伝えない透明な分厚い壁を、彼は平手でそっと叩く。

 当然に、ぺちぺちと可愛らしいだけで小揺るぎもしない。


「スズキ、るねえ。鯛も居るねえ」

「エイも居るし、下のほうへ何かでかいのも居るで」


 折り合いがついたらしい。水槽に額をくっつけ、観察を始めた。俺が指させば、その通りに顔を動かす。


「お水、綺麗じゃねえ。向こうのほうまで、よう見えるねえ」


 やけにしみじみ、了は呟いた。もう声に恐れは感じず、むしろ中の魚達を羨むかにも聞こえた。


「そうじゃの。こんなとこなら、魚も気持ちよう泳げるじゃろ」

「夏んなったら、ヘイちゃんも泳ぐ?」

「ん、ああ海か。泳ごうで、一緒に」

かった」


 ひゅうっと速く泳ぐ一匹を目で追いながら、彼は笑った。

 これなら楽しんでもらえそうだ。良かったのは俺のほうだ、と胸を撫で下ろす。


 それから閉館までの二時間余り、存分に歩き回った。二つ目の水槽からは了も怖れる感じが失せ、進むごとに「早う」と急かされる。


「メバルも、じいちゃん獲りよった。フグは毒があるけえダメなんて」

「さすが、よう知っとるの。俺はサバとアジの区別もつかんわ」


 俺が遠足で水族館へ行った時、サメやピラルクなんかのでかい魚をカッコいいと思った。でも了は魚屋に並ぶような、祖父母の扱うような魚に食いつく。

 イルカのショーだけは、予約の先着順で見られないのを残念がったが。


「そんなに見たかったんか、悪かったの」


 イルカのイラスト入りのミルクキャンディーを抱え、退館したばかりの建物を何度も顧みる。

 この子にそんな素振りをされては、俺に言えることなど一つしかない。


「今日はここで泊まるつもりじゃけえ、また明日来るか?」


 ショーの予約は開館と同時に始まると聞いた。ならば朝イチに行けば確実に見られる。

 だが了は、きっぱりと首を横に振った。


「ううん。僕、楽しかったけえ。ありがとヘイちゃん」


 いい子だ。

 あれもしたい、これもしたい。言えば何だって聞いてやるのに。

 あの祖父母が、そう躾けたのだろうか。凄いと思うが、素晴らしいとは思わない。


「いや俺は……お金、はろうてくれたのウイさんじゃし」

「うん。ウイ姉ちゃんも、ありがと」

「いえいえ」


 了と俺とが手を繋ぎ、後ろをウイさんが歩く。お決まりの距離で、次の場所へ向かった。

 海響館のすぐ隣、唐戸からと市場にある料理屋へ。


「下関いうたら、フグじゃろ。ほいでクジラ肉も食べられるんよ」


 賑わう店内。テーブルに着くや否や、スマホで調べただけのことを知った風に自慢する。

 幼い了には、それほどありがたみがないかもしれない。けれど、特別な何かを体験させてやりたいと思う。


「たぶん明日、了の母ちゃんとこへ着くわ。じゃけえこれが——」


 三人で楽しく食べられる食事は最後。そんなことが頭に浮かんで、言い淀む。


「これが?」

「ええと、区切り。おいしいもん食うて、頑張ろういうこと」

「へえ」


 何やら言いたげに、クスと笑うウイさん。結局、何も言わずにメニューを読み込み始めたが。


「お酒も色々あるねえ」

「飲んでええですよ。俺が出すんで」

「ええん? いうか、付きうてくれるん?」

「常識の範囲なら」


 彼女はしょっぱなから、地酒を注文した。食べ物は任せると言うので、了の好きそうな物から優先して頼んだ。


「ふくのお造りと、クジラベーコンでございます」

「わあ、真っ白」


 それぞれの飲み物と一緒に、刺し身皿がやってくる。作務衣っぽい格好の店員さんが、俺の瓶ビールをグラスに注いでくれた。


「かんぱーい」


 了はオレンジジュースで、三色のグラスがぶつかる。

 彼は漁師の孫だけあって、刺し身も好きだと言った。その通り、薄い薄いフグの身を十切ればかり一度に掬う。

 負けじと俺も、同じくらいを口に入れた。


「ねえ。明日、会うんじゃったらさ」


 クジラ肉のハンバーグやら、フグやエビの天ぷら。寿司なんかも運ばれて、テーブルがいっぱいになった頃。

 三杯目を空にしたウイさんが、店員さんに手を挙げつつ言った。


「そろそろ聞いといたほうがええんじゃない?」

「何をです?」

「了くんのお母さんが、どんな人か」


 まだまだ呂律はまともだ。しかし彼に聞こえないようにというような、遠慮や配慮の伺えない声だった。

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