第18話:海へ行こう

「……うーん」


 真剣に考え続ける彼に、もういいとなかなか言えない。

 言いかけては呑み込む。四度も繰り返したところで、またウイさんがのしかかってきた。


「ねえ了くん。そういえば海で、他のことはせんかったん? 普通に泳いだりとか」

「泳ぐんはねえ、じいちゃんが『今日は休み』言うた時。ばあちゃんが浮き輪押してくれるん」

「おじいちゃんは見とるだけ?」

「じいちゃんは魚釣りするんよ。僕も貸してもろうて、大っきいの釣ったことある」


 なんだ、普通に遊ぶことも知っているじゃないか。張り詰めた胸から息が漏れる。すると目ざとく「どしたん?」と了。


「いや。じいちゃんは休みの日でも魚獲りするんじゃの」

「僕も好きよ」

「ほうかぁ。実は俺、釣りしたことないんよ。了に教えてもらわんといけん」


 にいっと、白い歯が見えた。


「ええよ! ヘイちゃんに釣り教えたげる」

「泳ぐんは? ばあちゃんと浮き輪で遊ぶんも好きなんじゃろ」

「うん、好き。水が冷たいんは好きじゃないけど、浮き輪あったら楽しい」


 釣りも泳ぐのも好き。それ以外は?

 彼の好きなことを根こそぎ聞きたい。今までは祖父母しかさせてやれなかったことを、俺も。


「ほうかほうか。ほしたらあと、夏にやること言うたら——」

「夏?」

「ん。そりゃあったこうならんと、海で遊べんじゃろ。梅雨が蒸し暑いいうても、まだ水に入るんは寒いわ」

「夏んなったら、つめとうないなる?」


 釣りはともかく、浮き輪遊びは夏だったろうに。何を当たり前のことを。

 ふと考えたが、夏の定義があやふやなのに違いない。俺だって小学生の時、季節がどうとかは考えなかった。

 夏休みだから夏、冬休みだから冬。そういうものだ。


「んー、ちょっとは冷たいかもしれんけど。暑いけえ、冷たいんが気持ち良うなるわ」

「ほんま? ええねえ。早う夏にならんかねえ」

「うん、夏んなったら海行こ。俺と遊んでくれえや」


 ほわあっと頬を緩ます了の前に、きっと海が見えている。その中に俺の姿も交ぜてくれ、と願う。


「行きたい、ヘイちゃんと行く!」


 ぴょんと尻を跳ねさせ、腕に飛びついてくる。


「僕、夏が好きかもしれん」


 世の中にこんな可愛らしい生き物が居るとは知らなかった。だからまあ、だらしなく笑っていた自覚もある。「ちょっと」と、ウイさんに袖を引かれなくともだ。


「そんな約束して大丈夫なん?」


 顔の指摘でなかったが、彼女の言うのはもっともだった。了を母親と会わせた後、どうなるかはまるで分からない。

 しかしこの約束だけは、俺自身が強く望んでいる。


「いや、うーん。どうにかします」

「後悔しても知らんよ」

「あはは」


 呆れた深いため息に、根拠のない今は笑ってごまかすしかなかった。とは言え彼を楽しませるのは、夏を待たなくともできる。


「絵しりとり、いうて分かるか?」

「しりとり?」

「うん。そうじゃけど、絵で描かんといけんのよ」

「やったことない」


 子供はみんな、お絵かきというかイタズラ描きくらいはするものと思った。しかしナップサックからメモ帳を出しても、難しい顔をしている。

 だがここで、じゃあやめようと言うのも白けてしまう。


「とりあえずやってみようや。しりとりの、り」

「り? りん――」

「りん?」

「ううん、リス」


 絵にする自信がなかったのか、言いかけた何かが引っ込んだ。もちろんリスでも構わない。

 ペンを渡すと、ちょっと悩んでから棒人間みたいな絵が描きあがる。お尻のところで渦が巻いて、これが尻尾というらしい。


「お、うまいの」

「ほんまに?」


 うまいか下手かなど、最初から問うていない。これと決めたものを描く気で描いたか否か。

 ほとんどが産毛みたいな、柔らかそうな眉毛が曲がったり伸びたり。試行錯誤が目に見えていた。


「ほんまほんま」


 褒めると、ほよほよそれが跳ねる。いちいちやっていてはきりがないけれど、頭を撫でずにいられない。


「んじゃ、スキー」


 夏の話をしておいてだが、思い浮かんだものは仕方がない。やはり棒人間で無難に済ませ、残る一人にメモ帳とペンを渡す。


「え。あたしも?」

「不戦敗です?」

「き、じゃね」


 煽ったつもりはないが、さっとペンを奪われた。迷いのない運びで、直線が組み合わされていく。


「キーボード」

「なるほど。んじゃ、また了」

「ド?」

「と、でもええで」


 時間をかけて考える了。さっきと違い、唸る声が鼻歌交じりに聞こえる。


「あ、とらっく!」

「トラックか、ええの」


 縦長の四角と横長の四角を並べ、タイヤが付く。彼の祖父母の家にも軽トラックがあった。

 そう来ると、次は簡単だ。凸形に窓を加えてタイヤをくっつける。


「俺は車」

「ズルくない?」

「全然でしょ」


 苦情を言ったウイさんはマウス、次にスズキ、切手、テンキー。と、絵しりとりは途切れない。トイレ休憩を挟んでも、了が「次は誰?」と催促するほど気に入ったらしい。

 そもそも一人が描くのに数分以上を使うので、下関へ到着するまでの三時間があっという間に感じた。

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