第15話:彼との距離

「後から来たんが、ええ人でかった。最初の人だけじゃったら、了のせいにされとったかも」


 そのままバスに乗るのも別の店に入るのも怖くて、ウイさんにコンビニに行ってもらった。路地裏で消臭スプレーをかけてもらい、ちょうど売っていたワイシャツに着替える。


「まあ、離れとったし」

「ですね」


 その通り、了は聞き分けがいい。頷き、彼を褒めようとした。けれども先にウイさんが「それより」と。


「どっか、お風呂に入れるとこ行かんと」


 言うなり、スマホで検索を始めた。任せて、良い子の頭を撫でてやる。


「岩国駅の近くにあるわ。朝陽公園いうとこの中、スパ・モーニングじゃって」

「湯船にトーストとゆで卵でも入っとるんですかね」

「入っとったら食べんさいよ」


 冷たい視線を笑ってごまかす。


「了。お風呂入りに別んとこ行くけど、お土産買ってくか? 饅頭でも何でもええで」

「ええ。僕、ここのお店嫌い」


 ボソボソと拗ねた声。急にどうしたのか聞こうと思ったが、察した。


「もしかして、さっきの店員さんが言うたけえか?」


 バネ仕掛けかなというくらいに勢い良く、縦に首が跳ねる。

 俺のために怒ってくれるのは嬉しい。だが言葉の選択はともかく、あの店員さんの言い分はもっともだ。


「ありがとの。じゃけど、あのお店には食べもんもあったし、しょうがないわ。俺がちゃんと風呂に入っとけば、何も言われんかったんじゃけえ」


 しゃがんで視線を合わせると、了のほうからしがみつく。ぎゅっと締めつけようとする腕と、背中をそっと叩く。


「ヘイちゃん、ええ匂いするもん」

「あはは。そりゃファブリッシュの匂いじゃろ」

「違う。ヘイちゃんの匂い」

「ほうか、ありがと」


 俺なんかを守ってくれよう言うんか。

 危うく、目の前が曇りかけた。力いっぱいにまぶたを閉じ、同じだけ了を抱きしめた。

 汗くささはない。湿った土と枯れた葉っぱの香りがした。


 昨日と同じバスに乗り、岩国駅まで戻る。ウイさんの見つけた朝陽公園までは、歩いて十数分だった。敷地の入り口に市営と書かれた柱が立ち、その奥は見渡す限りのラベンダー畑。


「凄いねえ。お花ばっかりじゃねえ」


 通路の端に了は駆け寄る。そこから小高い丘の上まで、紫色を追って彼の視線が動く。

 満開と呼ぶには、あと半月というところか。それに濡れそぼった花は、ちょっと疲れて見えた。


「お花畑。初めて見た?」

「うん、見たことない」

「じゃあ、ひまわり畑とかもええねえ」

「あるん?」

「ここじゃないけど。世羅じゃったかな?」


 ウイさんにひまわり畑と聞かされて、問うまでもなく了は見たいと眼を輝かせた。

 俺が子供の時、お花畑に興味があったろうか。覚えていないが、なかった気がする。


「遠いん?」

「ちょっとね」


 福岡に向かう道中、反対方向だ。ならば母親に会った後、行きたいと言うかも。彼はこちらの言うことを聞いてくれるが、自分の要求もはっきりと表す。


「じゃあ行かれんねえ」

「今は行かれんね。ごめんね」


 あれ?

 言わなかった。相手がウイさんだから、遠慮したのかもしれない。

 だとしたら、ちょっと優越感だ。厭らしい感情と自覚しつつも、ささやかな満足にほくそ笑む。


 それから公園を一周する通路を道なりに進み、入浴施設に行き当たった。豆腐を置いたみたいな飾りけのない建物で、モーニングな要素は感じない。

 自動ドアを入って目の前、掲示板に料金などなどが示される。


「七歳未満のお子様は無料、か。了、何歳じゃったっけ?」

「ええとね、僕ね、六歳よ」

「お、ギリギリセーフじゃ」


 大人でも五百円で、それほど拘る額でもなかった。しかしなんとなく、こういうのはお得感があっていい。


「七歳以上のお子様は同性の保護者様とご一緒に、じゃって」


 続く文章をウイさんが読み上げる。了は男の子で、俺も男。そもそも問題のないところだけれど。


「ねえねえ了くん。あたしと一緒に入ろうや」

「え。僕、ヘイちゃんとがええ」

「そんなん言わんで、たまにはええでしょ? お風呂でお話しょう」


 なるほど六歳の了は、女風呂へ入ってもいいわけだ。それを断るとは無欲な奴め、などとは顔にも出さない。


「了。どうしても嫌ならじゃけど、別にええんならウイさんと一緒に入ったげえ?」

「ええ?」


 ゆうべ彼女は、了が俺にべったりだと言っていた。その後の話と合わせると、自分の子が欲しいとかは微妙なところだが。何にせよ、寂しいのかなと思う。


「うーん。ヘイちゃん、どこも行かん?」

「行かん、行かん。逆に了を置いて、どこへ行け言うんや」


 大げさに手を振って否定する。するとまた彼は「うーん」と唸る。が、最後には頷いた。


「分かった。ウイ姉ちゃんと入る」

「ほんま? 良かった、ありがと」


 話がつくなり、彼女はサンダルを脱いで受付に向かった。「おいで」と手招きされた了も。

 残された俺は、三人分の靴を靴箱へ収めねばならない。終わって合流すると、既にウイさんの手にロッカーの鍵が握られた。


「俺のもはろうてくれたんです?」

「だいじょぶだいじょぶ」


 恐縮の声を、彼女は笑ってはたき落とす。ここは奢られることにして、「さあ行くよ」と女風呂へ向かった二人を見送る。

 もちろん俺も、すぐに男風呂の暖簾をくぐった。清潔感のある脱衣所で裸になり、水滴に濡れたガラス戸を開く。


 二十人ほどが一度に使える洗い場と、ジャグジーや薬草湯などの湯が幾つか。また扉を隔てて露天風呂もあるらしい。

 特に風呂好きということもないが、初めての場所は高揚感みたいなものが湧く。

 さっそく、備え付けのシャンプーをたっぷり使って頭を泡だらけにした。


「ヘイちゃん! お風呂広いね!」


 突然、了の叫び声。壁も何も素通ししたかの音量で、咄嗟に泡の中の耳を押さえた。

 しみる目を開け、女湯と隔てた壁を見上げる。七、八メートルくらいの天井までは届かず、隙間が空いている。そう思って聞けば、反響した女性の声も聞こえた。


「りょ、了! 他の人がびっくりするけえ静かにしとけ! あとでアイスうたるけえ!」

「アイス!」


 ひと声、応じたあとは静かになった。ウイさんは周りの人に謝っているだろう。当然にこれから、俺も。

 泡だらけのまま振り返り、見回す。洗い場に二人、湯船に五人。全員が俺に目を向け、顔をしかめたり首を傾げたり。


「すみません」


 あれこれ言っても仕方がない。直立で頭を下げる。十秒くらいで直ると、誰の視線も残っていなかった。


「……ふう」


 急いで身体も洗い、露天風呂へ逃げた。相変わらずの弱い雨が降り、そのせいか誰も居ない。

 少し熱めの湯に、息を止めて手足を伸ばす。波を立てぬよう、ゆっくり。ゆっくりと。

 馴染んだのを見計らい、腹の底から息を吐く。じじくさい声に連れ、疲労の流れ出る心地がした。証拠に身体が軽くなった。特に肩や腰が。


 微かな風に湯気がたなびき、ラベンダーの薫った気がする。

 落ち着くわ。しみじみ思って、そんな歳だったっけと自嘲した。

 低い空。囲う壁。湯のどこを探しても、了が居ない。たった数分のことなのに、もう会いたくなった。

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