第14話:降り出す雨
朝。
眠りの暗闇から、まぶた越しに現実の光を感じる場所へ戻った。
頬に冷たい物が当たる。つららの先でくすぐられるような、蒸し暑い中に心地いい感触。
「ん……」
まぶたを開く。と、真っ黒なビー玉みたいな目玉が、俺の目玉とくっつかんばかりに覗き込む。
ぱちぱち。まばたきを残して遠退いた。
「ウイ姉ちゃん、ヘイちゃん起きた!」
「やっと? 大物じゃねえ、そんな濡れとるのに」
濡れているとは。
ぼんやりした意識が少し遅れて現実と一致した。四つん這いで俺に被さる了はさておき、辺りは明るい。
しかし北向きの部屋の明るさだ。見上げた空は一面に、湿った雲で覆われていた。
「すんません、片付けさせて」
「ええよ」
把握した。しとしとにも至らない、霧みたいな雨。俺の顔もポロシャツも、いい感じにカビの生えそうな濡れ具合い。
移動しようと言うのだろう。俺がナップサックへ収めるべき荷物が整然と並べられ、ウイさんは地面に散らばったゴミを拾う。
「全部。話そう思うたんじゃけど、言えんかったし」
「え。何をです?」
手当たりしだいにレジ袋へ放り込みつつ、彼女は言った。
言ったはずだ。それなのに俺の問いには
「え、何が?」
と。いつでも酔っ払ったような、見慣れた人懐っこい笑みが返るだけ。
「何か言うたじゃないですか」
「ええけえ。早う片付けんさい」
叱られた。
きっと照れ隠しだ。ゆうべの話だけでなく、口に出しにくいことがまだまだあるらしい。
しょんぼり、拗ねたふりで荷物をしまう。すると了が「ヘイちゃん、どしたん?」と心配げに声をかけてくれた。
思わず声を上げて笑う。ウイさんも。
——片付けが終わり、歩き始めたのは午前九時過ぎ。傘をさすには面倒な、弱々しい雨勢の中。
昨日の約束通り、お土産物屋さんへ行こう。言って歩くうち、蒸し暑さにかなりの汗をかいた。
まだ開いていない店もまちまち、了は一軒を選んだ。まさか売り物ではなかろうが、日本の甲冑が店の奥に見える。
「あれ
「昔のお侍さんの着とった鎧よ。触ったらいけんで、壊れるかもしれんし怪我する」
「うん、触らん!」
ガラス入りの木戸を開いてやると、一目散に駆け寄った。大人の膝高ほどの台の上。ロープで柵がしてあり、たぶん俺が手を伸ばしても甲冑に届かない。
「初めて見たんじゃろうね」
「お出かけ、いうもん自体、あんまりみたいです」
「そっか」
入り口の壁際に店員さんの他、誰も居なかった。ウイさんと並び、ゆっくり了のあとを追う。
通路の右手に饅頭や生菓子、左手には湯呑みや花瓶などの陶器が並ぶ。
「ちょっと高級なお店?」
「ですね。でも要る
「お、太っ腹」
萩焼きだろうか。明るい茶色の湯呑みを、彼女は手に取る。
「でも、ええよ」
表と裏とをさっと眺め、元の位置へ。値札を見れば、八千円。それくらいなら一つや二つ、どうということもない。
「遠慮せんでええですよ。なんぼでも、とは言えませんけど。ちょっと余裕あるんで」
「うん、ありがと。でも買ってもしょうがないけえ」
フッ、と鼻に抜けた笑声がかすれて消える。
しょうがないって、なんで? 問えば返ってくるだろう答えが、頭の中へ勝手に浮かぶ。
そんなことはない、と言う資格はなかった。遠慮するなと、俺自身の言葉と何が違う。
「あの、お客様」
立ち止まっていると、背中の側から声をかけられた。和服を着た雰囲気になる割烹着の、中年の女性。入り口に居た店員さんだ。
何やらスンスンと、しきりに鼻を利かしながら。
「大変に失礼ではございますが、お臭いのほうが」
「オニオイ?」
とぼけたわけでなく、丁寧な言い回しで意味が分からなかった。首を捻ると、女性の目がきつく細まる。
「ですから。店内には値の張る物も置いてございまして、お客様の体臭が移るのは迷惑と」
「えっ、俺ですか」
どうやら、くさいから出て行けと言われた。たまにはスーパー銭湯へ立ち寄るものの、そういえば最後はいつだったか。
袖を嗅いでみるものの、自分では分からない。
「あたしも鼻が慣れてしもうたんかな。イマイチ感じんけど」
ウイさんも、そこまで? という顔をした。しかし見ず知らずの人が言うのだ、迷惑を押し通すつもりはない。
が、店員さんの辛抱の限界は早かった。
「うるさいわね! あんたらみたいに風呂も入れん貧乏人に売る物はない言うとるのよ! 出て行き!」
耳の奥にキンと残る声。ぴしと外に向けられた指。急にそこまで怒らなくてもと思うが、悪いのは俺だ。
「い、いや。すんません、すぐ出て行きます」
深く頭を下げ、上げると同時に了のほうへ向いた。その視界の中、立派に飾られていた甲冑が崩れ落ちる。
金属のぶつかる派手な音が、店じゅうに響き渡った。俺とウイさん、店員さんも、収まるまで呆然と見ているしかない。
「な、何かあった?」
横手に掛けられた暖簾を捲り、やはり割烹着姿の初老の女性が顔を見せる。我に返った店員さんが、すぐさま走り寄った。
「す、すみません! 鎧がひとりでに崩れて!」
「あら、ほんと……」
甲冑とその周辺に視線を走らせ、初老の女性は俺達のほうへやって来た。割烹着の下は本当に着物らしく、小さな歩幅で上品に。
「お騒がせを致しまして申しわけございません」
頭を下げる直前、鼻がヒクッと動いた。疑ってはいないが、やはりくさいようだ。
「い、いえ。こちらこそ」
最初の店員さんも、黙ってお辞儀をする。
これ以上、何も言われないうち。いや臭い以外は何もしていないが、早めに退散するのがいい。
近くに居た了だって、甲冑の台から何歩も離れていた。もっと言えば店員さんの声に驚いたのだと思うが、俺達のほうを向いて。
「了、行くで」
彼を呼び、そそくさと店を出る。店の見えなくなる角を折れるまで、きゅうっと心臓の縮まる思いがした。
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