第13話:さて問題です

 ひとしきり満足したのか。ウイさんは、はたと口を閉じた。錦城橋をくぐって覗く、金色の橋を肴に飲み続ける。

 かく言う俺は、逆にほとんどビールを飲まず、彼女の料理で存分に腹を満たした。食べすぎて苦しいという感覚は、何年ぶりか分からないほど久しい。


「——あら、寝てしもうた?」


 静かな川の流れに、どれくらい聞き入っていただろう。言われて見ると、了の両眼が閉じていた。俺の脇腹へ背を預けたまま、器用に眠るものだ。


「大人の話は、つまらんでしょ」

「ああ、ごめんね。どうしても聞いてみとうなったけえ」

「いや俺はええですけど」


 ママが、と言い出す素振りは見えなかった。あればその時点で止めるつもりだった。


「了くん、お母さんに?」

「ええ。捨てられたいうて」


 頭を撫で、レジ袋に寝かせてから答える。勝手に伝えるのもどうかと思うが、妙な地雷を踏ませるのは避けたかった。


「捨てられた……じゃけえか」

「ん、何がです?」


 橋のコンクリートに寄りかかったウイさんも、息を呑んで背筋を伸ばす。


「え。ううん、ヘイちゃんにべったりじゃと思うて」

「そりゃあ今までの流れでしょ。ウイさんが言うたら、普通に隣で飯食うたりする思いますけど」

「どうかねぇ」


 言葉の合間合間に、微妙な沈黙が挟まる。視線も話す俺でなく、了へ。

 とにかく明るい印象の彼女が、つらそうに目を細めていた。それをいちいち、何を思ってと問う無粋は俺にできない。


「あたしもね、捨てられたんよ」


 ボソッとした告白は、残り少なそうだった三本目を空にしてから。俺が答えるまでの静寂が、念入りに潰される缶の音で消された。


「ええと。親御さんに、じゃないでしょ?」

「うん、世間並に育ててもらった思う。捨てられたんは、不倫相手に」


 どう答えていいか、困ることばかりを言う人だ。さすがに打ち止めと思うが。


「いや、あの」

「あはは。あたしが話したいんよ、慰めてもらえるとも思うてない。そんな資格ない」


 笑って、俺の知る楽しげな彼女と見分けがつかなくなった。


「話したいことがある、言うたんよ。いや、大事な話じゃったかな。たぶん無意識に、お腹へ手ぇ当てとった」


 元通りにコンクリートへもたれ、お腹を撫でる。この場で見れば、満腹で幸せという素振りだ。

 しかしそういう相手に、ウイさんとて真面目に言ったはず。だとしたら——


「さて問題です。あたしは彼氏に、何て言おうとしたでしょう」

「それはその。妊娠、した。じゃないんですか」


 分からぬふりは白々しいだけだ。声を引き攣らせつつも答えた。途端、彼女の唇が突き出て尖る。


「ぶっぶー」

「え」

「正解は、癌でしたー」


 冗談の雰囲気で話を進められても、こちらは呻くことさえできなかった。女性らしい柔らかそうな指の触れる腹から目が離せない。


「悪性リンパ腫いう奴? あたしバカじゃけえ、あっちこっち転移して、ここまで来てやっと気づいたんよ」


 ここ。と改めて、お腹をぐるっと撫で回す。


「そんなに見つめんといて。えっち」

「いや、そんな。あの、それ聞いて、その人は。彼氏さんは」


 もう冗談に付き合っていられなかった。

 結果は目の前のウイさんだ。関係のない俺が、彼女や相手の男に何をできもしない。でも、唾を飛ばしながら聞かずにもおれない。


「また、ぶーー」

「えっ?」

「言うたでしょ。何て言おうとした・・・・・・か、いうて」


 ギリッ、と奥歯が軋む。だというのに、彼女は「違う違う」と手を振った。


「サッサッ、て。財布出して、お札数え始めて。たった十枚よ? 投げつけて、中絶せえ言われた。ついでに妊娠させた覚えもない、誰の子かいうて」

「あ……」


 同じだ。ウイさんの不倫相手は、俺と同じ勘違いで彼女を捨てた。モノマネしてもらえなかった男の分まで、恥ずかしさと申しわけなさが込み上げる。


「いやいやいや。ヘイちゃんのせいじゃないけえ、落ち込まんとって。あたしが悪いことして、バチが当たったんよ」


 言われて、今さらに不倫の意味を思い出す。向こうの奥さんからすれば、ウイさんは極悪人だ。


「じゃけど、一人でするもんじゃないでしょ」

「うん、ヘイちゃん優しいね。ごめんじゃ済まんけど、ごめんね」

「俺に謝られても」


 男のことは諦めたのか、もう治らないのか。聞きたいことがあっても声にならない。

 それが聞こえているかのように、彼女は頷く。焚き火の爆ぜる音にも負けそうに「ごめんね」と繰り返し。

 

「で。仕事場にもられんし、ぷらぷらしとる。頑張るのってバカバカしい、いうてね。うちの親も『好きにせえ』って言うけえ、今ここにる」


 そこは真似るのか。脚色が加わっていなければ、かなり憤慨しての好きにせえだった。

 実の親がそう言う事態に、俺が何か言っても許されるだろうか。許されるとして、何を言えばいいだろうか。

 思いつかないまま、時間と川が流れていった。やがてウイさんも寝息を立て始め、俺は喉に詰まる息を吐き出した。

 錦帯橋を照らす明かりは、いつの間にか消えていた。

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