第8話:思い違い?
しかし、映ってしもうたよな。
病院の防犯カメラにだ。承知で行ったのは了の手前が大きかったのに、結局のところ見せたくない場面を見せただけになった。
ただ警察とて、暮市の人間の足取りを掴むのに、いきなり広島の病院の録画をとはなるまい。
そう思えば自分でも納得できるけれど、いやそれでもとすぐに不安になる。
「電車、いっぱい
病院の対面。ホテルとデパートと、また別のショッピングモールとバスターミナルが合体した、わけの分からない商業施設から顔を背けて歩く。
だというのに、了の指が正面を示した。見なくともだいたいの景色は覚えているから、大丈夫だが。
この辺りは路面電車——広島人言うところの市電の路線が交じり合い、ビルの谷間を線路が踊り狂う。
一輛だけか、二輛の短い連結で、小ぢんまりした車輛が走るのはちょこまかと忙しい。それがコミカルで可愛いと聞いたこともあるが、俺にはない感想だ。
「電車に乗りたい言うとったじゃろ?」
「えっ、乗れるん?」
「任せえ」
JRに乗れないのを、何を偉そうに。
ちまちま詳細を説明すると立ち直れなくなりそうだった。許してくれと心の中で拝む。
「どこ? どうやって乗るん?」
わあっと歓声を上げ、ぴょんぴょん跳ね続ける彼を引き摺る。やはりカメラの向いていそうなデパート前は避け、一つ先の停留所へ。
「げんばくどーむまえ?」
市電の停留所は、道路の中州の形で置かれる。行き着くには横断歩道を使うが、その信号待ちで了は停留所の名前を読み上げた。
「原爆ドーム前。すぐそこにあるわ」
抱き上げ、道路と並走する植え込みの向こうを見せてやる。
名の通りにドーム状の屋根を背負った、鉄骨とレンガの建物。明灰色に焼けたその身が、今は川風で涼しく佇む。
「なんであんなにボロボロなん?」
「戦争で壊れたけえ」
「戦争って、人が死ぬ聞いたよ」
さっ、さっ、と。幼い首が周囲の建物へ向く。他は立派なのに、なぜ原爆ドームだけが崩壊寸前なのかと言うのだろう。
それとも俺達の立つこの場所でも、誰かが死んだのかとか。
「行ってみるか? もの凄い広い公園もあるで」
「ううん、ええ。行かん」
俺の首へぶら下がるように、了は抱き着く。きゅっと縮こまらせた首や背中を撫でてやった。
幸いすぐ、市電が来た。乗り込み、どの窓からも遠い真ん中へしばらく立っていた。
四つほども停留所を過ぎると、繋いだ手がちょっと引っ張られた。外の景色が気になり始めたらしい。しゃがんで、彼には魅力的なはずの情報を提供する。
「後ろ、見てみ? 運転席があるで」
と言っても、とりあえず見えるのは運行会社からのお知らせを貼るボードだけ。小さな首が「うーん?」と傾く。
「騙された思うて、行ってみい」
「うん」
尻を叩くと、それは躊躇わずに足を踏み出した。座席の端とお知らせのボードと、運賃箱で巧みに仕切られた場所へ。
「ヘイちゃん! 運転席ある!」
思った百倍増しの叫び。耳を押さえ、周りに頭を下げた。
俺達のほか、乗客は四人。それぞれ普通に談笑したり、スマホを見たり。睨むような人は居ない。
一人、気難しげなおっさんと目が合う。しかしそれも偶然のようで、経済新聞のページを捲った。
「座ってもええん?」
言うより早く、バーのスツールみたいな高い椅子によじ登ろうとしていた。
「いや。そりゃあ、いけんじゃろ」
慌てて駆けつけ、抱き上げる。
触ったところで何もならないようにしてあると思うが、実際どうなのか。
「ええと、ちょっと触るだけにしとけ。俺も使い方知らんし、壊したら迷惑じゃけえ」
「うん、ちょっと触る」
制御用のレバーや、メーター類。単なるデザインらしき凹凸まで、了は「そこ」「それも」と楽しげに移動を命じた。
従って俺は、空中遊泳をさせる。手形を押すようにして指を動かさないのは、ちょっとと言ったからに違いない。
動かすたびに揺れる頬を見て、どうにもにやけてしょうがなかった。
ひとしきり触れると、了は自分から「もうええよ」と切り上げた。直近の座席へ移動して、名残惜しさ満々で見惚れてはいたが。
俺も隣へ座り、視界を流れていく窓の外を眺めた。バスもだが、電車などいつ以来だったか。普通の車やスクーターでは見られない景色に、のんびりとさせられる。
「ん?」
——ふと、誰かに見られている気がした。腰を落ち着けて、まだ数十秒。
反射的に、そちらを見る。
さっきの気難しげなおっさんだ。広げた新聞はそのまま、がっつり首をこちらへ向けて。
視線がぶつかり、何度かのまばたきをしてから誌面に目を戻す。今のはたまたま、みたいに眉間を揉むのが白々しい。
警察か?
何の用か考えて、すぐにそう思った。他にも挙げようとしたが、これという可能性に至らない。
やはり病院のカメラに映っていたのか。いや、だとしても、こんなに早く来るものか。
俺も下手な演技で、周りをぐるっと見ただけと装った。おっさんは新聞に顔を隠すようにして、お互い見えなくなった。
「ヘイちゃん、飴あげる」
「お。ええんか?」
「うん、食べて」
一つずつでパッケージされた、大きいビー玉くらいの飴。貰ったのはクリーム色っぽい奴で、口に入れるとリンゴ味だ。
了はオレンジ色のを口に入れ、剥いたビニールを半ズボンのポケットに入れる。さすがあの、じいちゃんばあちゃんの躾はきちんとしていた。
気難しげなおっさんはと言えば、次の停留所で降りた。見るともなく、見えなくなるまで様子を窺ったが、こちらを気にする素振りはない。
尾行に気づかれたからと、すぐ逃げるのは怪しすぎるだろう。いや、そう見せてすぐに交代が乗り込むのかも。
ドラマや小説の見すぎだ。我ながら思うけれども、絶対に違うとも言いきれなかった。
次の乗客次第。なんて見張っていたら五つも先の停留所で、しかも高校生。
やはり勘繰りすぎだろう、たぶん。
「どこまで乗るん?」
「
「またバスに乗るん? ええねえ、楽しいねえ」
電車もバスも、どちらも好きらしい。了はいつの間にか靴を脱ぎ、窓にへばりついていた。
どこにでもある。それこそ暮市ともさほど変わらない風景のはずだが、楽しいのなら良かった。出会った時のまま、ママ、ママと泣き続けでも当然だろうに。
もちろん藪から蛇をつつき出すことはしない。
定期的な振動と、静かすぎない車内の音と。眠気に抗う平和な時間を俺も満喫した。
「次は
アナウンスに、ビクッと震えた。なんだかんだ、結局は眠っていたらしい。了も俺の脚を枕にしている。
声をかけようとして、やめた。そっと動かし、背負う。
運賃は大人が二百七十円、子供が百四十円。合わせて四百十円を握り、乗降口の運賃箱へ放る。
「えっ?」
見守っていた車掌が、はっきりと声を出した。おまけに不思議そうな顔で、運賃箱と俺とを見比べる。
「あれ、足りんかったです?」
「あ、いえ。結構です」
「はあ。ええんですね」
「失礼しました」
なんだろう。気になるが、降りるのは俺達だけだ。問い質せば運行を遅らせることになる。
相手がいいと言っているのだ。自分に言い聞かせ、忘れることにした。
「ん、着いたん?」
「着いたいうか、宮島口まで歩いとるとこ。すぐじゃけど」
宮島口は、宮島へ渡るフェリー乗り場のある駅だ。それなりに大きな駅なので、間違いなくカメラも設置されている。だから一つ手前の停留所から歩く、とまでは説明しない。
「僕も歩く」
「ええのに」
「ええけえ」
何の意地の張り合いだ、と笑う。「どしたん?」なんて傾く了を見ると、なおさら。
「なんでもないわ」
要望通りに彼を降ろし、にやけ顔をごまかすのにスマホを取り出した。バス乗り場がどこなのか、調べるのも必要だったが。
「——え。マジか」
「どしたん?」
ごまかすどころか、一気にしかめ面へ変貌さすことになった。
さっきは答えなかった了の問いにも、今度は答えなければならない。
「いや、その。宮島口いうて有名じゃけえ、バスくらいなんぼでもある思うとったんよ。でも広島市内に戻るんばっかりで、山口へ行くんがないわ……」
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