第7話:解毒

 言われて、自然。フッと漏れた息に、乾いた笑声が混じる。

 強い薬のせいか、歳のせいか。認知症も患ったと聞いていたが、こうまで綺麗に忘れるんだなと妙に感心した。

 それなら、見舞いに来たのが誰でも構わない。ベッド脇の椅子をどうぞと示されても、足元で止まる。


「ええと、覚えてないですか。まい頃、よう家に遊びに行かしてもらいよったんですけど。息子さんが、忙しいけえ。その、様子見てきてくれいうて頼まれた? んですけど」


 やったこともない営業スマイルで、思いつきも甚だしい理由を取ってつけた。それでも俺の母親は、疑うことを言わないはず。


「ああ、一太いったのお友達! ごめんねえ、おばさん物忘れが酷うて、誰じゃったか思い出せんわ」


 あれ?

 見栄っ張りのこの人が、忘れたと素直に認めた。話を合わせながら探る風にも見えず、「歳は取りたくないねえ」などと自嘲する。


「あはは、昔のことですけえ」

「ね、ほんま大きぅなって。みんなでファミコンばっかりやりよったのに」

「よう覚えとってじゃないですか。一太はそのまま仕事にしてしもうて、高給取りになりましたけど」


 本当はゲーム開発でなくプログラマーだが、この人にそういう区別はつかない。

 キーボードを叩くジェスチャーをして見せると、笑った。「うふふっ」なんて屈託なく、ドラマの登場人物なら善人で確定だ。


「あらあら、そんなお仕事しとるん? まあ一粒種じゃけえ、元気にやっとるならなんでもええわ」

「……ですね。元気ですよ」


 うん、そうだ。あんたはそういう人間だ。

 悪しざまに、あるいは皮肉めいて言えたら良かった。でも白く粉の吹いた、枯れ落ちそうな笑みを前に言えない。


「あら、あなたのお子さん?」

「え?」


 不意の沈黙の中、俺の母親は視線をよそへ向けた。

 倣って振り向く。部屋の入り口、半開きの扉から誰かが覗いていた。


「あれ、了。来たんか」


 白シャツと半ズボンも見えているのに、答えない。「恥ずかしがりじゃね」と微笑む母親に、どう返事をしていいやら。


「すんません、下で待っとけ言うたんですけど」

「ええ? あんな可愛らしい子、一人でらしたら危ないわ。おばちゃんとこ、おいで」


 楽しげに手を叩き、両手を広げて誘う。するとゆっくり、カタツムリの速度で扉が開いていく。


「来てぇや。これあげるけえ」


 枯れ枝みたいな腕が伸び、枕元のテーブルからフルーツ飴の袋を取った。既に開いているけれど、たくさんの中身がガサガサ鳴る。


「おばちゃん」


 あっさり、了は部屋に入った。両手を出し、向けられた飴の袋まで一直線。

 胸に抱え、「ありがと」と深く頭を下げる。しかし俺の母親が答える前に、「でも」と続いた。


「うん?」

「ヘイちゃんは、ヘイタ言うんよ。イッタとは違うんよ」

「ヘイタ? ああ、お父さんの名前」


 一瞬、二人の目が俺に向く。すぐまた向き合い、母親が首を動かした。寝転がったまま、頭を下げるように。


「ごめんね、教えてくれてありがとう」

「す、すんません。俺の名前なんかどうでもええんです」


 続けてどんな話になるか、察して逃げ出した。了を後ろから抱き上げ、「お邪魔しました」とだけは言って。

 階段まで、走る直前の早足。踊り場にベンチを見つけ、ため息と共に腰掛けた。


「イッタって、誰?」


 もちろん了も降ろした。直ちに靴を脱いでベンチへ飛び乗り、俯く俺の背中に背中を乗せる。


「兄貴よ。六つ違いで、今は大阪にる」

「おばちゃん、ヘイちゃんのこと忘れてしもうたん?」

「そういう病気らしいけえ、しょうがないわ」


 きっと全体重を預けている。軽いが、重い。


「でもイッタは覚えとったよ」

「いや。兄貴は月イチで来よるけど、やっぱり『どちらさん?』言われるらしいわ。いうて聞いたのも半年以上前じゃけど」


 母親が覚えているのは、二十年以上も前のことだ。俺を友達と言ったのも、話を合わせただけに過ぎないと思う。


「たぶん明日。どころか一時間くらいしてまた行ったら、全部忘れとるよ」

「ママに忘れられるん、寂しいわ」


 ブランコでも漕ぐように、了の片足が揺れる。それがなんだか背中をさすってもらうみたいで、気分が落ち着いていく。


「さあ、どうじゃろ」

「そのほうがええん?」

「うーん、なんいうか。面と向かって兄貴には賢い、俺には産まんほうがかった言いよったけえ。えっと変わらんかもしれん」※えっと=とても・たくさん・大して


 今年じゅう、生きていないかもしれない。だから了に言われたことでもあるし、最後に会っておくくらいはいいかと思った。


「じゃけえ小遣い渡して、居心地の悪い家じゃった言おうと思うたんじゃけど。反則じゃろ、あんな毒ぅ抜かれてしもうて」

「ヘイちゃん、ごめん」


 たぶん独り言の心持ちで言った。了が何に謝っているか、すぐに分からなかった。


「え? あ——いや、勘違いすなや。来て良かった思うとるけえ」

「そうなん?」

「うん。どう言うてええか俺も分からんけど、なんかスッキリしたわ」


 ほんまに? と疑う了を抱え、階段を下りる。ほんまほんま、と答えるものの証拠を示してやれない。

 しかし本当だ。二度と母親に会うこともないけれど、次に思い出す時はきっと母ちゃんと呼べる。

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