第2話:一緒に居る約束

 視線を逃した水面が、もう静まり返っていた。俺の足どころか、スクーターを落としたのさえなかったように。何十メートル先の対岸まで、真っ黒な鏡が横たわって見える。

 黙っていると、何の音も気配もない。ペンライトで照らす狭い弧の中だけが現実の世界で、外れた途端に全てを呑み込む化け物の餌食。なんて妄想が頭の中で膨れ上がる。

 慌てて、男の子の足元へ光を戻した。


「あの、これ」


 小さな白い手が、なにやら差し出す。麓の小学校名が入った名札だ。

 懐かしい。俺の母校とは違うけれど、同じ形。そこに楽道らくどう了と、彼のフルネームが書かれていた。

 細いサインペンで、丁寧ながらも力強い字だった。しかしなぜか、何年何組という部分は空いたまま。新学期どころか、既に六月というのに。


「へえ、すごい上手い字じゃ」

「うん。じいちゃん書いてくれた」


 どこかごまかしたような笑みが、ぱっと明るいものに変わる。親はさておき、じいちゃんが大事にしてくれるらしい。


「クラスは書いてもらわんかったん?」


 六年間使えるように、名前だけ分かればいいとか。普通に理由があるのだと思った。

 だが不躾な俺の問いが、咲いたばかりの花を萎ます。


「うん――ママ、学校なんか行かんでええって」


 本物じゃ。

 息が詰まる。いや、きっと了は嘘を吐いていない。本物とは彼の発言でなく、母親そのもの。感覚的に言うなら、ヤバい。


「僕、寂しかったんよ」


 慰めの言葉も浮かばない俺に、了のほうから話してくれる。子供らしい高い声が低く沈んでいき、連動するように顔も俯くけれど。


「ここにっても、誰ぁれも気づいてくれんかったし」

「そりゃあ……」


 標高千メートル近い、頂上を見上げる。付近には展望台もあったはずだが、ここは車で通り過ぎるだけの場所。しかもこんな悪天候で登っていく奴は、やはりヤバい。


「でもヘイちゃんが来てくれたけえ、もう寂しぅないんよ」

「ほしたらまあ、かった」

「じゃけえヘイちゃん、一緒にってくれる?」


 ボソボソと拗ねた声に何度も頷く。

 そうなる気持ちも分かる。などとは無責任で、とても言えなかったが。


「うん、当たり前よ。じゃけえ一緒に、山ぁ下りようや」

「ほんまに? ほんまにってくれる? 友達んなってくれる?」


 さっと見上げた顔を、ペンライトの光が真っ白にした。凹凸に乏しい能面みたいな了が、まばたきもなく見つめる。

 背中と腹の底が、きゅうっと冷えた。これが同情か、はたまた別の気持ちか、俺にも分からない。


「え。逆に俺なんかが友達でええんか?」

「ええよ。ええに決まっとるよ」


 白い長袖から伸びた手を握る。どれだけ長いこと居たのか、悲しくなるほどに冷たい。ぎゅっと強く握ると、了も同じようにして笑った。

 登山道へ向けて坂を登れば、トットッと着いてくる。歳の離れた弟が居たら、というか俺の子でもおかしくないのか。

 どちらにしても。本当にそうだったら、徹底的に可愛がるのに。


「悪いけど、歩いて下りるしかないんよ」


 登りきり、今度は下りだ。額を腕で拭いながら言うと、了は涼しげな顔で頷く。

 こっちはヨレヨレと言え、半袖のポロシャツなのに。俺も子供の時、こんなに体力があっただろうか。


「ヘイちゃん、歩いて来たん?」

「あー。いや、スクーターじゃけど」

「さっき、落ちてきたよ」

「うん。うっかりしたわ」


 広島県、くれ市の屋根。蠅ヶ峰はえがみねを幼い子供と歩く。しかも夜。女性に暴行を働き、捨てに来る話は珍しくない。

 最初の民家まで、スクーターでおよそ三十分。市街地までとなると、その二倍以上もある。不安を抱えながら黙って行くのは、拷問でしかなかった。

 知ってか知らずか、了が途切れなく話しかけてくれて助かった。


「また拾いにんといけんね」

「あー、うん。でも載っけとったのもテントだけじゃし」

「放っとくん?」


 手を繋ぎ、並んで歩く。了の強張った声に、「捨てるのか」と責められた気がした。

 それでも構わない、のが正直なところ。しかし彼に、その通りとは答えられない。


「いや。落ち着いたらでええ、いうことよ」

「ほっか。僕もお手伝いするけえね」

「助かるわ」


 落ち着いたら。とは、どうなったらだ? 普通に考えれば、警察に保護してもらうべきだろう。でもそれは俺がマズい。

 すると大事にしてくれるじいちゃんのところか。


「そう言やあ、一緒に住んどるんは誰なん?」

「ママ」


 母親を示す言葉だけが、異様に重く硬い。どんな苦しげな表情で言うのか、見たいような見たくないような。

 一瞬迷い、やはり見てみる。と、もう下唇を噛んだヘタクソな笑みに戻っていた。


「……ああ、うん。二人だけじゃったんか」

「ううん。じいちゃんとばあちゃん」

「お、ほうか。じゃあ、じいちゃんのとこへ行けばええね」


 良かった。この歳では、近くの親戚の家も知らない可能性が高い。それが同居の祖父母があるなら、解決したも同然。

 そう思うのに。ぶんぶんとかぶりを振るのが、見るより早く腕に伝わった。


「帰りとうないんか?」

「ママらんのに僕だけ居ったら、じいちゃんとばあちゃん困る」


 クソ。

 何だか分からない怒りで、繋いだ手を潰しそうに思えた。深呼吸で力を抜き、でも決して離さない。


「そんなことない思うけど。ええと、母ちゃんはどっか行く言うとった?」

「うん。彼氏ができたんじゃって」

「ほうかあ——」


 俺がどう感じたところで、何もできない。だから母親のことを考えないようにした。

 それなのにまた、「ねえママは」と了が問う。


「ママは、なんで僕を捨てたんかなあ」


 相変わらず、凪ぎの山道。アスファルトに浮いた砂が、歩くたびに小煩い。

 けれど彼の声はさらにくっきりと、耳元で話すみたいに突き刺さる。


「それはまあ、うん。ごめん、俺には想像もつかんわ」

「ほうよねえ。僕、ママに聞きたいわ」

「うん、そうしょう。じいちゃんとこ戻って、居場所聞いて、母ちゃんとこ行きゃあええ」


 真相を知ったところで、救いなどないはず。だが俺には、知らなくていいとは言えない。

 自分がどれだけひどい有り様か、理解しなければ進めないことは世の中にある。


「うん、そうする」


 納得してくれた。一つ荷の下りた心地で、足取りが軽くなった。

 それから休憩も交え、六、七時間を歩いた。疲れたらおんぶしてやると言ったのに、了は自分の足で歩ききった。


 ようやく信号機のある街中へ着き、朝日も昇った。

 ファミリーレストランで朝食のついでに、ちょっと眠るように勧める。柔らかいソファーなら、草むらとは寝心地が段違いだと。

 けれど了は眠らない。ホットケーキをうまそうに頬張り、ドリンクバーを存分に堪能するだけで。


「ほんまに大丈夫か?」

「山ん中で寝たけえ」


 胸を張り、元気いっぱいと示す。たしかにそう見えるが——まあ、一日くらい無理をしても平気か。

 彼の通うはずだった小学校の方向へ歩き、午前十時前。狙い通り、了の知る道へ辿り着いた。


「あそこ。じいちゃん


 暮市、ひろ町。海沿いの亜賀あが地区に、楽道家はあった。

 高い堤防を目の前にした、日本家屋だ。大きな納屋と、小ぢんまりした母屋。道中で聞いた通り、漁に使う小舟が見える。

 腰高で扉もない門へ、楽道の表札がたしかに。ひと呼吸して、「行くで」と了の手を引いた。


「ん、どした?」


 動かない。どんな大岩を引き摺ろうとしたか、というくらいにガツンと引き止められた。

 振り返れば幼い俺の友人が、門柱にしがみついて可愛らしく抵抗していた。

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