この道の先に夏空はない

須能 雪羽

第一幕:いく道を探し

第1話:平太と了

 落ちていく。

 墨汁を満たしたような夜の水面に、ヘッドライトを点けたままのスクーターが。

 死の間際、スローモーションになると言う。まさにそんな風で、ゆっくり横倒しになる様がありありと。

 突き落とした俺はまだ、崖の上へ立っているのに。


 生温い風が強く木々を揺らす。途切れないざわめきが、飛沫の音を掻き消した。

 まっすぐなLEDの光を泳ぐ小魚の影。思った以上に深そうな、淀んだ水底も。三十メートルほどの真下を見下ろしながら、息を呑む。

 せっかくの深い山の中。一面の木立に紛れているのだ、ではない。生きている証のような、あの強い光が消えたら――。


 風のせいか、少し息苦しかった。

 けれど問題はない。ぱらぱらと落ちゆく小石と同じく、崖の先へ足を踏み出す。それだけで楽になれる。

 いっそ欲情しているかに思う荒い鼻息。「はよう死ね」と、動かなくなったヘッドライトに呟く。


 ふっ、と。完全な闇が辺りに戻った。願った通り、スクーターが死んだ。

 生まれて初めての、十万円を超える買い物だった。嬉しい気持ちなど、むしろ今は苦しいばかり。ここしばらくの記憶が、脳裏を駆け抜ける。


「もう、どうでもええわ」


 何度目か、何十度目か分からない結論を、また自分の声に出す。

 ちょっと待てよ、なんて迷いは欠片もない。不思議なくらいに息も穏やかに整い、心の底から「よし」と思った。

 擦り切れそうなジーパンと黒ずんだ運動靴の下。拳大の土が、自身の重さに身を委ねる。


「うぇぇ……」


 うん? と、自分の身体に急制動をかけた。

 泣き声。もちろん俺でない、誰かの。声の正体より、なぜ聞こえるかが先に立つ。

 屈めた上体を戻し、見回す。さっきまでの強風が、嘘みたいにぴたりと凪いでいた。

 梅雨空に雨こそないものの、雲が月の所在も知らせない。振り返った五メートル先、そこにあるはずの登山道さえ目に映らなかった。


 どうにかアスファルト舗装ではあるが、車の行き違いにも苦労する細い道路。少なくともこの三、四十分、誰が通った記憶もない。

 くすん、くすん。

 啜り泣く声は続く。たぶん小さな男の子だ、耳に手を当てて方向を探る。


「下?」


 おそらく真下、つまりは崖の下から。なぜそんなところに、と人のことは言えない疑問を抱く。

 しかしその次、嫌な想像が過る。

 本当に崖下へ居るのなら、スクーターの水飛沫をかぶったのでは。まして落ちた石や、車体そのものが当たっていたら。

 自分のことはどうでもいい。けれどもそんな人間が誰かを巻き添えにするなど、あってはならない。


 ポケットからペンライトを取り出し、照らす。しかし途中の枝葉に遮られ、何も分からない。

 では直に行くまで。すぐ脇の門に、水源地の管理用道路と説明書きがある。

 錆びた細い鎖ごと、門扉を蹴り開けた。派手な音が立つものの、憚る相手は居ない。両手の幅のコンクリート舗装を、急ぎ足で下った。


 蔓延る草の葉を蹴散らし、三度を折り返した。しゃがめば水面に触れられる高さに、人ひとり歩けるだけの岸が細く伸びる。厚く落ち葉が積もるものの、しっかりとコンクリートで固められた。

 立ち止まり、さっさっと光を巡らす。少し乱れた俺の息のほかは音がない。泣き声もだ。


「お、おーい」


 呼びかけてみる。我ながら驚くくらい、頼りない声が出た。じとりとした粘つく汗を腕で拭い、息を殺す。

 怪我をして泣き声も出なくなっていたら。

 謝って済む話でないが、どうやって謝ろうとばかり考えた。

 それにはまず、男の子を見つけなければ。隠れるとすれば落ち葉に潜るくらいしかない。

 まさか水の中へ? 間際に立って照らす。が、ヘドロは底で落ち着いている。


「あの……」

「ひっ!」


 声がした。すぐ後ろで。

 びくっと仰け反るのと振り返るのと、身体が勝手にマルチタスクを試みる。結果、運動不足の運動オンチは、片足を水中へ落とすこととなった。


「——そこにったんか」

「あの。ごめんなさい」


 男の子は居た。下りた坂道の脇、水際へ近寄った俺の死角へしゃがみこんで。

 ペンライトを向けると、頬の全体が濡れて光る。ただし今、悲しげな目が向くのは、ずぶ濡れの俺の足。


「いや、ええよ。怪我とかしとらんみたいでかったわ」


 泥に埋まった足先を持ち上げ、言った。笑ったつもりだが、うまくできたか自信がない。

 しかし実際、男の子は濡れてもなさそうだ。よく小学生の着ている、白い長袖シャツと紺の半ズボン。

 和人形めいたおかっぱ頭からも、雫の一つさえ落ちる気配はなかった。


「こんなとこで何しとるん?」


 もう一度、左右を見渡して問う。やはり彼以外に誰の姿もなく、この場所へ至る別の道もない。

 するとこの小学校へ上がったばかりくらいの子は、なぜここに居るのか。合理的な解釈がどうにも難しい。


「僕……」


 しゃがんだまま、彼はこちらを向いた。それで俯くので、どうしたものか返事にも困る。

 言いにくいなら、無理に聞くのも悪い。怪我をさせていないなら、俺が関わる理由もない。

 でも泣いていた五、六歳の子供へ「じゃあな」と言い捨てるのは俺に難しい。


「うん。ええと、ほしたら——」

「僕、ママに捨てられたんよ」


 とりあえず上に行こう。言おうとした矢先、答えがあった。俯いた顔がどんなものだったか、俺には見えなかった。

 分かるのは彼の声に、抑揚とか感情とかが失われたことだけ。


「あ、ああ。うん、ええと」


 黙っていては、彼に悪い。

 転んで泣きそうな子に、泣くぞ泣くぞと言えば本当に泣くのだ。そんなの大したことないと言ってやりたかった。

 でも、見え透いた嘘を吐く才能がない。


「名前。名前、聞いてもええかな」

「うん。りょう


 とにかく中身のあることを言おうとして、まったく話題を変えてしまった。大人が相手なら許されないが、彼はどう感じただろう。

 すぐさまの答えは引きつりながらも微笑んで、力強く跳ねるような声。


「おじさんは?」

「おじさんて、まだ二十六じゃけど。人吉ひとよし平太へいた、言うんよ」

「ひとよしさん?」


 立ち上がる彼の顔は、いつの間にか乾いていた。そのせいか、幾分も自然な笑みに近づいた。


「苗字はやめといて。下の名前のほうがええ」

「じゃあ、へいたさん。あ、ヘイちゃん?」

「うん、ええよ。ヘイちゃんで」


 母親に捨てられたと理解した小さな子が、どうして笑える。

 ああ、俺が大人だからか。彼が頼れるのは、どう考えたって俺しか居ないからか。

 そう思うと、話すたびに下唇を噛む彼の仕草が、途轍もなく悲しく見えた。

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