第4話 彼女の場所

「──ちょっと集中しないとな、これは」


壁一つ隔てた先で妖精たちが徘徊している。

見つかればエドも一瞬でその身に針を突き立てられるだろう。

学生だからといって一切の酌量の余地もなく、敵として処理される。


「戦わない、逃げて、隠れて、見つからないようにする」


エドはだから、息を潜めた。


妖精たちの翅音が壁ごしに聞こえる。

ぶうん、ぶうん、鋭く空気を裂く音が、早鐘を打つ心臓の鼓動と重なっていた。


見つかれば容赦はされないだろう。

自分たちは戦場にいたのだ。軍人もどきの学生魔導士であることなど、敵からすれば関係がない。


「さて……本気出さないとな」


冷や汗が背中を滴る中、マナの操作を必死に行う。

壁の向こうにいる妖精たちに絶対に見つかりたくない。その一心での行動だった。

翅の音が響き渡る。けたたましい笑い声と共に外で舞う妖精たち。

奴らは視覚や聴覚でなく、マナの動きで世界を認識している。だから人が自然と発するマナの動きを隠せば、その身を隠しきることは理論上は可能だ。


事実、先ほどから何度かこの建物の前を妖精たちが現れるがすぐにどこかに行く。

たまにじっと立ち止る個体もいるが、エドは必死の集中で身を隠すことに成功していた。


僕はここにない。誰もここにはいない。だからどこかに行ってくれ――


――でも、どうするの? エドワード。隠れ潜むといっても、このままじゃあ、何もならない。ただの問題の先送りだよ。


自分の中で、誰かの声がした。

ひどく聞き覚えのあるこえだった。

そしてその言葉にエドは一瞬囚われた。


その一瞬の逡巡がダメだったのかもしれない。

エドは近くにあった棚を倒してしまった。「あ」と声を出したころにはもう遅かった。

大きな音を立てて木製の棚は倒れた。そしてそのことに取り乱したエドのマナ操作が一瞬崩れた。


「sbwrtb? Frwbtrws? sthwrhts? ill! ll! ll!」


武装妖精たちは、当然のごとく反応しただろう。壁の向こうで翅音が止まった。

一瞬とはいえ平静を崩したエドの存在に、何騎かの武装妖精たちが気づいた。


エドは大きく息を吸い、そして吐いた。


どうにもやるしかないようだった。

色々と予断を許さない状況だが、しかしシンプルな状況でもある。

手に持っていた愛用の魔導書赤の七十七を広げる。学院時代から何度も使い込んだその本の重さは、エドに対して安心感を覚えさせてくれる。


そして意を決して――呪文を唱えた。


「―――――!」


魔導士として身体に染み付いた高速詠唱。

この世を形作る女神たちへの祈祷を込めた万能言語により、エドは世界へと干渉する。

空気中に含まれた赤マナを収束し、志向性を持たせ、その性質を熱へと変換し、開放する。


――絶対に、生き延びないとね。


爆音と共に放たれた赤の閃光が、灰色の壁を打ち砕き、跳びまわる妖精たちを打ち貫いた。

爆散後に見えた妖精の姿は総勢三騎。不意打ちのごとく最大出力の閃光を受け、二つが翅をもがれており、一つが態勢を大きく崩して倒れたのが見えた。


――ラッキーヒット! でもすぐ集まってくるよ、エドワード。


頭の中で声がする。

うるさい、と思いつつエドは駆け出していた。

むろん打ち漏らした敵を撃破するため――ではない。ひとえに握るため、エドは慣れない全力疾走をもって戦場と化した廃墟を駆けていた。


「ありがとう、魔導書赤の七十七君のことは忘れない」


エドは駆けながら小さく呟いた。

その背後で爆音が立て続けに巻き起こっていた。

あの場に残した魔導書赤の七十七が自動筆記で乱雑な閃光をまき散らしていることだろう。

即座に組んだ呪文文面を繰り返し処理するように仕込んだので、辺りのものを手当たり次第破壊しているはずだ。

数年連れだった愛用の魔導書だっただけに正直名残惜しい。華々しい散った《赤の七十七》に敬礼したい気分だった。


妖精たちはマナで世界を視る。

しばらくはアレがデコイとなって目を眩ませてくれるはずだ。

その隙にこの街からとにかく逃げ出すしかない。

だから走る。恐ろしい虹がかかる空の下、妖精に見つからないことを祈りながら、一刻も早くここから逃れようとして――


「や、やめなさい……! このっ――!」


その時、エドはその声を聴いた。

聴こえてしまった、というのが正しいのかもしれない。


少しでも違うルートを通れば、あるいは違う爆音にかき消されていれば、きっと彼は気づかず走り去っていただろうし、もしかすると五体満足ですぐに脱出できたかもしれない。

だが聞き覚えのあるその声を聴いたとき、エドは思わず足を止めた。


ぱっと身を瓦礫の中に隠し、その声の先を見た。


「はぁ、はぁ……! 私はスカーレット、スカーレット・ウォーカーですのよ」


ぼろぼろの姿のスカーレットがそこにいた。

エドのものより上等な生地でできた魔導士ローブは既に破れており、その白い肌には血が滲んでいた。

そして彼女を取り囲むように四騎の武装妖精が空を舞い、その鋭利な針を露出していた。


「死ぬときは、笑って死んで――いえ、笑って生き延びてやりますわ」


そう言ってスカーレットは、言葉通り笑って見せた。

見れば足元には敗れた魔導書が落ちていた。

すでに抵抗し――そして敗れたのだろう。それを受けて、なお彼女の瞳には強い意志があった。

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