二段ベッド的なもの

 「二段ベッド」という言葉に触れる度に、二段ベッドそのものを目にする度に私の脳裏を占拠する図々しい記憶がある。それは二段ベッドを人生で初めて見た時の記憶だが、その日起きた出来事のどれもが幼子にとって「特別な」印象を与えたため、小さな感激屋の感情を吸って肥え太り、忘却曲線の滑り台の途中でつっかえてしまったのだ。想起すればするほど最初の記憶に想起時の感情が付着して(郷愁きょうしゅう驚愕きょうがく虚無きょむ感が幾重にも張りついている)重さを増したというのに、無意識から射出される速度は刹那に迫っている。読者の中にもこうした現象に心当たりのある方がおられるだろうが、まずは私と二段ベッドの出会いについて説明させてほしい。


 六歳の誕生日を年明けに控えた秋のある土曜、私の家族は父の従兄の家に招かれた。その家のおじいさんの長寿の祝いか何かで呼ばれたのだと思う。とにかく、そこには見たことのない親戚が大勢詰めていた。テーブルに所狭しと並べられた料理をちびちびとつまみながら歓談する大人達をよそに疾うに満腹していた私はぼうっと座っていた。時々父のほうに目をやって、「そろそろ帰るかね」と言い出すのを期待したが無駄だった。きっちりと酔っていたから。それから隣にやってきたおじさんが私の手を取って指を折り曲げた。子供の指をポキポキ鳴らすのが好きなあの手合いだ。こちらがちょっと涙目になっていると、大げさに驚いて謝ってきたので、たぶん悪い人じゃないなとその時は思った。

「こら、あんた他所の子に何やってんの」ちょうど台所から鍋を運んできたおばさんが叱りつけた。「もそんなとこにいないでお姉ちゃん達に遊んでもらいなさい」

 離れたところで梨をシャクシャクと食べていたお姉ちゃん達が部屋に案内してくれることになった。彼女達は中学一年生と小学五年生の姉妹で、小っちゃい子と遊ぶのは久しぶりだと喜びを露わにし、るんるんと階段を登って行った。それを追いかける途中で私は後ろ向きに転び、ぐるぐると一階まで落ちた。頭がとんでもなく痛かった。駆け寄ってきた大人に全身を触られ、特に異常なしとのことですぐさま解放された。階段から逃げることは許されなかった。なんとかたどり着いた姉妹の部屋で私はついにそれを見た。

「私達ってなんだって」

 一段目にはピンクのシーツを掛けた布団が敷かれていた。

従兄弟いとこの子供同士をはとこって言うんだよ」

 上に目をやると、すのこの隙間から水色が覗いていた。

 私がそれを指差して名を尋ねると、二人は顔を見合わせてくすくすと笑い出した。

「二段ベッドって言うんだよ。知らなかったの?」

 二人は幼子の好奇心に応えて上の段に登る許可を与えた。

 いつもよりも高い所で遊ぶリバーシやババ抜きは楽しかった。根に持つ性格の私が勝敗を忘れてしまうくらいには。そして、私は二人のことがすっかり気に入ったので、憚ることなく好意を伝えた。人に「好き」と言ったのは今のところこれっきりだ。


 話者が掛詞しゃれを意図した場合を除き、多義語は文脈に応じて一意的に解釈されなければならない。同様に、語にまつわる個人の思い出を無視し、周知された意味を選び取るのは普通のことだ。「二段ベッド」という言葉を聞いてもビクついたりせず平然と構えていなければならない。だのに、私にはそれができないのだ。

 もちろん私は二段ベッドがほとんど全ての人間にとって空間を要領よく利用するための家具に過ぎないことを知っている。誰も私の過去を知らない。私の愛着を知らない。彼らは何の自覚もなく(自覚しようもない)人の意識を過去に飛ばしている。

 これがコミュニケーションで常に起こっていることなのかもしれないと考えると頭が混乱する。しかもどの言葉が引き金となるかわからない。トラウマを刺激する言葉もあるはずだ。こういう時こそ沈黙を美徳とする諺の数々を思い出すべきなのか……

 そもそも言葉とは指差し可能な範囲外の物事について何かを伝えるための道具だった。会話中、知覚可能な範囲の現実は疎かにされる。だから、想起とは、この余所見よそみの勢いを殺しきれず現実も会話の文脈も通り過ぎていびつに圧縮されたお一人様の過去に目を振り向けることなのかもしれない。言葉を介して互いに通じ合っているつもりで孤立している場合を想像すると切ない。

 それでも言葉を諦めない者のことを私は認めることにしている。褒めも責めもしない。思うままに使うといい。先のことは誰にも保証できないのだから。

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