なかったのになかなかったのに

なかったのに

楽しい家族の思い出なんてなかったのに

今更リビングから笑い声が聞こえてくる

屁をこいたのはお前だろ

なんて押し付け合う声が聞こえてくる

どうしてだか涙がこぼれる


泣かなかったのに

両親の夫婦喧嘩に包丁が登場した時も泣かなかったのに

動けない兄に代わって止めなきゃって

図書館で借りた本も放り投げて

刺すなら僕を刺してって割り込んだ時も泣かなかったのに


遅すぎた

あの子が報われるにはもう遅すぎた

痴呆の末の団欒よりも

心中のほうが慰めじゃないか

僕がいないところで死んでくれ

僕がいないところで生きてくれ

あの子へのつぐないを考えているうちに

できるだけ遠いところへ立ち去れ


言葉を知らないみぎりから

イメージだけで伝えられた思い出と

伝える苦しみに苦しんだ

涙も知らないあの子を

抱き締めてやれるのは僕だけだ

そのための腕 そのための言葉

そのための涙

もし抱き締めてやれないなら

どれ一つ要らないそれら

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