二次試験★★★

 入試が始まろうとしていた。問題用紙と解答用紙が全ての受験生のもとに行き渡り、後は開始時刻を待つだけとなった。極限まで張り詰めた空気の中で中田なかたはこれまでを振り返る。

 高校受験に失敗し、滑り止めの私立高校に通うことになった三年前の春。ほとんどの生徒が不合格のショックを引きずっていて、教室の空気は淀んでいた。桜を眺めて気を晴らそうにも外は雨。入学式の日だというのに未来に希望を抱かせるようなものは見当たらなかった。そんな彼らを教卓から見下ろす男だけがにこやかで、やがて心に溢れんばかりの喜びをお裾分けするかのようにこう言った。

「本校は伝統と実績を誇る男子校です。理事長の目利きにより実力ある教員が揃っております。生徒全員に充実した授業と手厚いサポートを保証します。御覧の通りここには女子が一人もおりません。つまり、真に勉学に集中できる環境が整っているということであり……」

 出席番号一番から四十番まで同性という現実に打ちのめされ、たぶん誰一人担任の話を聞いていなかった。彼らは夢見ていたのだ。青春を。薔薇色の高校生活を。気になる異性のそばで汗を流し、心を通わせ、堂々と恋人の汗を舐める日々を。それがどうだ。見渡す限り男、男、男。どいつもこいつもごつくて、体毛が濃くて(左右のもみあげと髭がつながっている生徒が隣に座っていたせいで早合点した。薄いのもいる)、顔に陰気な表情を浮かべている。金を積まれたって愛してやるもんか。新入生の心は皆同じだった。

 中田も例にもれず異性愛者で、行き過ぎた友情を育むことはなかったが、彼はそうした態度をより徹底した。普通の友達付き合いを馴れ合いと蔑んだ。同級生はテストの点数を競うライバルであり、相手が成績を落とせば「話しかける値打ちもない」とばかりに見限った。孤立を深め、空いた時間に単語帳などを読んで過ごし、点数を上げ、周りを見下す。二年生に上がる頃にはそうした悪循環が出来上がっていた。

 しかし、次第に中田の態度は目立たなくなる。過去に担任が話していた通り勉強に力を入れているガチの進学校だったので、他の生徒も休み時間にお喋りをすることが難しくなった。強制参加の課外授業を含めて朝の七時四十分から夕方の六時まで計九コマの授業がある。予習と復習に追われ、友達に構う暇もなくなり、殺伐とした雰囲気が醸成された。

 その年の夏頃から中田は文系一位の座を不動のものとしていて、同級生や教師にほめられてはそっけなく相槌を打つ以外に口を利くことがなくなった。校内にライバルがいなくなってから、自分が何のために勉強しているのか考える日が増えた。将来やりたい仕事もなく、かといって目的もなく読書するほど好奇心旺盛でもない。強いて言うなら、常に頭を動かしたり情報を詰め込んだりしていないと落ち着かない性分なのだ。でなければ、毎朝通学中に見かける、初老の男が信号待ちの間に唾を吐く光景を何百回も脳内再生したりしない。とりあえずはそう考えて日々を過ごした。

 案の定それっぽい自己分析で誤魔化せなくなるまでに時間はかからなかった。ただ、本格的に分析するためには記憶の封印を解く必要がある。共学に通った皆さんには理解いただけないだろうが、これはとても辛い作業なのだ。小学生の頃眼鏡を新調した女の子がそれを自慢した後に「中田君も掛けてみない?」と差し出して来た日のドキドキやらの温もりやらを思い出すだけで彼は泣いてしまうのだ。すれ違う人々がちらちらと視線をよこしたのにも気づかないほどおいおいと。だから、もし全てを思い出そうとしたら彼の心は木端微塵になっただろう。そんなわけで、彼は一先ず自分のことは忘れ、他人事として楽しめる範囲で小説を読んで受験まで日を過ごした(ちなみに、中田が愛読したのはドストエフスキーの作品を中心としたロシア文学で、これがもしカクヨムに投稿されているようなラブコメ小説だったら彼は絶命していただろう)。

「では、始めてください」

 問題用紙をめくる。全ての問題にざっと目を通し、大した難易度でないことを確認すると順番に解いていく。男子校の生徒が他校の女子と知り合ったり仲を深めたりする段取りは三年間考えてもわからなかったが、目の前の数学の証明の手順はあっさりと思いつく。最後の証明を終えると、紙にふっと息を吹き、砕けた鉛筆の粉を払った。

 昼食を挟み英語の試験が始まる。午前中の試験で手応えを感じて気を良くしていた中田だが、今度の試験には顔を顰めた。それも最初の問題を見た瞬間。用紙にはこう書いてあった。

1. 次の英文(A)と(B)を読み、それぞれの下線部の意味を日本語で表しなさい。

(A) I love you.

  —————


 困惑した。ひたすら困惑した。とても大学入試に出るような問題ではないはずなのに、自分はそれを目にしている。夢でも見ているのだろうかと頬をつねると、普通に痛い。

 出題者の意図は何だろうか。困惑から抜け出すためにも彼は努めて冷静に思考する。サービス問題にしては簡単過ぎる。受験生の緊張をほぐす冗談だとしたら、これは逆効果だろう。恐ろしい。とても文字通りに訳すことができない。何か深いわけがあるのか……

 わからない問題を飛ばし、わかるところから解くという鉄則を忘れ、彼は一問目に囚われ続けた。

 試験官が手元の時計に目をやり、「残り三十分です」と親切に告げた時、ようやく何かを思い出した。月、そうだ月だ。月が欠けてるんだか満ちてるんだか人に尋ねるんだっけ…… 彼はぼんやりと目が不自由な人を想像した。その人は何者かに補助してもらいながら夜道を歩いている。自分には昼と夜の区別がないけれど、付き添う相手は暗闇が怖いかもしれない。だから、相手に訊くのだ、今どんな月が出てるか、と。そしたら、隣から「月という天体はない」と返って来る。不思議だ。月が天体であることを知らなければ出ない言葉だ。現実逃避中のかぐや姫なのか相手は。

 結局記憶違いに妄想を重ね、解答用紙の枠内に「いとうつくしうてゐたり」と書き込んだ。

 まもなくタイマーが鳴った。中田は用紙の回収を待たずに教室を出て受験会場を去った。それから近辺の観光地を巡り、数日後無事帰宅したという。アクロバティックな意訳を試み、着地をしくじった男の話はこれにておしまい。

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