ずっと『家路』が流れていたから★★

 信号が青に変わった瞬間、「コンビニまでかけっこしようぜ」と彼が言う。君がまごついている隙に彼は駆け出し、軽自動車に撥ねられる。横断歩道の真ん中で額から血を垂らしながら嗚咽する友人の周りに大人達が集まる。彼らは友人に痛みの程を尋ねたり慰めたり名札の裏を見せてもらったりした後、君にも何か訊いてくる。交差点の角にある床屋のおじさんが通報している最中に『家路』が流れ、君は救急車が到着するのも待たずに帰宅する。そこでは母が夕飯の準備をしていて、鍋に具材を入れながら息子に一日の出来事を報告させる。今日は算数のテストがあって、ヒロトとユウキが喧嘩して、さっきはソウタが車に撥ねられたよ。菜箸を動かす手を止めた母が問うままに詳細を答えているとサイレンが聞こえてくる。「なんで帰ってきたのよ」と彼女は怒鳴り、火を止めて君を現場に連れて行く。そして間に合わない。

 こんな映像をもう十四年も脳内再生している。戒めのためだと言えればよかったのだろうが、そこまで人間が出来ていない。勝手に走り出したのは友人だし、彼を撥ねたおばさんは焦っていたらしくまともに確認もせず右折した。時間通りに帰宅しないと、理解不能なほど母はブチ切れた。それがわかっていたから町内放送とともに帰宅したのに、結局怒鳴られた。デカい声は今も苦手だ。

 大人が子供に強いるルールを厳密に守ったせいで損をした例をもう一つ挙げよう。小学生の時、漢字の小テストの採点を隣の席同士ですることがあった。「止め、撥ね、払いまでしっかりこだわってください」と先生に言われたのでその通りに丸付けしたら0点と出た。隣の席の女の子が泣いた。涙と鼻水のせいで何を言ってるかわからない彼女の代わりに事情を先生に説明すると、彼は苦笑いを返した。結局君が謝る羽目になった。

 君は納得が行かないながらも心ある人間になろうと努力した。相手の立場に立って考えるとか丁寧な言葉遣いを心がけるとか。道徳の授業でよく聞くやつだ。そして実践すればするほど周りの人間にも同情心や優しさが欠けていることを発見した。偶然自分の周りがそうだっただけなのかもしない。偶然頭が悪くて、自制心がなくて、他者の感情の解釈を誤ってトラブルを起こす、そういう人達に囲まれていただけだったのかも。愚痴や悪口をこぼさない奴は仲間ではなく、仲間内でストレスを循環させていることにも気づかない。中学を卒業するまでに君の人間嫌いの半分が出来上がった。

 高校では一人で過ごす時間が長かっただけに書くべきことも少ない。ただ、一回だけ人助けをした。登校中に柱に頭をぶつけて血を流している同級生を保健室まで連れて行ったのだ。傷の手当てが終わったあと当人から感謝された、パニックを起こさずに対処してくれたのは君だけだと。そりゃそうだ。あの日から、ずっと『家路』が流れていたから。

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