第196話 幕話 温泉旅館 若女将

「お出になられましたね」


「はい」


 一泊された次の日に野原様ご一行は当旅館を後にされました。


 沢風様が2度とお会いしたくない方でしたので、剛田様も同じような方ではないかとはじめこそ身構えていましたが、テレビや動画で拝見していたイメージ通りの、とても素敵な方でした。


 帰り際には、当旅館のスタッフ(従業員)と一緒に撮った記念写真だけでなく、武装女子バンドの皆様からのサイン、まさかウチのスタッフ(従業員)全員にしてもらえるとは思いませんでしたが、とてもいい思い出になりました。当旅館の宝物にしたいと思います。


「皆様、今日も頑張りましょう」


 皆様も分かっているのです。他に宿泊されているお客様なんていないことを。


 それでも帰り際に見せてくれた剛田様の素敵な笑顔に「色々と良い思い出の旅館になりました。また来ますね」という感謝の言葉。


 社交辞令だと分かっていても、とても嬉しい気持ちになりました……


 折れそうになっていた私の心に一筋の光が差し込むような、もう少し頑張ってみようという気になったのです。


 不思議ですよね、何の根拠もないのに……今ならなんでもできそうな気がします。


「若女将、頑張りましょうね」


 母である大女将はまだ体調を崩していますが、それでもトメさんをはじめとした、ウチのスタッフ(従業員)全員が、同じ気持ちになっていたようです。


 皆様、今日は一段とやる気がありますね。


「よし」


 私だって負けていられません。気合を入れて1週間ほど目を背けていたSNSをチェックするとしましょう。


 チンピラ女がいなくなったところで、悪い噂がすぐになくなる訳ではありませんが……今の私なら大丈夫、なはずです。


 考えないようにしていましたが、あんなことがあったあの日から、ウチの旅館のSNSはすごく荒れています。

 1度心が折れそうになり、見るのを控えていました。


「でも、今日は負けません!」


 今なら誹謗中傷を匿名で書き込んでくる輩にバンバン削除を要求してやりますよ。


「ふう」


 それでも怖いものは怖いですね。一度息を整え気合を入れ直してから確認いたしましょう。


「いざっ」


 大丈夫。大丈夫だよ私。根も葉もない誹謗中傷なんかに負けてなるものか……? あれ? 荒れて……


「……ませんね」


 これは一体どういうことですか? 毎日のように書き込まれていた誹謗中傷の数々、それがどこにも見当たりません。


 それどころか、今までに書き込まれていたすべての誹謗中傷が削除されているではありませんか。

 投稿者に対して削除を要求したり、サイト管理者に削除依頼を出しても、全然対処してもらえてませんでしたのに。


「どうして……」


 ウチにとっては良いことなんですけど、何が何だか、意味が分かりません。


 そういったことに詳しい訳でもないのですが、気持ち悪いのでその理由を探していればすでに夕方。


 狐につままれた気分のまま、とりあえず大女将には報告しておこうと腰を上げたその時に、さらに驚くことが……


「若女将! 聞いてくださいっ」


「ええ! ……それは本当ですか!?」


「はい」


 そう、それは宿泊したいというお客様からお電話があったとの報告。


「うれしい……こんなこともあるのですね」


 さすがにネットからの予約は入っていないだろうと思いつつもどこか期待していた私。ちょっと図々しいけど、いいのです。


「さすがに、ないでしょうね」


 恐る恐る、そちらの方も確認してみれば10組ほどの宿泊予約が入っているではありませんか。


 なんてことでしょう! 


 通知をオフにしていて気づきませんでしたよ。

 すぐに大女将をはじめ、スタッフ(従業員)みんなに伝えれば、みんな揃って大喜び。


 宿泊予約が入ってきたのは突然のこと。理由なんて分からないと思いましたが、その原因は意外とすぐに分かりました。


 電話で予約されたお客様は、剛田様や武装女子(メンバー)様が宿泊された部屋をご希望されていたからです。


 電話を受けた担当者も舞い上がって忘れていたと頭を下げていましたよ。


 たぶん、ウチの旅館を出てからすぐだったのでしょう。

 剛田様と武族女子の皆様がSNSでウチの旅館のことをすごくいい旅館だったと褒めてくださっていたのです。

 それがどんどん拡散されていて、私もびっくり。


 そこのコメントには、私も行ってみたい、予約しちゃいました、サーヤは行くべき、というような前向きのコメントが数えきれないほど書き込まれて、嬉しくなった私は剛田様と武族女子の皆様のSNSアカウントにお礼の言葉を添えてDMを送っていました。


「サーヤですか」


 それと同時に、サーヤが彼のファンクラブの会員さんのことだと知り勢いのまま私も入会。


 すぐに入会手続き終了の通知とともに、『サーヤとしての心構え』が送られてきました。

 会員証と会員の証であるサーヤリング(小指推奨)は後日送られてくるそうですが、サーヤリングには取り外し可能なチェーンが付属品にありネックレスとしても利用できるようです。デザインがすごく可愛いですね。


「そうだサイン」


 サーヤとしての心構えに目を通していると、もらったサインのことを思い出しました。

 さっそく、サインの保管用にUVカットアクリル仕様の額縁を購入。


 UVカットアクリル仕様の額縁が届いたらサインと集合写真を入れて受付カウンターに飾るのもいいですね。


 沢風和也様のサイン? はて? 気づいた時にはどこかに消えていましたよ。


 悪いことは重なりますが、良いことも重なるようです。

 それはヒーワイテレビのネットチャンネルが削除されていたことです。


 これは撮影されたかもしれないウチのスタッフ(従業員)が、もし自分が映っているようなら訴えようと会員登録していたから分かったこと。


 詳しく話を聞くと、各会員に倒産を知らせるメールが届いたとかなんとか。

 内容は払った会費は返せないとかなんとか、都合のいい勝手なことばかり書かれていたようですけど、それでも従業員からすれば嬉しい知らせ。倒産を心から喜んでいたよ。


 ニュースにはなっていませんが、どうもヒーワイテレビの方々は違法なことをしていて逮捕されたとかなんとか。

 風の噂では、内部告発をした方がいたようですね。


 電話の対応から何から何までおかしな会社でしたから、よくやってくれました。と、嬉しく思いはするものの内部告発をした、勇気ある行動をした人物が無事に過ごしているのか心配しますね。

 顔も名前も分からないその人物は迷惑かけられた者たちにとっては救世主ですが、無事であることを祈ることしかできないのが本当に残念です。

 

 そんなことがあってから一年。


 大女将も元気になり、今では以前と同じくらいに活気が戻り、いえ、以前よりも活気が出て、自分で言うのもなんですが、多くのお客様に愛される温泉旅館になっているように思えます。


 廃業を考えていたあの頃がウソのようです。


 でも間違いなくあったのです。辛くて涙で枕を濡らした日々が。

 誹謗中傷の書き込みで心が折れそうになっていた日々が。

 仕事がないからと離れていった従業員の背中を黙って見送ることしか出来なかった日々が。


 あの日があったから、助けてくれた皆様に、そして、ご利用してくださるお客様に対する感謝の心を忘れません。忘れてはいけません。


 もちろん、私の小指には今でもサーヤリングが輝いています。


 サーヤの方々に助けられた私は旅館だけでなくサーヤとしての活動も精力的に参加していますからね。

 今では私の生きがいの一つです。


 そうでした。ひょんなことから、中山様と再び話す機会があり、気づけば武装女子会(会社)とも取引をする仲になっていたのです。


 私としては、サーヤとしてグッズ商品を紹介したくて旅館にそのコーナーを設けていただけなのですが、話がどんどん膨らみ、旅館の一部を改装して武装女子のグッズ売り場として提供していましたよ。


 秋内様恐るべし。


 ついでだから、ここでしかない買えない温泉旅館限定グッズを作ろう、とまで言い出し、冗談かと思っていましたが、それが本当の話で、いつの間にかグッズ売り場に並んでいたんですよね。

 しかも、その商品が飛ぶように売れているのですから秋内様は商売の神様ですかね。


「武人様。お待ちしておりましたよ。温水温泉旅館にようこそ」


「若女将。いつもありがとう。今日もよろしくね」


 そして、あまり大きな声では言えないのですが、武人様はテレポートが使えるらしく、ご家族やご友人、会社の同僚となる方々を連れてちょくちょく泊まりに来ています。


 信じられませんが、武人様は一度のテレポートで10人くらい運べるそうです。テレポートで飛べるのは1人だったと記憶にあったのですが、私は彼のサーヤ。些細なことは気にしませんよ。


 そして、テレポート先は当旅館の離れ。武人様のためにこっそり建てたのですが、気にされる方なのでそこは内緒にしています。


「「「タケトくんっ!」」」


「あっ」


 ふふ。温泉に浸かり気が抜けるのでしょう。たまに、他のお客様に見つかり困った顔でサインをしている武人様も素敵ですよ。

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