いつかどこかの話の続き
closedの看板がかかった扉を開けると、カウンターの奥で作業をしていた美女──瑞稀さんが顔を上げて僕に向かって微笑んだ。
「おはようございます。お久しぶりですね」
クラシカルメイドな制服に身を纏ったその姿は、古き良き大和撫子を体現していると言っても差し支えはあるまい。柔らかくこちらを包み込んでくるような笑みからは母性すら感じさせる。
──まあ、この人男なんだけれども。
なまじ元の姿をしっているだけにギャップに戸惑いそうな気もするが、そもそも同じ人物だとは思えない変身っぷりなので僕に違和感すら感じさせない。
僕としては僕に実害がない限り他人の趣味をどうこう言うつもりは一切ないからどんな姿でもかまわないが、そういうことに目くじらを立てるような狭量な人であってもこの完璧な姿を見たら文句は言えないだろう。
本日の僕は”喫茶Morpho”にバイトにきていた。本来ヘルプに入る予定だった東雲が風邪でダウンしたので、その代役である。まったく、だから寒い日の夜はベランダでの露出を控えろと言ったのだ。
「本日は遠くからわざわざすみません。冬実さんが駄目となるともう他にあてがなくて、正直助かりました。交通費の分も別途支給させていただきますので……」
丁寧に頭を下げる瑞稀さんに、僕はそれは不要であると伝える。交通費は明らかに自業自得な理由でシフトに穴を開けた東雲から徴収することになっているのだ。
瑞稀さんは申し訳なさそうな顔をしながらもどこかほっとしたように頷いた。
「そうですか……。そうしていただけると助かります。正直なところ、お店にとっては電車代を支給するだけでも手痛い出費でして」
この喫茶店がそんなにかつかつな経営状況だとは意外な話である。
以前バイトに入った時も客入りはけっこうなものだったし、喫茶店としては流行っている方だと思っていたのだけれども。
僕の疑問に瑞稀さんは苦笑する。
「確かに売り上げは悪くないのですが、最近は物価高で何をするにも入り用でして……。加えて店長が副業にうつつを抜かして中々店に出てこないものですから、人件費の方が……。本来はオーナーである店長にシフトを埋めていただくのが一番の経費削減だというのにあの人はまったく」
最後には愚痴るようにぼやく瑞稀さん。冷泉先輩のときも同じようなことを言っていたので相当腹に据えかねているらしい。
確かこのお店の店長は作家さんなんだったか。本人は作家としての収入があるから店の売り上げが下がったところで気にしないのかもしれないが、従業員としては不安だろうに。
……ん?というか、確か瑞稀さんは学生だと聞いた記憶があるのだがやけにお店の経理に詳しいような?
「……店長があまりにも雑な方なので、経理は
おおう……。
冷泉先輩の方ならともかく、瑞稀さんにここまで言わせるとは相当な自由人に違いない。僕にしては珍しく一度そのとんでも店長に会ってみたいような気がしてきた。作家先生であるという話だし、立ち位置的に僕に実害は出なさそうだし。
「さて、そろそろ開店の準備を始めないといけませんね。前回と同じロッカーにシャツがかけてありますので、それを使ってください」
時計を見ながらの瑞稀さんの言葉に頷くと、僕はスタッフルームに続く扉に歩み寄り深く考えもせずに扉を開ける。
スタッフルームはちょっとした大きさの部屋で、店の備品やら休憩用のテーブルやら従業員用ロッカーやらが詰まっている。そしてロッカーは部屋の正面にあるのだが、そのロッカーの隣にある姿見の前にはふたりの先客がいた。
ひとりはぱっと見長身の優男といった風の人で、僕と同年代ぐらいに見えるがどこか老成した雰囲気もある。
もうひとりは黒の短髪と日に焼けたような褐色の肌に加えて鋭い目つきが印象的な人物で、攻撃的というか不良っぽい感じだが、クラシックメイドな衣装を身に纏っていることでその印象も相当に和らいでいる。
そして、優男っぽい人は不良っぽい人が身に纏うクラシックメイドな制服の背中のファスナーに手をかけていて、不良っぽい人の健康的で滑らかな背中が大胆に晒されていた。
あ、すみません。
驚いたように目を丸くしてこちらを見るふたりに謝罪をして、僕はドアを閉めた。そしてちょっと考えてから背後を振り返ると、カウンターの中でくすくすと忍び笑いを漏らしている瑞稀さんに問いかける。
衣装的には正面にボタンを付ければ済む話なのに、なんでわざわざ背中にファスナーを付けたんでしょうか。
「
背中のファスナーって自分で閉じられるように紐とか付いてたりすると思うんですけれど、そういうのは……。
「ないです。店長の趣味で」
そっかあ。趣味かあ……。
笑みを浮かべたまま言い切る瑞稀さんに僕がそれ以上なにも言えないでいると、スタッフルームの中からどたどたと大きな足音が聞こえてきたので僕は慌てて横に避けた。
「おいごらあ!」
乱雑に扉を開けて出てきた人は、僕の方に目もくれず瑞稀さんに向かって吠え立てた。
「てめえ!あたしたちがいるのわかってて人を入れやがったな!?」
その確信めいた問いに瑞稀さんは笑みを引っ込めて冷然とした表情で返す。
「おや、おふたりともスタッフルームに入ってからそれなりに時間が経っていましたから、てっきりもう着替えていたと思ったのですが。……開店準備をすっぽかしていったいナニをなさっていたんですか?」
圧のある笑みを浮かべた瑞稀さんに怯んだ不良っぽい人は、しどろもどろになりながらも反論する。
「べ、別になんもねえよ!ただ話が弾んで時間を喰っただけで……。てか、何があったっと思ったんだよお前は!」
「ええ、私の憶測でよろしければ開帳してもよろしいですが、彼の前でそれを言ってもよろしいのですか?」
「はあ?駄目に決まって……ああん?」
瑞稀さんが僕に視線をくれたことで、不良っぽい人は隣に立つ僕の方を見た。ガンを飛ばしてきた、と言った方が正しいかもしれない。
だがそれが恐ろしいかというとそうとも言えない。睨めつけるような視線による圧が童顔で可愛らしい顔立ちとメイドな制服に相殺されてしまっているのだ。
「……てめえ、見ねえ顔だな」
そりゃあ僕たちは初対面なので、僕の顔を見るのは始めてだろう。そんなことを言ったらこの人を怒らせかねないので曖昧に笑って誤魔化すことしかできないのだが。
しかし、無難な選択を取ったつもりであったが、不良っぽい人のお気に召さなかったらしい。不良っぽい人は僕の笑みを見ると、途端にまなじりを吊り上げて口を開こうとした。
……と、そこで。
「止めなよ、
スタッフルームから出てきた優男っぽい人が不良っぽい人をなだめるように頭に手を置いた。不良っぽい人は顔を朱に染めるとその手を振り払い、矛先を優男っぽい人に変えて吠え立てる。
「おい!人の頭を撫でるんじゃねえっていつも言ってるだろうが!何度言っても聞かねえやつだな!」
面前で怒鳴られた優男っぽい人は手を払われたことを気にした様子もなく頭を掻きながら笑みを浮かべている。
「ごめんごめん、つい癖で」
「ったく。身長が伸びりゃあこんな真似しねえだろうと思ってたのに、ちっとも止めやがらねえ……」
「たしかに昔はもっと撫でやすい高さだったのにね。……もったいない」
「ああん!?」
不良っぽい人に再び睨まれた優男っぽい人は、それをははは、と笑って躱すと僕の方を向いた。
「君が副会長の代わりだね。俺は
そう言いながら頭を下げる九条さんに、僕は慌てて名乗り返して頭を下げる。悪いのは風邪をひいた東雲のやつなのでそういうことをされるとこちらの方が申し訳ない。
「いやいや、元々はこちらがシフトを埋められなかったのが悪いから」
いやいやいや。
「いやいやいやいや」
「……学生同士とは思えないビジネスコミュニケーションですね、これは」
呆れる瑞稀さんを他所に九条さんと互いにぺこぺこしあっていると、隣から露骨な視線を感じた。そこにいるのは当然不良っぽい人である。
「ふうん。あの副会長のダチねえ」
不良っぽい人は先ほどのように因縁を付けてきそうな感じではなく、探るような視線でじろじろと僕を見ている。
「副会長には
「千秋さん」
独り言のような不良っぽい人の言葉を瑞稀さんが険のある言葉で咎める。
「別に良いだろこのぐらい。あの副会長なら気をつかわれたくないって言うだろうし、睦のやつだって湿っぽい扱いなんて望んでねえだろうさ」
そう言って肩を竦める不良っぽい人だが、東雲が未だ脱ブラコンできていないと知ったらどんな反応をするだろうか。まあ言わないんだけれども。
「そんなことよりほら、千秋も彼に挨拶」
九条さんが話を切り替えるように不良っぽい人に促す。不良っぽい人はへいへい、とかったるそうに頷くと僕に向き直る。
「俺ぁ千秋だ。助っ人だろうがなんだろうがこき使ってやるから覚悟しろよ」
不良っぽい人──千秋さんは笑みを浮かべてそんなことをのたまうが、犬歯をむき出しにしたその笑みからは冗談の雰囲気を感じなかった。
しかし。
「千秋」
九条さんが気持ち低い声で千秋さんに呼びかけると、千秋さんはびくりと肩を震わせる。
「せっかく時間を作ってシフトに入ってくれたんだから、そんな上からものを言ったらいけないよ。後輩にはもっとやさしく接しないと」
「そ、そんなの分かってらあ。今のはこの後輩に気合いを入れてやるために言ったんであってなあ……」
九条さんにたしなめられた千秋さんは、先ほどまでの威勢はどこへやらといった感じで弁解をする。ふたりがどういう関係なのかは分からないが、九条さんは千秋さんの手綱をしっかりと握っていることはわかった。
「よろしい。それじゃあ、着替えたら早速仕事にかかろうか。君も変に気負わないで気楽に働いてよ。俺たち、ここの仕事はそれなりに長いから」
そう言って僕に笑いかける九条さん、もとい九条先輩の
何やら瑞稀さんも頬に手をあてながら九条先輩に見蕩れているようにしているし、この人にはあまり逆らわない方が良いらしい。
*
そんなこんなでお店を開けたのだが、正直なところ前回入ったときよりも楽な仕事であった。
カウンター内での調理関係の仕事は九条先輩がほとんど片付けてしまっている。なんでもこの店で一番の古参らしく、本当の店長があまり店に顔を出さない今実質的にこの店を仕切っているのが九条先輩なんだそうな。
フロアはフロアで、瑞稀さんと千秋さんのふたりで上手いこと回されている。
「おっちゃん、ご注文は?……ホットコーヒーにクラブサンドね、かしこまりましたっと。コーヒーはいつも通り食前でオーケー?はいよ、それじゃ少々お待ちを」
千秋さんは見かけ通りのがさつで、接客をするにも敬語をしっかり使ってるとは言えないのだが、お客さん、特に年上には妙に受けが良いらしく、皆笑みを浮かべている。不良が礼儀正しい(当社比)としっかりしているように見えるみたいな感じだろうか。
「いらっしゃいませ。ご注文はいかがなさいますか?カフェオレですね、かしこまりました。一緒に軽食はいかがですか?私のおすすめはたまごサンドです。……ありがとうございます。少々お待ちくださいませ」
対して瑞稀さんは常に微笑みを絶やさず丁寧な接客をしていて、対応してもらったお客さんは皆だらしのない顔をしている。それでいて無駄のない動きで効率良く仕事を捌いているのだから流石だ。
そんなわけで僕の仕事といえば、お客さんが帰った後のテーブルの片付けだとか皿洗いだとか消耗品の補充だとかみたいな雑務程度しかない。
調理関係は流石にあまり手が出せないし、フロアはメイドさん目当ての客が多いからあまり僕が入るわけにはいかないだろうし。
考えてみると東雲が助っ人に呼ばれたのはフロアに入れることを前提にしていたのではないだろうか。そうであれば男の僕では東雲の代役を十全に務められないということになるのだが。
「確かに副会長が入った方が柔軟にフロアを回せるのは間違いないけどね。ふたりがテーブルの片付けをしないで済むだけでも大分楽になっているし、それに君だって接客をしていないわけじゃないだろう?」
僕の疑問にコーヒーを淹れながら九条先輩が微笑む。
確かに、メイドに興味がないのか僕がテーブルを片付けているときに僕に声をかけて注文を頼んでくる人も時々はいる。それだって少数だから大した手間でもないし、ふたりのフォローになっているかは微妙なところだけれども。
というかこれ、僕がいなくてもこの三人ならば店を回せてしまうのではないだろうか。
「回すだけならね。けれど、営業中にどんなトラブルがあるかわからないし、三人だけだと誰かがトラブル対応で欠けている間はふたりで店を回さないといけない。そうならないためにも、ひとり余分に人を入れて余裕を持って仕事をした方が結果的に店のためなんだよ。その分人件費がかかるから経理担当の瑞稀が頭を抱えることになるんだけどね」
なるほど。
世のブラックな会社というのは人員をぎりぎりまで切り詰めて容赦なく社員を使い潰すというが、ここは真逆のホワイト理論で営業しているらしい。オーナー兼店長がちゃらんぽらんであるからこそなのだろうが、羨ましい営業形態である。
しかし、店の従業員が学生ばかりというのはいかがなものだろうか。学業という縛りがある以上、平日の日中とかはシフトを組むのも大変だと思うのだが。
「ああ、うちは平日は夕方からの上に不定期営業だから問題ないよ。なんなら休日も時々臨時休業しているし」
ええ……。
僕の記憶が正しければ以前入った休日の営業は夜の七時までとかいうやる気のない設定だったのだが、学生の僕から見ても仕事を舐めきった店舗運営に困惑を隠せなかった。瑞稀さんが頭を抱えるわけである。
「ははは。瑞稀はやるからには完璧にしたい質だから。そもそもこの店はあくまでも店長の趣味の店だからね。俺と店長しかいなかった時期からそんな感じでのらりくらりとやってきたのさ」
それでよく店がつぶれなかったものである。立地的にも維持費とかがけっこうかかるだろうに。
「土地も建物も自前だし、店長はお金に関しては困ってないんだよ。なんでも亡くなったご両親から遺産をたんまり受け継いだらしくてね。まあ金持ちの道楽ってやつだよ」
なんともうらやましい話である。
僕だって手元に遊んで暮らせるぐらいの大金が転がり込んできたら、流行らない喫茶店を開いて暇つぶしに小説を書いて過ごすみたいな生活をしてみたい。
一応我が家も土地持ちではあるが、あんな田舎の土地を受け継いでも旨味はほとんどないだろうしなあ。
まあそういうわけで、けっこうな客入りではあったが仕事中にもこんな会話ができるぐらいには余裕があったしトラブルもなく平穏に業務をこなせたと思う。いつかの海の家とは大違いだ。
昼のピーク終わりに入った休憩のときに九条先輩に作ってもらった賄いのクリームパスタは喫茶店とは思えない美味さで、これだけでも助っ人に入って良かったと思えた。まあ、賄いのために何度もバイトに入りたいとまでは思わないけれども。
午後になって客入りが落ち着いてから再度交代で休憩に入り、日が暮れて早めの夕食を食べにきた人々で店が混み始めてさあもうひと頑張りと僕がなけなしの気合いを入れたとき。
店の扉が開き、入ってきたお客さんに声をかけようとした九条先輩の笑みが満面のものに変わった。
「
それを見てフロアにいた千秋さんの顔が苦々しいものに変わる。
「おいてめえ。こんな時間に何の用だよ」
千秋さんはそのお客さんを歓迎していないようで難癖のような言葉を投げかけるが、お客さんは慣れているのか気にとめた様子もない。
「この後陽向と約束があるんだよ」
「ちっ、そうかい。まったくうらやま……んんっ、あんまりうちの大黒柱を連れ歩くんじゃねえよ」
「別に仕事終わりなら問題ないだろ。それまで待たせてもらうからな」
周囲をはばからず大きく舌打ちする千秋さんを他所に、碧と呼ばれたお客さんは慣れた様子でまっすぐこっちに進みでてカウンター席に座った。
「随分早かったね。劇団の稽古はもう終わったんだ」
九条先輩が注文もなくお客さんの前にカフェオレを置きながら話しかけると、そのお客さんも当たり前のようにカフェオレを受け取った。
「今日は通しだけやって解散したからな。せっかくだからここで待ってようと思って」
「そうか、そろそろ公演だったね。お疲れ様。出来はどんな感じだい?」
「まあ、なんとか形にはなるんじゃないかね。台詞をとちるやつはいなかったし」
ふたりは親しげに会話をしている。九条先輩は心なしか嬉しそうに話しかけているし、お客さんの方は仏頂面を浮かべているが会話を嫌っているわけではなさそうだ。おそらく仲の良い友人なのだろう。
千秋さんの苦々しい表情だとか、瑞稀さんの複雑そうな顔が気になるところだけれども。
そんな状況に興味を持った僕はカウンター裏でひっそりと作業をしながらふたりを観察する。
九条先輩と話しているお客さんはおそらく男性だろう。断定できないのは千秋さん以上に童顔で髪は後ろで括れるぐらいに伸ばしているし、今は席に座っていて分からないが千秋先輩と向かい合った身長が小さく見えたからだ。
声も中性的なので非常に分かりづらいが、服装も言葉遣いも男っぽいので間違ってはいないはずだ。うん。
こんな見た目の持ち主であればこのお店のバイト仲間だろうか。
「そういや普通の男がいるのは珍しいな。店長の趣味が変わったのか?」
そんな僕の視線に気がついてか、お客さんが九条先輩に問うた。
「ああ、彼は副会長の代打だよ。大学の友達で、前にシフトが埋まらなかったときにも入ってもらってたんだ」
「ふうん。あの副会長のね」
「こいつは
「素っ気ないは余計だ」
もうこの反応に慣れてきた僕が彼の意味深な視線を気にせず挨拶をすると、何故か九条先輩が彼の紹介を始める。山科先輩も余計な一言に抗議はしたが、勝手な紹介には何も言わないところみると引っ込み思案なタイプなのかもしれない。
僕がこのお店で働いているのかと問うと、山科先輩は嫌そうな顔をした。
「俺はこんな店で働いてないし、働きたいとも思わない」
どうやら違ったらしい。
「以前は碧の……妹が働いてたんだよ。碧のことも昔から誘ってるんだけど、どうしても頷いてもらえなくてね」
九条先輩が苦笑しながらもフォローを入れる。家族が働いている店で自分も働きたくない気持ちは分かる。ミスして怒られてる姿とか身内に見られたくないし。
しかし過去形ということは、今妹さんは働いていないということか。
「あ~、まあ、ね。碧の妹のミドリは高校卒業と同時に辞めてしまったから」
何だか言いづらそうな感じの九条先輩。どうやら何かあったらしいが、あまりいい話じゃなさそうだ。
「おふたりとも。まだ業務時間なのですから、おしゃべりはそこまでにしてくださいね」
どうやって場を誤魔化そうかと考えていると、近くを通った瑞稀さんから注意を受ける。そして、瑞稀さんは山科先輩にも視線を向けた。
「碧さんも、業務中の従業員に話しかけるのはお控えください」
「別に俺が話かけたわけじゃない」
しかし、カフェオレを飲みながら素知らぬ顔で返す山科先輩。そんな彼にため息を吐いて瑞稀さんは離れていった。
「ははは、怒られちゃったね」
瑞稀さんを見送ってから肩をすくめる九条先輩。
「悪いね、俺たちのおしゃべりに巻き込んで。君は気にしないでいいから」
「ま、あれはただの僻みだから、気にするだけ無駄だな」
僻み?
いまいちピンとこないのだが、どうやらそれは九条先輩も同じらしく、不思議そうな顔をしている。
「どういうことだい?」
しかし、山科先輩はひらひらと手を振るとカフェオレを飲むことに集中し始めてしまった。解説をしてくれるつもりはないらしい。
僕と九条先輩は顔を見合わせるが、何も解決はしないので諦めて業務に戻ることにした。
*
山科先輩以外のお客さんが帰って店を閉めると、ゴミ出しやら清掃やらを片付けてしまう。
僕だけ先にスタッフルームで着替えを済ませて出てくると、入れ替わるように他の三人がスタッフルームに入っていった。
……何だろう。突っ込み所があるはずなのに上手く言語化できなくて何も突っ込めない。
「ねえ」
喉の奥に魚の小骨が刺さったようなもどかしい違和感を抱きながらスタッフルームへ続く扉を見ていた僕に、背後の山科先輩から声がかかる。
返事をしながら振り返ると、僕はつい目を丸くしてしまった。
山科先輩はカウンターに座ってこちらを見ているのだが、その姿に強烈な違和感を覚えたのである。
先輩は両の肘をカウンターについて組んだ手に顎を乗せているのだが、その顔は軽く傾けられていて悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
先ほどまでの仏頂面からは考えられない仕草と表情だった。
「あなた、冬実ちゃんの恋人?」
つっけんどんな言葉を吐いていた口からは甘く蕩けるような声が紡がれる。
僕は困惑しながらも首を振った。
「あら、そうなの?冬実ちゃんが助けを求めるぐらいに仲の良い男の子だっていうから、そうだと確信していたのだけれど」
変ねえ、なんて首を傾げる仕草もいちいち可愛らしい。
僕は突発的な事態に停止した頭を働かせる。
僕が着替えるために席を外す前は、間違いなく山科先輩がそこにいたはずだ。それが僕の知らないうちにまったく別人に取って代わってしまっている。
いや、髪型だとか服装だとかは間違いようもなく山科先輩のものなので、双子でも連れてこない限り本人だと思うのだが……。
そこまで考えてからはたと気がつく。
そういえば九条先輩が、山科先輩にはミドリという名前の妹がいると言っていた。つまり山科先輩は帰ってしまって、代わりに双子の妹のミドリさんがここにいるというのはどうだろうか。
いや、しかし確か山科先輩は九条先輩とこの後用事があるから店に来たと言っていたな。用があって店に来たのに九条先輩を置いて帰ってしまうなんてことはないか。
そうするとやはりこの人は山科先輩で、ただ単に性格の裏表が激しい感じの人ということなのだろうか。
僕が無言で考察を続けていると、山科先輩(仮)は椅子から立ち上がり、両手を後ろ手に組んでひょこひょことこちらに近づいてくる。
そして僕の目の前に立つと、僕の顔を見上げるようにして覗き込んできた。
「ううん、睦ちゃんに似ているわけでもなさそうだし、何か理由が……。あ、顔は女装映えしそうな感じね」
女装はしない。
反射的に僕が否定すると、あら残念、とあまり残念じゃなさそうに言いながら離れていった。
「それじゃああなたは冬実ちゃんの何なの?」
ただの友達ですが……。
不躾な質問に僕はとりあえずそう返すが、この人のお気に召す回答ではなかったらしく不満そうに口を尖らせている。
「ええ~。他に何かあるでしょう?実は生き別れの弟だとか、実は血のつながらない義理の弟だとか」
その辺のラノベにありそうな展開だけど、全然そんなことはないんだよなあ。
というか東雲のやつ、周囲にどれだけブラコンキャラだと思われてるんだよ……。
まあ、最近は弟みたいな扱いを受けてるところはあるし、弟の代役ぐらいのポジションについていると言えなくもないかもしれない。
そんな僕の言葉に、山科先輩(仮)は目を輝かせる。
「やっぱりそうなのね!良かったあ。血縁関係がないなら万が一の事態が起こっても安心ね!」
いったいナニをやらかすと思われたのだろう。
「けど良かったわ。冬実ちゃんが睦ちゃんの影から一歩抜け出せたみたいで」
僕がどこから突っ込むべきか考えていると、山科先輩(仮)はしみじみと呟く。
「冬実ちゃん、本当にどうしようもないぐらいに睦ちゃんのことをかわいがっていたから。睦ちゃんが亡くなったって聞いて心配していたのだけれど、安心しちゃった。その話を聞けただけでも生き返った甲斐があったわ」
生き返った?
文脈から外れた言葉に僕は首を傾げるが、山科先輩(仮)はただ笑みを浮かべるばかりである。
「ねえ、これはお願いなんだけれど。冬実ちゃんが本当に踏ん切りをつけるその時まで、あの子の弟でいてあげて」
一転して笑みを引っ込めると、真摯な表情でそんなことを言う山科先輩(仮)。
そんなお願いをされても、僕を勝手に弟認定してきたのは東雲の方なので僕がどうこうできる話ではないのだが……。
まあ、向こうがそのつもりでいるうちは水を差さないぐらいの気持ちではいるつもりだけれども、基本的には東雲の考え方次第なので、これ以上のことは僕には請け負えないとだけ。
「それで十分よ」
ところで、結局あなたはどちら様で?
満足げに頷く山科先輩(仮)に僕は改めて問うた。
その問いに山科先輩(仮)が答えるよりも先に、背後でスタッフルームの扉が開いたので僕はそちらを振り返った。
「おまたせ。……どうしたんだい?」
出てきた九条先輩が、立って向かい合っていた僕たちを見て首を傾げる。
「なんでもない。ちょっと雑談していただけだ」
聞こえてきた言葉にもう一度正面を向くと、そこにいたのはもう仏頂面の山科先輩だった。
「おお……。碧が積極的に人と雑談をするなんて……」
「お前は俺のことをどう見てるかよく分かった」
感動に震えている九条先輩に、山科先輩が半眼になって言う。
先ほどまでのことは白昼夢だったのだろうかと、つい自分の頬をつねってみたくなるが不審者扱いされたくはないので止めた。
「あ~終わった終わった。こんなところに溜まってないでさっさと帰ろうぜ」
「そう思うならさっさと店から出ろ。戸締まりができんだろうが」
「ああん?俺に指図するんじゃねえよ」
「では貴様のことは無視して店を閉めてしまうとしよう。貴様は店の中に残って一晩過ごしていけ。鍵も持ってないくせに中から開けて出ていこうなんて思うなよ」
「なんだあ?てめえ?」
聞こえてきた声に再度振り向くと、九条先輩の後ろから冷泉先輩ともうひとりの男性が言い争いをしつつ出てきた。
その男性は、虎があしらわれたジャンパーとレザーパンツを身に纏い、短髪を撫でつけてオールバックにした以下にも不良な感じの見た目をしている。
もしかして、千秋さんだろうか?
「おいこら。今の俺をその名前で呼ぶんじゃねえよ。久我様と呼べ久我様と」
どうやら合っていたらしい。こうして男の姿になると、久我様があの千秋さんと同一人物とは思えない。冷泉先輩もそうだが、恐ろしいまでの女装術である。
灯りを落として店を出ると、九条先輩から声をかけられる。
「今日は本当にありがとう。これ、今日のお給金だから」
単発の助っ人ということだからか、振込ではなく現金支給にしてくれたらしい。九条先輩から封筒をありがたく受け取る。
「へえ、ちょうどいいな。せっかくだからその金を使って親睦を深めるために飲みに行こうや」
それを見ていた久我様がいやらしい笑みを浮かべてそんなことをのたまう。僕の首に腕を回して逃がさない体勢だ。
「初対面の後輩にたかって恥ずかしくないのか貴様は。行くなら当然俺たちの奢りだろう」
「馬鹿言うな。他人の金で飲み食いするのがいいんじゃねえか。ここは後輩から指導してくれた先輩への御礼としてだな……」
僕の金どうこう以前に、ナチュラルに飲み会に巻き込まれそうな雰囲気にはらはらしていると、九条先輩がふたりに割って入った。
「こっちから頼んでシフトに入ってもらったのにそんなことしたら失礼だろ。それに彼も終電を逃したくないだろうし」
「この時間からなら終電までには余裕で返せるだろ。お前らも当然参加するよな?」
「あのなあ、俺と碧は用事があるんだって言っただろう?行くなら三人で行ってくれ。もちろん久我と冷泉の奢りで」
九条先輩はそう言って首を振ると、それじゃあと片手を上げてから歩き始めた。山科先輩がちらりと僕たちに目を向けてから無言で後に続く。
ふたりが道を折れて視界から消えるのを見届けてから、久我様は舌を打った。
「やっぱりもうちょっと強引に話を進めるべきだったか。あいつら、こんな時間からどこにいくつもりだ?」
「さあな。しかし、あまり深く考えない方がお互いのためだ」
そんなことを言い合ってから、久我様と冷泉先輩は僕の方を向いた。
「今日はありがとう。このまま解散するから、さっきの流れは気にせず帰ってくれて大丈夫だ」
「今日のところは勘弁してやらあ。次があったら飲みに行こうぜ」
口々にそう言ってふたりは繁華街の方へ消えていった。
何だが話についていけなかった僕であるが、とりあえずこれでお役目御免ということだろう。
時間を確認しようとスマホを見ると、東雲から無事に終わったかどうか確認の連絡が入っていた。
お前は母ちゃんか、という思いは胸に仕舞い、問題なく完了した旨返信すると僕は駅に向かって歩き出した。
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