筋肉様が見てる


「うわあ……」


 入室して室内を見渡した北条が、思わずといった風に声を上げた。

 室内はそれなりに広い空間になっているのだが、その中にはトレーニングマシンがぎっしりと詰まっていて空間の余裕がほとんどない。

 幸いにして利用者はそこまで多くないようでパーソナルスペースは確保できそうなのだが、こんなにもマシンを詰め込む必要があるのかは甚だ疑問である。

 

「マシンとマシンの間隔が狭すぎだね……。隣同士で使ったら汗の臭いが丸わかりだ。……ん?つまり女子の隣でトレーニングしたらかぐわしい女のかほりが……?」


「いや、女子とか関係なく汗は臭いだろうから、汗をかいてるところに寄っていってもお互いが不幸になるだけじゃないかな」


「……」


 男がのたまえば一発アウトなことを口走る西園寺に対し、東雲が非情な現実を叩きつけて黙らせる。

 同性との交流が少なかったばかりに同性に思春期の少年と同程度の幻想を抱いている西園寺はその言葉を聞いてテンションだだ下がりな様子であったが、妙なテンションで他人様に迷惑をかけるよりは百万倍マシなのでそのまま放置する事とする。

 本日の僕たちは大学のトレーニング室に出向いていた。

 学生向けのサービスの一環で、トレーニング室で講義が行われない時間帯は”半期の使用料を支払って会員になった学生は”という条件付きではあるのだが、トレーニングマシンが使い放題なのである。

 使用料自体も学生価格で驚くほど安いので東雲に勧められて後期から入会していたのだが、お金を支払って入会しておきながら何かと理由を付けて出向こうとしない僕たちに業を煮やした東雲に引っ張られて今さら初利用したという次第だ。

 ……一応行くつもりはあったのだ。わざわざトレーニング室に出向くのがちょっと面倒くさいなと思っていたり体育会系の巣窟みたいな場所(偏見)に入り込むのが恐くて足が遠のいていただけで。


「しっかし、これだけマシンがあるとどれから使うか迷うわねえ。とりあえずバイクでも漕ぐ?」


 西園寺とは逆に、テンション高めに弾んだ声で提案する北条。こちらは機嫌が良いように見えるが、パチンコで負けた現実から逃れるための空元気である。

 そんな北条を東雲がやんわりとたしなめた。


「それもいいけど、まずは準備運動から始めようか。使い慣れてないマシンを触るんだし、怪我対策はしっかりしておかないと」


「はあい。それじゃあ準備運動できそうな場所を……って、あれ?」


 東雲の言葉に素直に頷いて室内を見渡した北条が怪訝な声を出す。

 北条の視線の先を追うと、そこはマシンが置かれていない開けたスペースにマットが敷かれているいかにも準備運動やストレッチに使って下さいと言わんばかりの空間があった。

 そのマットの上ではひとりの人物がうつ伏せで寝転がっている。体格からして女性だろう。

 ぱっと見た感じの場所と状況から背筋の筋トレをしている人がそのまま休憩しているのだろうとも考えたのだが、その女性はうつ伏せのままぴくりとも動いていなかった。

 さらに、彼女の倒れ伏すマットはマシンの影に隠れて他の利用者からは見えない絶妙な位置である。

 僕たちは何となく顔を見合わせると、もう一度女性の事を観察する。しばらく見守っていても彼女は身じろぎひとつしなかった。


「……、……、……」


 僕たちは勇気を出して恐る恐るマットスペースへと歩みを進める。その間もまったく動く気配のない女性を、僕たちは囲むようにして見下ろした。


「……とりあえず、生きてるっぽい?」


 僕たちの足下でぶっ倒れている女性は、適当に動きやすい服を身につけている僕たち(東雲以外)と違ってしっかりとトレーニングウェアを身に纏っている。ぱっと見細身で引き締まった体型をしていることもあり、恐らくトレーニング室の常連なのだろう。

 近くで観察してみると身体が浅く上下しているので、一応呼吸はしているらしい。最悪の事態は回避されたことで僕たちの間でほっとした雰囲気が流れる。しかし、顔をマットに埋めたままで息苦しくはないのだろうか?

 とにかく、この流れで声をかけないわけにはいかないだろう。


「……紅輪べにわ先輩?」


 僕と西園寺と北条が誰が声をかけるか視線で譲り押しつけ合っていると、東雲がぽつりと呟いた。東雲はそのまま女性の傍らにしゃがみこんで横から覗き込む。


「やっぱり紅輪先輩だ」


「シノの知り合いかい?」


「うん。私がここを使い始めた時に色々教えてくれた先輩なんだ。顔を合わせたら一緒にトレーニングするぐらいには親しくしてもらってて。ここのところ見かけなくなってたから心配してたんだけど……」


 なるほど。

 とりあえず身元は判明したが、東雲の話しを聞いているとなんだか厄介事の雰囲気を感じなくもない。


「それで、その人大丈夫なの?」


 北条が心配そうな表情で東雲に問いかける。

 ああ、そういえばそうだった。状況への疑問よりも先にこの先輩の安否を気遣う方が先だ。まったく、こういうところで他人の事を気遣えないから落ちぶれたというのに我ながら学習しない。


「とりあえず目立った外傷はないし平気だとは思うけど……。紅輪先輩?大丈夫ですか?」


 先輩の身体を確かめながら彼女に声をかけていた東雲だが目覚める気配はない。東雲は意を決して先輩を軽く揺すりはじめる。皆が固唾を飲んで見守る中、しばらく揺すられていた先輩はやがてうめき声を上げた。


「んん……」


 彼女はしばらくもぞもぞと身体を動かしていたがやはりマットに顔を埋めた体勢は辛かったらしく、顔を横に動かした拍子に横にいる東雲の存在に気がついたようだ。


「……ああ、東雲ちゃんじゃん。お疲れ~」


 その時僕は始めて先輩の顔を見たのだが、その容貌に戸惑いを覚えた。

 体型からして鍛えてそうだったので体育会系な感じの明るいタイプをイメージしていたのだが、先輩の顔はなんというか酷く疲れていた。

 目の下にくっきりと浮かぶ黒々とした隈。目が覚めたばかりとはいえ、気を緩めたらすぐにでも閉じてしまいそうなとろんとした瞳。肌には瑞々しさが無く、僕のような美容に頓着しない人間が見ても分かるぐらいにカサついていた。

 なまじ顔が整っているだけに、色々と残念な雰囲気を感じる。

 というかこの感じ、この人もしかして……。


「お疲れじゃないですよ紅輪先輩。こんなところでなにしてるんですか?」


 東雲が問うと、先輩はあくびをしてから寝ぼけ眼のまま答えた。


「あ〜……。寝てた」


「やっぱりか……」


 僕の隣で西園寺がつぶやく。まあ、見るからに寝不足な様子なのでそうだとは思ったけれども。

 先輩は寝転んだ姿勢のまま伸びをすると、緩慢な動きで上体を起こした。


「いや~、夜勤明けの流れで一限に出てたんだけど、次の講義が午後からだから今のうちに筋トレしておこうと思って。気がついたら意識がなかったわ。ストレッチなんか始めたのがいけなかったかな~。いや、丸一日寝てないのが原因かね」


 どう考えても後者が原因だった。

 ベリーショートな髪をがさつにかき回しながらそんなことをのたまう先輩に、東雲が呆れた様子で突っ込む。


「講義がある前日に夜勤に入るのも意味分からないですけど、時間があるならトレーニングなんてしてないで寝ないと駄目ですよ」


「だって身体動かしておかないと気持ち悪くて……」


「だってじゃありません」


 先輩の言い訳をぴしゃりと切って捨てる東雲。どうやら先輩の酷い暮らしぶりに姉スイッチが入ってしまったらしい。親に口うるさく言われるのも癪だけれども、同世代に世話をやかれるのも変な気分になるんだよな……。

 しかしこの先輩、休日とかならまだしもよく翌日に講義がある平日に夜勤バイトなんて入ろうと思ったものだ。出席すれば単位がもらえるお手軽講義だけだったとしても入ろうとは思えない。その上空き時間を休息に充てずに自分から体力を削りにいくとは無茶苦茶な人である。


「そ、そういえば東雲ちゃんが誰かと一緒にここに来るなんて珍しいじゃん?学部の友達?」


 僕の中で変人認定されつつある先輩は、東雲に詰められて劣勢に立たされると露骨に話題を逸らした。しない理由もないので僕たちが各々自己紹介すると、先輩はふむふむと頷いていたのだが僕の番になると途端に目を輝かせた。


「おお、東雲ちゃんが男連れとは予想外ですな~。一緒に筋トレしてる時にどんなに男に声かけられても適当にあしらってたのに」


 にまにまといやらしい笑みを浮かべて揶揄いにかかる先輩に、東雲は涼しい顔で返す。


「ここにいる時はトレーニングに集中したいってだけですよ。それに、彼は弟みたいなものですから」


 姉ちゃん今日の晩ご飯なに?


「今日はあなたの好きなハンバーグよ」


 ボケにたいしてボケで返されてしまった。

 しかしなしてハンバーグ……。別に嫌いではないのだけれど。


「弟が好きだったから君も好きかなって」


 その台詞で急にボケかどうかわからなくなったなあ。


「というか、今のやりとりは姉と弟じゃなくて母親と息子のものでは……?」


 西園寺の突っ込みを、僕も東雲もさっくりと無視する。


「うひひ。とりあえず仲良しなのは間違いなさそうだね~。……と、こっちの挨拶がまだだったね。うちは烏丸紅輪です。よろしくね~」


 僕と東雲のやり取りを見てひとしきり笑ってから先輩は軽い感じで名乗ると、その場に立ち上がって身体を伸ばし始める。


「さあて、良い感じに仮眠も取れたし一汗流そうかな~」


「紅先輩、寝落ちしちゃうぐらい疲れてるのにそんなことして大丈夫なんですか?この後まだ講義があるなら休んでた方がいいんじゃ……」


「トレーニングなら今じゃなくても後で出来るでしょう?体力の落ちた状態でするよりは寝た後の方が効率も良いと思うのですが」


 心配する北条と建設的な意見を述べる西園寺。ふたりの言葉に、しかし烏丸先輩は肩を竦める。


「それが今日の夜も夜勤入っちゃってるから、三限の後にまとめて寝た方が良いのよ。そうするとこの時間ぐらいしか筋トレの時間が取れなくてさ~」


 確かにそちらの方がスケジュールとして収まりは良いのだろうが、それならトレーニングを諦めれば良いのでは?


「わかってないね~。筋トレにもスケジュールというものがあるのだよ。今日下半身の筋トレをしておかないと、今後の筋トレのスケジュールが狂っちゃうのさ」


 僕の言葉に、ちっちと指を振ってどや顔で反論する烏丸先輩。そんなスケジュールよりも睡眠の方が余程大事だと思うのだが、烏丸先輩の中ではそうではないらしい。

 おそらく生活の一部に筋トレががっちりと組み込まれてしまっているのだろう。大学の講義に出てバイトの夜勤に入ってその上筋トレなんて過密スケジュール、僕にはとても正気とは思えないが。


「はあ……わかりました。そこまで言うならとやかくは言いません。その代わり、三人にトレーニングマシンの使い方を教えるのを手伝っていただけませんか?紅輪先輩がトレーニングをするついででけっこうですので」


 東雲がため息とともに妥協案を提示する。どうせ言うことを聞かなさそうなので、せめて近くで監視して万一の事態に備える事を選択したらしい。

 確かにこの人を放置しておくのは危なっかしすぎる。マシンを使っている間にうっかり寝落ちしたら事故の元だ。そんなマンガみたいなと思わなくもないが、同時にこの人からはそのまさかを起こしてしまいそうなヤバみも感じるのである。

 烏丸先輩は東雲の提案に対してちょっと考えている様子だったのだが、結局は了承してくれた。


「……まあいっか。後輩の世話をやくのも先輩の務めだしね~」


「ありがとうございます。それじゃあ私はこっちのふたりを見ますから、紅輪先輩は彼の事をお願いします」


 えっ。

 予想だにしない一言に思わず東雲を見ると、やつはパチリとウィンクひとつ。それがどういう意図なのかはさっぱり理解できないが、とりあえず東雲のウィンクが非常に様になっていることだけは分かった。


「りょ~かい~。それじゃあ少年をめくるめく筋トレの世界にご案内~」


 僕が東雲に組み合わせの意図を問う前に、烏丸先輩は僕の腕を掴んで引っ張って行こうとする。


「あ、紅輪先輩ちょっと待って下さい」


「え~、まだ何かあんの?」


 出鼻をくじかれた烏丸先輩が不満そうに東雲を見返す。そんな烏丸先輩に、東雲は真面目な表情で言った。


「私たちはまだ準備運動が出来てないので、筋トレはそれからお願いします」



    *



「よ~し、それじゃあ早速始めようか」


 入念な準備運動を行った後、僕と烏丸先輩はトレーニングマシンの前に移動した。


「少年には申し訳ないけど、今日はうちのスケジュールに則って下半身の筋トレをやってくよ~。マシンの使い方を教える対価と思って諦めてね」


 それに関しては問題ない。こちらは教えを請う立場であるし、元々どこを鍛えたいとかいう希望は僕にはないのである。


「そりゃあ良かった。それじゃあうちがマシンを実際に使ってみせるから、とりあえずそれを見ててよ」


 そう言って烏丸先輩は目の前のマシンに座った。


「このマシンはレッグプレスって言って、まあ大体察しはつくと思うけど目の前のプレートに脚を置いて……、ふんっ!」


 烏丸先輩は座椅子の背もたれに背中を預け、目の前に縦に置かれたプレートへ脚を曲げた状態で置くとその脚でプレートを押し始めた。

 プレートは一瞬軋んだ音をたてた後、ゆっくりと押し込まれていく。


「プレートはっ、けっこう重いからっ、勢いよく押しすぎたりっ、急に力を緩めたりしないことっ!後はっ、脚を限界まで伸ばすとっ、怪我の元だからっ、気をつけてねっ!」


 トレーニングをこなしながらも説明をしてくれる烏丸先輩。僕はその説明を聞きながら、なんとなしに烏丸先輩の脚を見ていた。ジャージを穿いている僕とは違って烏丸先輩はショートパンツにスパッツという出で立ちであるため脚のラインがはっきりと視認できる。

 出会った当初は細くしなやかに見えていた先輩の脚は思った以上に筋肉質らしい。それなりにトレーニングをしている東雲の脚よりもガチガチだ。体型維持を主目的としている東雲との違いだろうか。

 尚、僕が東雲の脚を比較対象に出来るほどに記憶しているのは東雲が毎度のように我が家で半裸になっているから目にする機会が多いというだけでけしてやましい理由ではない。 

 そんな僕の考察を他所に、先輩はプレートを押して戻してを十回程度繰り返したところで動きを止めた。


「ふい~。それじゃ、一回交代して次は少年がやってみようか」


 烏丸先輩はマシンの座椅子から立つと僕に代わりに座るよう指示する。

 まだ交代するには早いような気もするのだが……。


「筋トレってのは回数をこなせばいいってもんじゃないのよ。負荷の高い筋トレを短い回数しっかりこなして休憩する。それを何セットかこなして筋肉を追い込んでいくのさ。無理して回数増やすと怪我の元だしね~」


 なるほど。昔のスポ根マンガよろしく百回二百回なんてのをこなしているのかと思っていたが、そんなことはないらしい。

 そういうことであればと僕はマシンに座り、烏丸先輩の動きを思い出しながら姿勢を作る。


「うちの身長で合わせてるからシートの位置が近すぎるかな~。……うん、こんな感じでいいか。脚はもうちょっと開いた方がいいね。膝ももうちょい曲げようか。角度が九十度になるぐらい……そうそう。それじゃ、ゆっくりとプレートを押し込んでいこうか。押して戻してを十回ね」


 横で見ていた烏丸先輩から思いの外丁寧なチェックが入り姿勢を正すと、僕は先輩の指示に従って脚に力を込めた。

 込め……こめ……。

 ……。

 僕はスタートの時と変わらぬ体勢のまま、烏丸先輩に報告する。

 あの……。プレートが重すぎてまったく動かないんですけど……。


「あ~……ごめん。重りの調整するの忘れてたわ……」


 その後、改めて筋トレをスタートさせた僕と烏丸先輩は、交互にマシンを使用してトレーニングに励んだ。

 ……途中までは。

 僕も烏丸先輩も同じマシンで行う筋トレは一セット十回を三セットだ。ふたりの違いはマシンの重りの数、つまりトレ-ニングの負荷だけである。それが大きな差であることは一番最初に思い知らされているのだが。

 であれば同じ回数をこなしてもなんら問題ないかと言うとそんなことはなく、烏丸先輩が予定したトレーニングメニューの半分程度消化した時点で僕の下半身が限界に達したのである。

 太もももふくらはぎも、なんならお尻も筋肉の痛みが酷くて歩くのもつらい有り様で、これ以上の筋トレは不可能となってしまったのである。


「まあ仕方ないよ。少年は今までもあんまり運動してこなかったんでしょ〜?これからゆっくりじっくり鍛えていけば良いんだよ。そう、ゆっくりとね……」


 うひひ、と笑う烏丸先輩の言葉は僕にとってあまりよろしくなさそうな雰囲気を感じさせたが、深く考えないことにする。問題は先送りにするに限るのだ。

 そういうことで筋トレメニュー後半は烏丸先輩によるマシンの解説、実戦を眺めるだけの作業になった。

 女性の筋トレ風景を横でじっとそれを見つめている男なんて絵面、ともすれば変態的ともとれる光景であるが、しかし……。

 

「う、うひひひひぇ……。効いてる効いてるう……。この筋肉が壊れていく感覚、最高だぜえ……」


 レッグカールとかいうマシンでハムストリングス──太ももの裏を追い込んでいる烏丸先輩は恍惚の表情で何やらぶつぶつと呟いている。くたびれた顔の中で疲労感たっぷりな感じにとろんとしていた瞳は今やギラギラと異様な輝きを見せており、何か危ない薬物でも使ったかのような様相だ。

 僕と烏丸先輩、どちらが変態的かと言えば明らかに烏丸先輩であることは間違いない。見てはいけないものを特等席で見せつけられているような気がして、僕は烏丸先輩から目を逸らして周囲を見渡した。

 トレーニング室の中では僕と同じ学生達が思い思いのトレーニングに励んでいる。女性の利用者が思ったよりも多いのはダイエット目的だと推察されるが、口に出したら顰蹙ひんしゅくを買うだろう。

 そんな彼ら彼女らの姿を眺めていると、幾人かの視線が同じ方向に向いている事に気がついた。その視線の先を追うとどうやら西園寺達のグループを見ているらしい。

 今は北条がトレーニングマシンに座っているのだが、胸の前にあるグリップを前後に押したり引いたりしている。北条は何故か背もたれに背中を預けて胸を張った姿勢を取っているので自然グリップを胸の前に戻した際にその豊かな胸部を突き出すような恰好になっていてた。

 そうは言っても露骨に強調しているわけでもなく大袈裟な動きをしているわけでもないのだが、それでも周囲の注目を集めているようである。

 もちろん一番注目しているのはかぶりつきでトレーニングを見ている西園寺で、なにやら腕を組んで頷いているがその視線は北条のお胸に釘付けだ。


「ああ、東雲ちゃん達チェストプレスを使ってるんだ」


 声に振り向くと、マシンから立ち上がった烏丸先輩が北条のトレーニングに視線を向けていた。


「名前で分かると思うけど、胸回りの筋肉を鍛えるマシンだね。あの子の名前、北条ちゃんだっけ?大きなものをお持ちだからね~。しっかり鍛えておかないと大変だ」


 確かに北条は身体を動かす方ではないが胸周りには気をつかっている。しかし、わざわざあんなに目立つ姿勢を取る必要があるのだろうか?


「そりゃああるよ。チェストプレスで胸筋に効かせるには肩甲骨の寄せと胸の張りが大事だからね~。変な姿勢を取ると肩の関節を痛めちゃうし」


 ふうん、そういうものなのか。

 僕はもう一度筋トレに励む北条と、周囲の学生達を見回す。どうにも集中力が落ちているように見える一部の学生は北条の様子が非常に気になるらしく、自分のトレーニングに集中出来ていないように見える。

 ……もし仮に、北条がこのトレーニング室を気に入って通い始めたら環境的にあまりよろしくないのではなかろうか。トレーニングがおろそかになるだけならまだしも、よそ見が過ぎて怪我をする人物が出てこないとも限らないように思える。

 僕は北条を止めるべきか否か考えたが、面倒くさくなってすぐに思考を放棄した。誰かがよそ見で怪我しようがこの場合自業自得で、僕には関係の無いことだと気がついたからだ。


「さあて、とりあえず一通りメニューもこなしたし先輩風吹かす事もできたし、お姉さん大満足かな~」


 烏丸先輩はそう言って大きく伸びをした。トレーニング中のヤバ目な雰囲気は鳴りを潜め元の疲れた顔に戻っているが、満ち足りた表情をしている。

 丸一日以上寝てない状態で筋トレまでしてこんな表情が出来るとはタフな人である。


「それじゃあ少年。あっちに合流したらシャワーで汗流そうか」


 了解です。……ところで。


「ん~?」


 何故僕の事を”少年”と?年齢差なんていくつもないでしょうに。

 僕の問いに烏丸先輩はつい、と目を逸らした。


「いやあ、名前聞いた時に寝ぼけてたせいでちょっと記憶が……。なんだっけ……。な、な、な……なっちゃん?」


 ……。

 そんな呼ばれ方するぐらいなら”少年”の方が百倍マシだった。



    *



 その日の夜、僕は大学最寄りの駅前を筋肉痛を抱える脚に難儀しつつふらふらと歩いていた。

 先ほどまで文芸サークルのメンバーと麻雀を打っていて、その帰り道である。理由はさっぱり分からないが、雀荘から出てきた時に僕の右手には樋口先生が一枚握られてた。理由は、さっぱり分からないが。

 しかし、何故か僕は非常に気分が良かったので、この樋口先生を使って何か豪遊出来ないかと考えていた。

 歩きながらも駅前に並ぶお店を確認するが、時刻は既に終電も終わったド深夜。ほとんどの店が店仕舞いをしてしまっていて、明かりがついているのはコンビニ等の数件のみである。

 だが僕としては今日の内に気持ちよく散財したい。日を改めれば良いと言われればその通りなのだが、今は宵越しの銭を持たない江戸っ子な気分なのである。出身は三河だけど。

 やはりコンビニでスイーツやらお菓子やらを買い漁るのが一番かと足がそちらに向いた時、ふと一件のお店が目に付いた。全国的にも有名な、牛丼チェーン店である。

 そういえば今日は麻雀に集中しすぎたせいで夕食を食べていなかった。せっかくなのでここで夕食を取ることにしよう。この時間に食べるのは身体には悪いかもしれないが、たまには悪いことをするのも人生の楽しみということで。


「いらっしゃいませ~」


 間延びした店員さんの声を聞き流しながら店内をざっと見渡す。ちょうど人波が途切れた頃合いだったのか、はたまたこの時間の客入りなんてこんなものなのか、僕以外の客はいないようだった。なんなら店員さんもひとりしかいないのだが、これが世に言うワンオペというやつだろうか。

 ワンオペなんて一昔前に騒ぎになって無くなったものだと思っていたが、人手不足も深刻なんだなと他人事のように考えながら適当なカウンター席に座ると、早速メニュー表を手に取る。

 実を言うと、今までの人生で牛丼屋に入ることなんて滅多になかったので今の僕はちょっぴりテンションが高い。実家の近所は駅からも幹線道路からも離れた位置だったからこういうお店からは遠すぎたし、せっかく駅前に出向いてもその駅は地域でも多少は栄えていた駅だったのに何故か牛丼屋が近くに存在しなかった。

 その上二世帯暮らしであるが故に牛丼やハンバーガーをデリバリーするぐらいなら店屋物の出前を頼むような家だったので、こういうジャンクなものには中々お目にかかれなかったのである。

 そんなわけでわくわくしながらメニュー表をめくって隅から隅まで眺めているのだが、注文は入る前から決めている。定食メニューにも惹かれるものはあるが、ここは牛丼一択だろう。

 せっかく懐が暖かいのでちょっと背伸びして牛丼の特盛りとか頼んでしまおうか。特盛りと言うからには量は多いのだろうが、トッピングにキムチでものせてプラス卵とおしんこがあれば小食な僕でもなんとか完食できるだろう。たぶんきっと。

 僕は店の奥にいる店員さんを呼んで注文を伝える。店員さんはかしこまりましたと頷きつつ伝票に注文を書き記すと、僕に向かって笑みを浮かべながら話しかけてきた。


「ひょろひょろだから小食なタイプと思ってたけど案外大食らいなんだね~、少年」


 親しげでどこかで聞いたような声音に驚いて店員さんの顔をよく見ると、その店員さんは烏丸先輩だった。


「少年がうちに全然気がつかないからもう忘れられちゃったかと思ったよ~。今朝に手取り足取り腰取りしたばかりなのに」


 人聞きの悪い言い方をしないでもらいたい。いやまあ、聞かせる他の人はいないし手も足も腰も姿勢矯正のために触られたので間違っちゃいないんだけれども。

 正面から会話をしておきながら今日会ったばかりの知人に気がつかないのは確かに申し訳なかったのだけれども、言い訳をさせてもらえば烏丸先輩はキャップを被っていたしこんなところで知人が働いているとは露とも思っていなかったので油断していたのだ。

 それでも普通は気がつくと言われてしまえば、己の他人への興味のなさを恥じ入るしかないのだけれども。

 しかし烏丸先輩のバイト先はここだったのか。確かに夜勤のあるバイト先なんてそう多くないので、こういうお店で働いているのは予想できたことではあった。出会った当日にバイト先で出くわすとは考えもしなかったが。


「うひひ、ホントに偶然だね~。これはあれかな、神様が繋げた縁ってやつかな」


 運命なんて言われても反応に困ったが、神様なんて持ち出されるとそれはそれで大袈裟な話である。一体どんな神様が僕と烏丸先輩を引き合わせるというのか。


「そりゃあ筋肉の神様でしょ~」


 き、筋肉の……神……?


「きっとひょろがりもやしっ子な少年を哀れんだ筋肉の神様が、うちに少年を鍛えさせるために引き合わせたんだよ。つまり、少年が東雲ちゃんにトレーニング室に連れてこられたのもうちがマットでうっかり寝てたのも筋肉の神の差配ってわけ」


 いや、烏丸先輩がぶっ倒れてたのは無茶な生活が祟っただけだと思うんですけど。


「よ~し!まずは炭水化物とタンパク質をたくさん取って身体を大きくしないとね!待ってて!今とびっきりの特盛りを作ってくるから!マニュアルで決められた以上の量は盛れないけど!」


 ああ、そこはきっちり守るのか……。

 ノリノリで厨房へ引き返した烏丸先輩は、たいして時間をかけぬうちにお盆を持って戻ってきた。さすがは早い安い美味いが持ち味な牛丼である。


「はい、キムチ牛丼特盛りにお新香と卵のセットね~」


 テーブルに置かれたお盆には大きなどんぶりに盛られた牛丼は僕が思ってた以上にボリュームがあったが、その香りが僕の空きっ腹を刺激する今なら余裕で平らげられそうだ。

 箸を取って手を合わせてから牛丼を一口頬張る。

 よく煮込まれて柔らかくなった牛肉とタマネギにはタレの味がしっかり染み込んでいる。これを下に敷かれたお米とまとめて掻き込めるのだから丼ものというのは実に機能的だと思う。


「うんうん、良い食べっぷりだね~。それだけ美味しそうに食べてくれると作りがいがあるよ。まあオペレーション通りに盛っただけなんだけど」


 烏丸先輩は何故か厨房に戻らず、カウンターの向こうで僕の食事風景を笑みを浮かべて観察していた。

 見られていると食べづらいなんて事は微塵も思わないが、仕事に戻らなくていいのだろうか?


「どうせお客さんも他にいないし、この時間にやっておくべき仕事は一通り済ませてあるからね~」


 烏丸先輩の仕事の手際が良いのかただ暇な仕事なのかは分からないがそういうことらしい。ワンオペなんてやっていると雑談もできないだろうから、ひょっとしたら人恋しいのかもしれない。僕が同じ立場なら何もせず呆けていたいけれど、そこは人それぞれだろう。


「一応事務所に店長はいるからワンオペじゃないよ?朝からシフトに入りっぱなしだから床で爆睡してるけど」


 つまり店長は二十四時間シフトの真っ最中ということらしい。学生である烏丸先輩を深夜に連勤させたりしてるし、人手不足ここに極まれりというところか。


「否定は出来ないかな~。ちょっと前まではシフトもちゃんと組めてたんだけど、ちょっと色々あって急に何人も人が辞めちゃってさ。全然シフトが埋まらなくて大変なんだよね~」


 それは仕方の無い話であるが、だからと言って烏丸先輩を酷使し過ぎではないだろうか。先輩だってバイトのし過ぎで留年なんて事はしたくないだろうに。

 せめて大学終わりの夕方から深夜前までとかそういうシフトにしないと健康と単位を損ねてしまう。

 僕の言葉に、烏丸先輩は困ったように眉を下げつつ曖昧に笑った。


「それはそうなんだけどね~。辞めた人は深夜メインの人が多くてさ。残ってるのは学生メインだから、どうしてもこの時間帯のシフトが埋まらないのよ」


 そりゃあ翌日が休みの日とかならともかく、ド平日に夜勤をしたがる学生なんていないだろう。

 烏丸先輩だってやらないでいいのなら夜勤なんてやりたくないだろうに。


「確かに学業の事を考えたら夜中にバイトなんてしてる場合じゃないのは間違いないんだけどね~。けどさ」


 烏丸先輩は苦笑しつつも言葉を続ける。


「うちは高校の時からこの店でお世話になってるからさ。その時からお世話になってるおばちゃんとか高校の後輩とかも残ってたりしてるし、なんとかしてあげたいんだよね~。……仲良かった店長は転勤になっちゃったんだけどさ」


 なるほどなあ……。

 同じ店で長く勤めているのであれば、確かに愛着も湧いてくるだろう。店のピンチを助けたいというのも何となくではあるが分からなくもない。

 それでも、烏丸先輩が犠牲になってまで頑張る必要は無いと思うのだけれども。

 というか、話しの文脈からするとバイトが辞めていったのも烏丸先輩に甘えて無茶なシフト組んでるのも新しい店長のせいだったりするのではないだろうか。


「まあ、そういうところが無きにしも非ずかな~」


 烏丸先輩は肩を竦めて軽い感じで言うが、そんな店長に義理立てする必要はあるのだろうか?


「まあ、店長の人柄で仕事の質を変えるわけにはいかないからさ。それに……」


 それに?

 どうにも煮え切らないというか店の側に立とうとする烏丸先輩に、僕はどんな言い訳でも論破してやる気持ちで続きを促す。

 他人には不干渉が基本方針の僕ではあるが、会ったばかりとはいえ知人が苦しむ様を見せつけられるのは座りが悪いのである。

 だが。


「そ、それに、朝まで働いて寝不足でふらふらしてる時に筋トレするとさ。こ、心も身体も追い詰められてる感じになって、なんていうか、その、ね。うひ、うひひひぇ」


 あ、これ駄目なやつだ。というか駄目な人だ。

 筋トレで追い込んでいる時と同じようなキまってる表情で気持ち悪く語り始めた烏丸先輩を見て僕はすべてを察した。

 店のためとか仲間のためとか言っておきながら、思いっきり自分の欲望のためじゃねえかこの人!

 考えてみればバイトの方はともかく、筋トレについてはこの人が自主的に行っているのである。本当に辛いと思っていたのなら、筋トレを優先したいと思っていたのなら、既になんらかの行動を起こしていたはずだ。

 しかし、これは面倒くさい事になった。

 気持ち悪い笑い声を漏らしつつ恍惚の表情を浮かべている烏丸先輩を視界の隅に収めつつ僕は思考する。

 このまま行くと烏丸先輩は己の欲望のために自らを追い込めるところまで追い込んで、最後には壊れてしまうに違いない。ある意味既に壊れているという説もあるがこの際置いておく。

 僕や周囲の人間が何を言ったところで聞く耳を持たないだろうし、どうやってこの追い込みを辞めさせるべきか……。

 お新香をぽりぽりと噛みしめつつ頭を悩ませていると、烏丸先輩の向こう側、事務所の扉が静かに開いてそこから男性が顔を出した。

 眠そうなその表情と頭の寝癖からして、ブラックシフト真っ最中の店長と見て間違いないだろう。

 これは偏見であるが、強面で気の強そうな容貌からして協調性という言葉とは縁の遠そうな人に見える。

 おそらく目を覚ました店長は店からうっすらと漏れ聞こえる僕と烏丸先輩の会話を聞いて様子を確認すべく出てきたのだろう。案の定業務中に客とくっちゃべっている烏丸先輩を見て顔をしかめている。

 しかし、これはチャンスかもしれない。

 店長が烏丸先輩に声をかける前に、僕は先輩に話しかけた。

 けど烏丸先輩、このままだと先輩倒れちゃいますよ。昼に講義だってあるのに、僕たちの面倒まで見るなんて無茶ですって。

 この時、背後の店長にはまるで気がついていないような感じで話すのがミソである。予想した通り、不穏な僕の言葉を聞いて視界の端で店長が慌てて顔を引っ込めた。


「いやいや、そういうわけにはいかないよ。シフトに穴を開けるわけにはいかないしさ~。少年達の面倒を見るのも結局自分の片手間だし、それに──」


 しまりのない表情で妄言を垂れ流そうとした烏丸先輩に、僕は言葉を被せた。

 東雲だってお世話になってる烏丸先輩が倒れでもしたら絶対怒りますよ。あいつ、先輩に何かあったら会社に抗議しかねないですから。もちろん僕だって他の皆だって絶対に黙ってません。


「いや~、気持ちは嬉しいけど、店に迷惑は──」


 そうやって烏丸先輩がお店を優先するからその店長も先輩をいいように使うんでしょう?先輩が店長に言えないんだったら、やっぱり僕たちから会社のカスタマーセンターなり本社なりに抗議の連絡を──。


「ちょ、ちょっとそれは困るな~。気持ちは嬉しいけどさ、ホントに無理はしてないから」


 烏丸先輩の無理してないは信用できないですからね。今日だって大学でぶっ倒れてたじゃないですか。考えてみるとそれだけで騒いでもいいぐらいですよ。


「あれは、ついうとうとしてただけだから……」


 普通はうとうとしてるからってあんな所で倒れませんって。

 僕の怒濤の押しに烏丸先輩は困惑顔だ。大人しそうに見えた僕が急に抗議だなんだと言い始めたのだからこいついったいどうしたんだとでも思っているかもしれない。


「ま、ま。今後はできるだけ体調管理に気をつけるようにするからさ」


 僕をなだめるようにそんなことを言ってみせる烏丸先輩。どう考えても言っただけになりそうだが、ここは一旦矛を収めてみせる。

 ……分かりました。烏丸先輩がそう言うなら様子を見ますけど、こんど倒れたら大騒ぎしますからね。SNSとかにもめっちゃ書きまくります。


「はいはい。そうならないように気をつけるって~」


 そう言って笑う烏丸先輩の背後のスタッフルームから、店長がのっそりと姿を見せる。キャップを目深に被っているので分かりづらいが、心なしかその顔は青い。


「あれ、店長?まだ休んでて大丈夫ですよ?」


 店長が出てきた事に気がついた烏丸先輩が声をかけると、店長は頭を振った。


「いや、一応シフト時間中だからな。深夜とはいえ事務所に籠もっているわけにもいかん。……烏丸も業務中なんだから、私語は控えてくれよ」


「は~い、すみません。それじゃ少年、また大学でね~」


 烏丸先輩は店長の言葉に素直に頭を下げると、僕にひらひらと手を振ってから厨房に引っ込んでいった。

 僕は冷めて微妙な味になった牛丼を手早く掻き込んで平らげる。ごちそうさまでした、と厨房の方に声をかけるとわざわざ店長が小走りで出てきてお会計をしてくれた。

 硬い笑顔の店長に見送られて店を出ると、僕は足を自宅の方に向けた。

 本当はコンビニに寄って甘味を買い込むつもりだったが、やはり特盛りは僕には多すぎたらしくお腹がはち切れそうだ。とても食べ物を買いに行こうという気にはならない。

 残った樋口先生の残骸は、別の機会にぱあっと使うことにしよう。酒を買うか、たばこを買うか、それともパチンコ屋に全部突っ込んでちょっとした夢を見に行くか。

 僕はちょっぴり膨らんだ腹を撫でつつ、どの選択肢が一番楽しめるかを考えながらゆっくりと家路についた。



    *



 後日。

 講義が終わってひとり大学構内を歩いていた僕は、烏丸先輩に出くわした。


「やあ少年。筋トレは続けてる~?」


 残念ながら、以前会った時以来トレーニング室には出向いていない。僕は烏丸先輩のようにスケジュールまで立てて筋トレをするほど本気で鍛えたいわけではないのである。


「ふ~ん。まあ不慣れな初心者が無理したら関節とか痛めかねないから毎日とは言わないけどさ。あんまりサボってると筋肉の神様に怒られるよ~」


 その設定まだ生きてるのか……。

 しかし、今日の烏丸先輩の顔は以前出会った時よりも血色の良さそうな顔をしている。はっきりと濃く浮かんでいた目の隈もうっすら程度だし、明らかに健康状態は改善しているようだ。


「ううん、これは由々しき事態だね。少年この後時間ある~?お姉さんがまた指導して進ぜよう」


 ふむ。

 僕としてもそろそろトレーニング室に出向こうと思っていた所で、ウェアも用意して来ていたので正直ありがたい。しかし、この後バイトは大丈夫なのだろうか?

 僕の問いに烏丸先輩はひらひらと手を振った。


「だいじょぶだいじょぶ~。何かよく分かんないけど、店長が急にシフトの調整とかしっかりやり始めてさ。うちが入ってたシフトを他の店から応援呼んだりして穴埋めしちゃったから、時間が空いちゃってるんだよね~。……ちょっと残念だけど」


 最後に呟かれた言葉は聞かなかったことにする。

 しかし、どうやら店長への脅しは十分に効果を発揮したらしい。

 ただでさえワンオペだ過労死だとお茶の間を賑わせてきた業界である。やっと悪評が落ち着いてきた時期に自分の店で不祥事が起きるのはなんとしても避けたいだろう。

 今のご時世、SNSで軽率に騒ぎが拡散してしまうのでその辺り昔以上に気をつけねばならないだろうから、ちょっと騒ぎを匂わせればすぐに改善されると読んだのだが上手く作戦が当たったらしい。


「さあさあ、早いとこ行こうよ。うちも精神的にに余裕が出来た分、身体の方を追い込まないといけないからさ~。今日も徹底的に……うひひひひ、ひぇひぇひぇ……」


 結果に満足しつつ、僕は気持ち悪い笑みをこぼす烏丸先輩の後をついていく。

 ……この人の場合、バイトとか関係なく自らの手で身体を壊しかねないのだけが今後の懸念事項である。

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