申川さんとドライブでえと


 車は市街地を離れて郊外に進路を向けていた。その場を切り抜けるための口実かと思っていたが、申川さんはどうやら本当にドライブをするつもりであるらしい。

 とにかく、あの場から連れ出してくれたことに対してお礼を述べておく。


「いえいえ、全然!ご提案したのはこちらの方ですし、お役に立てたのなら何よりです!ちょうど卯月社長の所にお伺いしていたので、タイミングが良かったですね」


 申川さんはにこにこと笑みを浮かべながら何でもないと言わんばかりのご様子だ。

 僕がお店で御上先輩に詰められていた時に電話連絡をしてきたのは、無論の事申川さんだ。申川さんは電話越しに僕の状況を聞くと、僕を合コンから連れ出してくれる事を提案してくれたのである。

 合コンの二次会なんて面倒くさそうなイベントから逃げたい一心だった僕は深く考えずにその提案を了承したのだが、こんな派手な車でご登場されるとは思いもしなかった。

 お陰でバイト先のお姉さん(という体)が迎えに来てバイト先に顔を出しに行くぐらいのシチュエーションを想定していたのだが、とてもそんな言い訳が通用する展開ではなくなってしまった。

 まあ、僕が呆然としている間に申川さんが先にドライブという名目を立ててしまった時点で全てはご破産になっているのだが。


「ああそういえば、今日ご連絡したのはこれをお渡ししようと思ったからでして」


 申川さんは運転しながら運転席と助手席の間の収納スペースに置かれたバッグを器用に開けると、中から取りだしたものを僕に差し出した。

 器用に運転する申川さんの意外な一面に動揺していた僕は何も考えずにそれを受け取り、ちらりと物を確認する。どうやらそれはDVDケースなようで、表紙には申川さんの艶姿が写っていた。

 ……なんか以前にもこんなことがあったなあ。


「私の新作です」


 いやまあ、それは見れば理解できますが……。

 僕はなんと言っていいか分からず、ついパッケージを眺める。どうやら今回はコスプレものらしく、表紙に写った申川さんはやたらと丈が短いチャイナ服を着崩した感じに身につけている。

 裏返した部分は容赦なく肌色成分マシマシで、隣に本人がいるのに見るんじゃなかったと後悔した。

 ……もっとも、当の本人は全然平気そうな様子であったのだけれども。

 というか、何故今回の分だけわざわざ直接僕の所に?

 僕はとりあえず思いついた疑問を口にする。

 申川さんはデビュー以降既に数本のAVに出演しているが、それらが発売した際は特に連絡もなかった。それが今回に限っては直接出向いてまで出演作を僕に見せようとするのか。


「それは以前ご意見をいただいてからはじめて撮影した作品なんです。いただいたご意見を取り入れて演技したつもりなのですが、是非ともご感想をいただきたくてお持ちしました」


 そういうことですか……。

 僕はその返答を聞いて尚更困ってしまう。

 前回も伝えたはずなのだが、AVに詳しいわけでもない僕に意見や感想なんて聞いてもしようがないだろうに。申川さんの出演作はすべて視聴しているが、演技の変化がどうとかなんて聞かれても答えられる自信はさらさらない。


「あ、他のやつも見ていただいているんですね!ありがとうございます!その辺についても後々に是非ご感想をいただければ!」


 あ、いや、その……。

 失言に反応した申川さんに僕はしどろもどろになる。

 ……一応自己弁護しておくと、申川さんの出演作を毎回チェックしているのは西園寺だし、皆が僕の部屋にいる時にうちのテレビで視聴会を強制開催するから嫌でも目にしているだけで自分の意思で見ているわけではないのである。うん。

 僕は曖昧に笑って誤魔化すと、話の軌道修正を図る。

 ……そもそもその前回感想や意見だってほとんど西園寺に任せる形にだったのだ。僕が出したものなんて、文字通りの素人意見しかなかった。西園寺の意見が聞きたいということであれば預かるのもやぶさかではないが。

 僕の言葉に、申川さんは笑みを浮かべたまま大きく頷いた。


「もちろん、西園寺さんという方のご意見も大いに参考にさせていただいていますよ。同性からのご意見というのは中々お伺いできる機会がないですから。……ですが」


 赤信号に引っかかって車を停車させた申川さんは、こちらを向くと僕のことを覗き込むようにしながら言葉を続ける。


「私としては、貴方のご意見も是非お伺いしたいと思っていますよ?」


 ……、……、……。

 申川さんの言葉に、というよりは、まっすぐにこちらを見つめてくるその目に僕は押し黙った。

 曇りのない眼というのは、こういう目を言うのだろう。揶揄いでも誘惑でも蠱惑でもない、どこか純粋なその視線。

 申川さんが僕に何を求めているのか、何に見ているのかがさっぱりわからない。態度や雰囲気から好意的に見てくれていることは間違いなさそうなのだが、程度のほどが測りかねた。

 昔は人の顔色を伺うのは得意なつもりだったが、東雲の話が冗談かどうかわからなかったり山河先輩の裏を微塵も察せなかったりで最近はちょっと自信がなくなってきている。 

 僕が何も答えないうちに信号が青になり、申川さんは正面に顔を向けて車を発進させたので内心ほっとする。

 しかし、申川さんがこんな車を所有されていることには驚いた。それだけ女優業が順調ということだろうか。

 僕の感想に申川さんは苦笑する。


「まさか。デビューしたての駆け出しにそんな余裕はありませんよ。この車も頭金を入れただけですし」


 ああ、それはそうか。

 西園寺が申川さんのことをやたらめったら持ち上げているし、出演作のネットでの評判も良いとか語ってたから順調なイメージを持ってしまっていたが、まだデビューから数ヶ月も経っていないのだった。

 そんな財布事情でこんな高そうな車を購入するとは剛毅なものである。


「この車は軽自動車なのでそんなに高くはないですよ。まあそれでも普通の軽より高いのは間違いありませんが」


 なるほど?

 某世界的自動車メーカーのお膝元生まれであるが車にまったく興味がない僕は、そういうのもあるのかぐらいの感想しか出てこなかったので曖昧に頷くに留めるが、申川さんは気にすることなく嬉々として語り始める。


「本当は初代の丸っこさが好きでそちらを探していたんですが、生憎と状態の良いものが見つからなくて、仕方なくこの二代目を購入したんです。妥協するには大きな買い物でしたからちょっと後悔していたんですが、乗ってると愛着が湧いてくるんですよこれが!見た目も初代に似せた丸目が可愛くて!」


 語りの熱の入りようはBL愛を語る鴇矢さんもかくやというものだった。それだけ車に熱を入れているということだろう。

 正直意外だ。

 僕の中の申川さんのイメージはに貪欲で、その趣味が高じて女優業に身を置く奇特なお姉さんという感じなのでこんな男の子っぽい趣味も持っているとは思わなかったのである。


「ふっふっふっ。こう見えても、私はけっこう多趣味なんですよ!ガンプラ作ったりとか、フィギュア集めたりとか!」


 どうだと言わんばかりにドヤってくる申川さんだが、事故が怖いので前は見ていて欲しい。しかし、世の男性の下半身を魅了してやまないこの人に、こんな側面もあったとは。

 大変失礼ながらイメージとのギャップに戸惑いすら覚えるのだが、最初の出会いからしてやべえ人だったのでそこは勘弁してもらいたい。

 僕はそんな申川さんの一面に興味が沸いたので、その辺についてもっと詳しく聞いてみることにする。会話の内容を選んでおかないと、ふとした拍子にR-18な話題が飛んで来かねないし。

 もちろん僕は酒もたばこもえっちな話もオールオッケーな大学生なのでその辺はまったく問題ないのだが、夜遅くとはいえオープンカーでそんな話をした日には道行く人々からどんな目でみられるかわからない故に配慮は必要なのだ。うん。

 僕の雑な振りにたいして、しかし申川さんは真面目に考えてくれているご様子だ。


「そうですねえ。他というと、電動こけしとか電動マッサージ器を集めたりとか……」


 ほ、他には!?

 

「VTuberさんの配信とかもけっこう見てますね。他の趣味にお金をかけているのでスパチャまではしませんが、推しがゲームやっているのを見てるとつい自分もやりたくなりますよね」


 な、なるほど。

 それは僕にも理解できる。

 北条が八……吉野さんの配信を見ているのだが、あの人はFPS以外のゲームにもよく手を出している。FPS界隈では腕利きで他ゲームでもゲーム勘の効く吉野さんが、なんてことなさそうなアクションゲームがクリアできなくてキレ散らかしたりするのは見ていて面白い。

 それに、申川さんの言う通り見ていて面白いゲームもいくつかあって自分でもやりたくなることは確かによくある。

 学生の資金力で買えるゲームの数なんてたかがしれているのでやりたいゲームがあっても諦めることが多いのだが、吉野さんが誰かと一緒にやりたいからと僕にゲームを送りつけてきて一緒にプレイすることもままにあった。

 こちらとしてはいただくばかりでは申し訳ないのだが、今のところ配信用だからということで押しきられている。そんなことをするぐらいなら他のVTuberの人を誘ってコラボでやった方がいいだろうに。

 まあ、その辺の話はさすがに申川さんには説明できないので割愛するしかないのだけれども。


「お、ついにわかり合えそうな趣味が出てきましたね!他にはですねえ……」


 僕が理解を示したことに気を良くしたのか、上機嫌で趣味探しを始める申川さん。ぱっと思いつかないものが趣味と言えるかどうかはこの際置いておく。


「……ああ、そういえば冬実さんからお伺いしたですが、貴方は文芸部に入っていらっしゃるんでしたか。私も大学時代は文芸部出身だったんですよ!」


 なんと。

 僕は失礼ながら、思わず目を見張ってしまった。

 別に申川さんが文芸サークルに所属していたことが意外だったということではない。いや、そもそも申川さんの学生時代がどんなものだったかなんてとても想像できないのだが。

 しかし、申川さんの書く小説か。それはちょっと興味があるかもしれない。意外と純文学っぽいものを書いたりするのだろうか。


「大学に入った当時の私はエロで身を立てようと官能小説家を志していたんですが」


 いやまあうん……。ちょっと、いやけっこう予想はできてた。どうやら大学入学当初の時点でこの人は既にこんな感じだったらしい。

 学生の時分から将来を見据えるのは大変すばらしいことだが、いささか目標が学生らしからぬと言うべきか、親はそんなことを学ばせるために大学に入れたわけじゃないだろうと突っ込むべきか……。

 西園寺のやつも趣味で官能小説を書いているが、なんだかやつの将来が不安になってきた。


「まあ、私には文才というかお話を作る才能がなくて諦めたのですが。に協力してもらっていた時は、ネットでも評判が良くて手応えを感じていたんですけれどねえ……」


 原作者?

 漫画ならともかく小説で原作者なんて聞いたことがない。いや、厳密に言えば他の人が書いた作品のスピンオフなんかだと原作者クレジットをされたりするが。


「いやまあ、ある意味それと同じようなものなのですが……。アイディアというよりは、実話を提供していただいていたんですよ」


 はあ、実話……。

 つまり、その原作者の方が体験したことをそのまま小説にしたと?それは小説というより、ネットとかによく落ちてる体験談というやつでは。まあ、ああいうのも結局は大概創作なのだろうけれども。

 僕の指摘に、しかし申川さんは笑みを深くして楽しげに応じてくる。


「そうなんです!ただ、その人のすごいところは小説みたいに話が荒唐無稽なことなんですよ!貴方みたいに人畜無害そうな顔して行きずりの女を取っ替え引っ替えでぱくぱくと……!」


 ぱくぱくて……。


「彼に初めて会ったのは文芸部の新歓コンパなんですが、彼ったら当時の部長と初対面だったその日のうちにいたしたんですよ!私は酔って寝た振りをしてこっそりそれを観戦していたんですが、あの時は最高に興奮しました」


 恍惚の表情で語る申川さんに、僕は顔を引きつらせつつ曖昧に笑うしかない。申川さんのリスペクトも納得のとんでもねえやつである。申川さんが言う通り僕みたいな小心者であればそんなだいそれたことはしないはずなので、申川さんの思い出補正も入っていることだろう。

 しかし、そんなヤリち……もといとんでもネタを提供してくれるような人がいてそっちの道で食べていく道もあっただろうに、何故そうならなかったのだろうか。


「私もそのつもりで彼に誘いをかけようとしていたのですが、大学の卒業式の日に関係を持っていた方々に連れ去られてそれっきりで……。何故か連絡も取れなくなってしまったので今となっては彼が生きているかどうかも」


 ええ……。

 いやまあ、いくら破天荒な性活を送ろうとも取るべき責任があることは現実社会において当然なわけで。見境無しに女に手を出していったその人の自業自得な末路ではあるのだけれど。

 それで文筆家としての道を諦めて今の職業に?

 いや、その前に一度卯月先輩のところでモデル業をやっていたのだったか。


「あれはあくまで副業です。本業は普通の会社で事務員でしたよ」


 申川さんが事務員……。

 なんとなくオフィスで制服を着てパソコンに向かう申川さんの姿が目に浮かぶけど、なんだかそういうシチュエーションのAVっぽい感じのイメージにしかならないな……。それこそ現職に毒されすぎか。

 まあそれはともかく、今の話を聞いて疑問点がひとつ。

 少なくとも大学時代から将来の目標を定めつつあった申川さんが何故に卒業後は普通の仕事に就いたのだろう。仮に本業は会社員だったとしても、副業として今の道を目指すこともできただろうに。


「確かにそれはそうなのですが……」


 僕の問いに対して、申川さんは苦笑する。


「正直なところ、大学を卒業した頃の私はAVに出演するなんて考えもしなかったんです。何しろ直前まで官能小説家を目指そうと思っていたので。その上社会人になった途端実家からの仕送りも途絶えて目の前の生活が降ってきて、エロよりも明日のパンを心配する有様でしたし」


 お、おおう……。

 頭のネジとか貞操観念とかゆるゆるな申川さんでも社会に出たらそんな風になるのか……。僕も密かに適当な薄給ながらも定時退社できるような仕事をこなしつつ、小説を書いてそのうち作家デビューでもできたらいいななんて夢想していたのけれど、あまりにも世知辛い現実だ。

 僕は内心暗澹とした気持ちになりつつも、実家に帰ることは考えなかったのかと申川さんに問う。確か申川さんは秋田県出身だったはず。

 誰に聞いたんだったかな……。そんな情報持っていそうなのは東雲ぐらいなものだが。

 ……いや、違った。AVのインタビューで申川さん自身が話していたんだったな……。


「一度地元に帰って実家でお金を貯めて再出発ということも考えました。ですが、一度地方に戻るとこちらに戻ってくるのが大変ですし、なにより私を地元で結婚させたい両親が手ぐすね引いて待ち構えているのがわかっていましたから」


 ああ、申川さんの家もそういう感じなのか……。

 自由恋愛が叫ばれ、そして叫ばれすらしなくなった昨今でも家を継ぐ継がないとか、結納がどうとかみたいな古いしきたりが生きている家はある。特に地方の田舎みたいなところでは。

 僕の実家もちょっと古い感じの考え方をする家で一時期色々と言われていたが、今では見切りをつけられて両親は妹に希望を見いだしている。結婚が必須ですらなくなった今のご時世にそんなものを押しつけられても困るというものである。

 まあ僕も妹に押しつけた形になってしまっているのだが、今は実家でちやほやされているのだから将来の面倒ぐらいは被るべきというものだ。


「──そうしてどうすることもできず悶々としている時に、街で声をかけられたんです。”姉ちゃん良い身体してるねえ。俺と一緒にAVで頂点を目指さないか”って」


 えっ。

 とんでもねえ文句が聞こえてきて、思考の海に沈みかけていた意識が一瞬で引き揚げられる。思わず申川さんを凝視するが彼女は特に変わった様子もなく、どこか懐かしむような表情で語り続けていた。


「今思い出しても色々なところが熱くなるシチュエーションでした。渋谷のスクランブル交差点のど真ん中で急に手を掴まれて。最初は下手なナンパの類かとも思ったのですが、彼の目を見てすぐに違うと気がつきました。なんと言えばいいのか……、ひたむきで前向きで頑なで、創作に対する熱が滾っているのがよく分かる目でした。私、その目と言葉に痺れてしまって……。そんな熱い言葉で口説かれたら応じないのは嘘でしょう。その時の男性が今お世話になっているメーカーの監督さんなんです」


 う、ううん……。

 なんていうか、確かに劇的なシチュエーションではあるのだが、それがAV出演の交渉となると途端にしょうもない感じがしてくるのは何故だろうか……。職業に貴賎はないとは言うけれども、時と場合はわきまえて欲しい……。

 というか、大学時代のヤリちんな友人といい破天荒なAV監督との出会いといい、申川さんはそういう仕事に就く星の下にあるのかもしれないな……。常人であればそんな宿命嫌がる人が多いと思うが、申川さんとしては本望であろう。

 ──まあ、それはそれとして。

 これまでの話を聞いて、僕は得体の知れなかったこの人のことがなんとなく理解できたような気がした。

 要は、こんな見た目をしているが中身は男の子なのだろう、この人は。

 全体的に男の子っぽい趣味といい、冗談みたいな展開に喜び勇んで乗っかっていく馬鹿さ加減といい、生き方がもう思春期の少年そのものだ。性欲に正直というか歯止めが効かなそうなのもそれが原因な気さえしてくる。側の容姿とそういうのを恥ずかしがらずに開けっぴろげにしている所だけが擦れた大人っぽいのがやばさに拍車をかけている感じ。

 おそらくそのまま男性になってもこの人はほとんど問題なく暮らしていけるに違いない。

 密かに納得している僕を他所に、未だに熱く語っている申川さんの瞳は輝いている。意図が読めず狂気的に思えていたその輝きは、自分の武勇伝だとか秘蔵のコレクションを自慢する子供と同じものだと今なら分かる。

 こうなってくると取っつきづらかった申川さんに親しみすら感じてきた。

 相手は性の求道者のようなAV女優ではなくお年頃な少年だ。ちょっと内容がに片寄ったとしても微笑ましく対応できるというものである。

 車に乗り込んだ時の不安もどこかへ吹き飛び、件の監督がいかに素晴らしい人物であるかを一生懸命説明する申川さんに対して僕は穏やかな気持ちで応じる。

 落ち着いてはじめて気がついたが、オープンカーの中は思ったよりも風の影響が小さい。スピードを出した時に風で飛んで来たゴミや砂が目に入ったりとかしたら事だろうし、そういった事に配慮された設計になっているのだろう。普通の車よりも視界が低く遠くまで見渡す事はできないが、一般道を普通に走っているだけなのに体感スピードが速く感じる。高速道路で思いっきり走らせたらさぞ楽しいことだろう。

 このまま帰るのは何か勿体ないなと思い始めた時、何気ない様子で申川さんが切り出した。


「……ところでこの後なんですが」


 もっと車を飛ばせるところまで行きませんかとでも提案してくれるのかと思って愛想よく相槌を打つと、申川さんが正面の方を指さした。


「ちょうどあそこに休憩できる場所があるのですが、ちょっと一休みしていきませんか?」


 あ、やばい。

 そちらの方を確認すると、日本の街並みに似つかわしくないお城みたいな建物が。慌てて周囲を確認すると、いつの間にか住宅街の通りから外れて郊外近くまで来ていたらしかった。

 僕が愕然とする間にすっと太ももに申川さんの手が置かれる。その手に太ももをくすぐるように撫で上げられて背筋がゾクゾクするが、これが快感なのか悪寒なのかは分からない。

 勝手に申川さんのことを理解した気になって警戒を緩めていたが、向こうからすれば小動物が無警戒で目の前に転がり込んできたようなものだろう。妖しく微笑む申川さんが、舌舐めずりする肉食獣のように見える。

 端的に言って貞操の危機だった。

 曖昧に笑みを浮かべて誤魔化しつつ、どうにかしてこの事態を打開するべく必死に頭を働かせるが、焦りもあってここから上手に場を収める名案が思い浮かばない。

 車に乗った状態で土下座はできないし、男の子的に美味しい展開を拒絶する言葉は口から出てこないって、ああちょっとその手を鼠径部に近づけないで……!

 半分溶かされたなけなしの理性が、もう走る車から飛び降りるしかないと訴えてくるので真面目に実行しようかと考え始めた時。

 太ももからあらぬ所に伸びようとしていた申川さんの手の下で、ポケットに入れていたスマホが振動した。咄嗟に申川さんが手を引いたのを見計らって、僕は救いの神たるスマホを取り出す。

 どうやら僕のスマホにしては珍しく本日二度目の着信が入ったらしい。発信者を確認すると、奇跡的なタイミングで連絡を寄越してきたのは東雲であった。

 東雲神の事を内心で拝みつつ、申川さんに一言断ってから電話に出る。


『もしもし。合コンは終わった?』


 神の言葉を聞いて落ち着きを取り戻した僕は、既に合コンを終えて今は申川さんと一緒にいることを伝える。


『ふたばさん?』


 突然出てきた人物に訝しげな声音の神に合コン終わりから今までの経緯を、かいつまんで説明する。


『ああ、なるほどね……。今、ふたばさんに代われる?』

 

 お城に連れ込まれそうな現在の状況は説明しなかったのだが、流石神はなんでもお見通しであるらしい。納得したような声と共にそのようなお言葉をいただき、運転中な申川さんに出て貰うことははばかられたのでスピーカーをオンにして対応する。


『ふたばさん、聞こえる?』


「ええ、聞こえてますよ。先日の飲み会ぶりですね、冬実さん」


『うん、先日ぶり。この前言ってた車、納車されたんだ』


「そうなんですよ!やっぱり思い切って正解でした!この車で、前に話してたビーナスラインにも一緒に行きましょうね!」


 和気藹々と話し始めるふたり。会話から察するに、申川さんがモデル業を辞めた後もふたりの交流は続いているらしい。申川さんの方が年上のはずだが、会話を聞いているとなんだか神、もとい東雲の方が年上のように感じてしまうから面白い。

 とにかく当面の危機を乗り越えられたことに安堵していると、東雲が切り出した。


『それでね、ふたばさん』


「なんですか?」


『あんまり彼にしちゃ駄目だよ』


 東雲の言葉に、申川さんが一瞬動きを止める。


「……駄目ですか?」


『駄目。車なら彼をちゃんと家まで送ってあげてね。私も他のふたりも、部屋で待ってるから』


 それだけ言って東雲は電話を切った。

 申川さんは目をぱちくりと瞬かせながら僕のスマホを見ていたが(もちろん赤信号で停車中だ)、やがて苦笑を浮かべた。


「……冬実さんに怒られちゃいました。仕方ありません。今日の所は素直にお家までお送りしますね。とりあえず駅の方まで向かいます」


 多分に含みを持たせた言い方であるが、どうやら貞操の危機は去ったらしい。

 東雲のあれを怒ったと言っていいのかは分からないが、申川さんには効果てきめんだったようだ。

 ネオン瞬くお城に向かっていた車は方向転換して別の道を進み始める。おそらくしっかりとうちの方まで向かってくれているだろう。


「しかし、冬実さんがあそこまで言うのは珍しいですねえ。あまり他人に干渉する方ではないのですが……。それだけ貴方と仲が良いということでしょうか」


 揶揄うような申川さんの言葉に、余裕のできた僕は肩を竦める仕草をしつつ応じる。

 さて、どうだろうか。デートからの臥竜祭を経て、甲斐甲斐しいというか僕の行動に干渉するようになってきたのは確かだが、あれは息子のやることにいちいち口を出してくる母親に近いような気もする。まあそれも、実家の母親からの干渉がほとんど絶えて久しい僕には判別しかねるけれど。

 東雲の母親がどんな人物かは知らないけれど、もし母親からも姉からも構われていたのであれば弟君の心中はいかばかりだっただろうか。


「愛ですよ愛!一般的なものとはちょっと違うような気もしますが、愛情なくして人への執着は成り立ちません!」


 僕の考察に対して力説する申川さん。いやあ流石に愛は言い過ぎだが、仮に愛だとしてもその愛が歪んでいるのが問題なわけで……。

 僕と申川さんの東雲の態度についての議論は白熱したが、大学最寄り駅に近づき、僕の部屋に誘導している間も決着はつかなかった。

 議論が脱線し、東雲の弟への愛情はどういう方向性だったのかについてまで話が及んだ時にちょうどアパートの前に到着したのだが、僕たちは表に誰かが立っていることに気がつく。車のライトに照らされて現れたのは東雲だった。


「お帰り」


 なんでもないように声をかけてくる東雲に僕は呆れてしまった。しっかり服を着込んでいるようだが、もう冬と言っていい季節だ。おおよその到着時間は伝えていたとはいえ、わざわざ部屋の外で待つこともないだろうに。


九子ひさこさんが駐車場貸してくれるって言うから車を先導するために出てきたんだよ」


 ……ん?

 まさか、申川さんに部屋に上がってもらうつもりなのか?


「おいたはともかく、アパートまで送ってもらったんだからお茶ぐらい出さないと駄目だよ」


 めっ、と僕をたしなめる東雲。発想と言い方がもうお母さんなんだよなあ……。


「それに春香が是非ともふたばさんに会いたがってるし、ふたばさんの新作ももらったんでしょ?せっかくだから皆で鑑賞会でもと思って。ふたばさんが大丈夫ならだけどね」


 そう言って申川さんの方を見る東雲。申川さんは笑みを浮かべて即答した。


「それなら是非とも!」


「うん。それじゃあ案内するから。君は先に部屋に入ってて」


 申川さんの返答に頷くと、東雲は牛嶋邸の方に向かって歩いて行く。僕が車を降りようとするよりも先に、申川さんが身体を寄せてくる。


「……冬実さんが表に出てきたのは、本当に誘導のためだけなんですかね?」


 耳元でささやくような声にどきりとするが、確認した申川さんの表情に艶っぽさは欠片もなく。彼女はただいたずらっぽい笑みを浮かべるばかりだった。

 僕は肩を竦めて見せると、何も言わずに車を降りる。申川さんも返答を求めずにそのまま楽しそうな様子で東雲の向かった方へ車で進んでいった。

 さて。今日は色々あったので正直もう眠りたいところだが、この後またややこしい展開が待っている。せめてシャワーぐらいは浴びさせて欲しいと願いつつ、僕はアパートの階段を登り始めた。



 後日。

 申川さんとのドライブのインパクトが強すぎて合コンの件を失念していた僕は、御上先輩と佐川君に申川さんの件でがっつりと詰められることになる。

 合コン自体は御上先輩が相手の連絡先をゲットできず無事失敗に終わったらしい。その上しれっと白鳥さんと映画を見に行く約束を取り付けた重信先輩にマウントを取られたとかで、御上先輩は非常に殺伐としていた。

 責任の一端があることが否定できなかった僕は、御上先輩とついでに佐川君に食堂で唐揚げ定食を奢らされた挙げ句、食事中ずっと御上先輩の愚痴を聞かされ続けるハメになったのである。

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