間話 西園寺の休日呑み


 目を覚まして身体をベッドから引き剥がし周囲を見渡すと、傍らに敷かれた布団の中身がもぞもぞと動いているのが見えた。


「……ううん。……おはようでいいのかな、今は」


 どうやら布団の中身こと西園寺もちょうど起きたところだったらしい。我が家に時計は存在しないので、閉め切ったカーテンの向こうから漏れる光を頼りに枕元からスマホを見つけ出して時間を確認する。

 現在の時刻はそろそろ十時になろうというところだ。本日は休日なのでいつまで寝ていようがなんら問題はないのだが、理由が遅くまで酒を飲んでいたからというのはなんとなくいただけないような気がする。


「いやあ、今日も清々しい朝だね。暑そうだし外に出たいとは思わないけれども。どれ、目覚めの一杯でも入れようか」


 朝寝坊するハメになった元凶たる西園寺は大きく伸びをすると、僕の恨めしげな視線など気にもとめていない様子で布団から這い出してキッチンへと向かった。

 我が家勝手知ったると言わんばかりの行動にも納得はいかないが、僕のシャツや短パンを簒奪して寝間着代わりにしたり、さも当然のように部屋に泊まり込んでいる時点で今さらかもしれない。


「ほら、どうぞ」


 ベッドに腰掛けてぼんやりしていた僕はキッチンより戻った西園寺からグラスを受け取りつつ礼を言うが、受け取ったグラスの中身を見て首を傾げる。

 冷蔵庫に作り置きしておいた水出しコーヒーを入れてくるとは思っていたが、やたらとミルクの比率が高い。カフェオレどころかこれではコーヒーミルクである。


「それじゃ乾杯」


 僕が疑問を口にするより早く西園寺が自分のグラスを突き出してきたので、反射的に自分のグラスを軽くぶつける。

 まあ、人に入れてもらったものに文句を言うようなことはするまいと、僕はグラスに口をつけた。

 コーヒーの風味を大量に入れられたミルクのまろやかさが和らげている。砂糖でも入れたのか、甘みを感じさせながらも後味にはアルコールの苦みが……って。

 僕が西園寺の方を見ると、風味など興味ないと言わんばかりの勢いでグラスの中身を呑み干していた。


「……ああ。朝の寝起きにキメる酒は格別だな」


 やっぱりこれカルーアミルクじゃねえか!

 満ち足りた表情で浸っている西園寺に突っ込みを入れるが、やつはどこ吹く風だ。


「カルーアだってコーヒー豆を使ったリキュールなんだから本物のコーヒーと変わらないさ。まあ、カルーアに含まれるカフェインは微量しかないらしいけれど」


 それじゃあ目覚ましになってないんだよなあ……。


「でも、今のやり取りで十分目覚ましになっただろう?」


 ああ言えばこう言うやつである。しかし目が覚めてしまったことには違いないので、僕は反論することを諦めて手元のカルーアミルクを呷った。

 まったく、ただでさえ最近は酒量が増えているというのに朝っぱらから呑むことになるとは思わなかった。


「せっかくの休日なんだから、溜まったものを解放してすっきりしないとね。あ、今のはストレスのことであって精──」


 そういうシモネタはいいから。

 酒が入ったせいか朝から飛ばし気味の西園寺を静止しつつ、僕はため息を吐く。

 しかし、普段から毎日のように酒を呑む西園寺でもこんな起き抜けからなんてことはやってこなかった。

 いや、むしろ今までやっていなかったことの方が驚きな気もしてきたが、今さらなんでこんなことし始めたのやら。


「そりゃあボクだって人さまの家でやりたい放題するほど無遠慮じゃないからね。これでもいろいろセーブしていたんだよ」


 出会ってから今まで傍若無人な振る舞いをし続けてきた女はけどね、と続ける。


「ボクは気がついたんだ。ひょっとして、今までのボクは欲望の解放のさせ方がへたっぴだったんじゃないかって」


 西園寺はキッチンへと向かい、冷蔵庫を開けながら語る。


「人のことを気にしてやりたい事に妥協していたら、かえってストレスを溜めてしまう。やはりやるならきっちりやらなくちゃいけない。だから──」


 冷蔵庫から取り出したビールと冷やしたグラスをテーブルに置きながら言った。


「だから、ボクは決めたんだ。今日は一日中呑みながらだらだらし続けるって」


 かっこいい事言った風にキメ顔をしているが、内容はクズの極みだった。

 同時に、先日は西園寺が部室で時間潰しをしている時に読んでいたマンガに、似たような台詞があったことを思い出した。

 どうやら影響されちゃいけないマンガに影響されてかろうじて引っかかっていたタガが外れてしまったらしい。

 そんなことは家でやれ、と言いたいところだが、家でこんな事許されるわけないだろ!といういつもの反論にならない反論が飛んでくるのが目に見えていたので口にはしなかった。


「まあ、一緒に呑めとは言わないさ。場所だけ貸してくれればいいから。……さあて、何からつまもうかな」


 西園寺は浮かれた様子で自分のカバンから多種多様なおつまみが詰まった買い物袋を取り出して、がさがさと漁っている。

 ……まあ、勝手に呑んでぐだぐだしてる分にはいいか。西園寺はちょっと酔ったぐらいでテンションを変えるほどやわな奴じゃないが、素面でいるよりはうるさくはないだろう。たぶん。

 西園寺はテーブルに陣取ると、宣言した通りビールと持参したつまみでちびちびやり始めた。

 発泡酒だとか第三のビールなんてケチなことをしないでちゃんとしたおビール様を呑む辺り気合が入っている。


「実は家にお中元として大量の酒が届いていてね。ビールセットを自分の部屋に隠しておいて、何回かに分けて持ってきていたのさ」


 ビール缶をカバンに忍ばせてせっせと僕の部屋に運び込む様を想像するとシュールとしか言えないが、本人は至って真面目にやっていたのだろう。

 最初は傍迷惑な話だと思われた西園寺の休日呑みは、しかし意外なことに僕にも多少の利益をもたらした。




「おや、今日のお昼はひやむぎかい?へえ、実家からお中元のお裾分け。実家に帰らなかったら送られてきたってそれは罰ゲームかな?まあ、これだけあったらしばらくは食事に困らなさそうだね。ううんしかし、ひやむぎだけだと酒に合わせるにはちょっと辛いな……。よし、ボクの方で具材を準備するよ。冷蔵庫の中身は使ってもいいだろう?と言っても、ここの冷蔵庫には基本的につまみになるものしかないからな……。ええと、プチトマトとキムチと、ハムはないから代わりにベーコンと……。今回は酒のあてにするからこういうのでいいけど、今後のためにもっとそれっぽい食材を常備した方がいいかもしれないね」




「悪いんだけど、湯船にお湯を張ってもいいかな?お風呂掃除はボクの方で請け負うから。え?まあね、確かにこんな暑い日に湯船に浸かる必要はないよ。けど、ぬるい風呂に浸かりながらキンキンに冷えた酒を呑むのも中々乙なものだろう?それに、身体の中のアルコールを汗と一緒に排出できればさらに酒が呑めて一石二鳥じゃないか。よければ君もボクの後にお湯に入ればいい。アルコールと女子大生の汗が染み込んだお湯が飲みほうだ──。……いや、冗談だよ。だからその無言で構えた空き缶は下ろそう」




「夕飯の買い物?それなら代わりにボクが行ってこようか?おつまみの追加も買いに行きたいし。大丈夫だよ。ビール四、五本ぐらいで外を歩けなくなるほどべろべろにはならないさ。なんなら夕食はボクが作るよ。おつまみっぽいものばかりになってかまわないならね。それよりも、君だってちょっとぐらいは独りになりたいだろう?幸いにして洗濯機の中には昨日ボクが着ていた衣服がそのままに……あいたっ!?」

  



 基本的には冷えたおビール様を呑んで悦に入りながら、(官能)小説を読んだり、(官能小説を)執筆したりして過ごしている西園寺だが、己の欲望を満たすために一部家事を進んで請け負った。

 普段でも長居する時はそれなりに手伝っているのだが、積極性はいつも以上だ。欲望のためと言いつつ、たいした勤勉さである。

 そんなこんなで西園寺はうちのテーブルを占拠し続けた。


「うふ、ふふふふふ。ああ、世界が回って見える。こんな光景初めてだなあ……。ふふっ」


 お中元のビールもなくなり、業務用角瓶のハイボールに切り替えた西園寺は夕食を終えるころにはご覧の通りすっかりぐでぐでになっていた。普段は酔っても表情に出ない西園寺だが、今は顔も赤いし無駄ににやけ笑いを浮かべているし頭をふらふらさせている。

 ここまでたがが外れたのは、合宿の時ぐらいじゃないだろうか。


「ほら、晩酌ぐらいは付き合っておくれよ。ささ、ちこうよれちこうよれ」


 洗い物を終えてキッチンから戻った僕を見咎めた西園寺は、自分の座ったソファの隣をばしばしと叩いた。

 合宿の時僕は先に寝てしまったがためにこの状態の西園寺をちゃんと見るのは初めてだが、一番絡まれたらしい才藤さんが婉曲にめんどくせえと言っていたのでできるなら勘弁して欲しいのだが……。


「んん?なんだい、ボクの酒が飲めないってのかい?いいのかな?付き合ってくれないとちょっと人には言えないような痴態をさらけ出すよ?」


 痴態ってなんだ痴態って。いったいなにをやらかすつもりなんだよ……。

 この飲兵衛が勝手に黒歴史をこさえるだけならどうでもいいのだが、間接的に僕の不利益になりそうなことをやらかされるとそれはそれで困る。

 しばし逡巡した後に、僕はため息をひとつ吐いてキッチンからグラスを取ってくると西園寺の隣に座った。


「よしよし。人間素直が一番だよ」


 西園寺は満足そうに頷くと僕のグラスをひったくり、業務用角瓶と炭酸水を注ぎ込んでお箸で軽く混ぜてから渡してくる。そのまま手酌で自分のグラスにも注ごうとするので、僕はそれを奪い取ってハイボールを作ってやる。


「君も気が利くようになったじゃないか。酒を酌み交わすならこうじゃないとね」


 ご満悦な西園寺だが、別に殊勝な気持ちでハイボールを作ってやったわけではない。今日一日延々と飲み続けた西園寺の酒量をセーブするために、ハイボールを薄めに作ったのである。これだけぐでぐでなら酒の味なんてろくにわからなかろう。


「それじゃあ、えっと。……この物語は以下略」


 酒で頭が回っていないらしく、口上をがっつりはしょりつつ掲げられた西園寺のグラスにグラスを合わせてやる。西園寺の手がふらふらと揺れて狙いがしっかり定まらなかったせいで、がちりと強めの音が響く。慌ててグラスを確認したが、特に割れている様子はなかったので安心する。


「んぐ、んぐ、んぐ。……ああ、美味いなあ。これならまだまだ呑めそうだ」


 案の定僕の策略に気がつかずにデカいことを言い始める西園寺。こうなればチョロいものだ。適当にうっすい酒を飲ませて、いいところで布団に押し込めればそのまま寝落ちるだろう。

 その前にまず、人のシャツにだばだばと酒をこぼすのを止めなければなるまい。まだ素面だった頃はちびちびと呑んでいた癖に、酔っ払った現在は無駄にぐいぐい呑もうとして口の端から酒があふれていた。

 僕の指摘に西園寺は着ているシャツの胸元がぐっしょりと濡れていることにようやく気がつく。


「……んん?いけないいけない、シャツに酒を呑まれてしまったか。……絞れば呑めそうかな」


 絞らなくていいから!そんなことしてまで呑もうとするんじゃねえよ!

 雑巾みたいに絞ろうとしたのか、シャツを脱ごうとする西園寺を慌てて抑える。そんなことされたらシャツがしわしわになってしまうし、シャツの吸った酒を呑ませるのは憚られる。


「なんだ。女子大生の汗入りの酒を呑ませてあげようと思ったのに……」


 そんなもの呑まない。

 というか似たようなくだりをさっきやっただろうが。


「そうだっけ……?まあいいじゃないか。今日一日やりたい放題させてくれたお礼だよ」


 そんなお礼の仕方は求めてないんだよなあ……。


「まったく、しょうがないなあ君は。男子たるもの女の衣服だとか老廃物だとかにもっと興奮してくれないと。もうちょっと欲望をさらけ出してもいいと思うのだけれど」


 なんで僕が叱られるような流れになっているのかさっぱりわからないが、衣服でもちょっとニッチなのに老廃物に興奮するのは特殊すぎる。


「おかしいなあ。官能小説とかエロ同人とかだと、男はみんな大喜びしてたと思ったのだけれど」


 それは参考にする媒体が間違ってるんだわ……。

 ああいうのはそういうのが好きな人がそういうジャンルを選んで買っているから喜ばれるのだ。すべての男子がSMだとか寝取られだとかが好きなわけじゃないだろうに。


「むう……」


 西園寺は渋い顔をしてグラスの中の酒を呷る。僕は空になったグラスを奪い取り、先ほどよりもさらに薄いハイボールを作ってやる。


「うふふふふ、ありがとう。……しかし、困ったな。こういうのがウケないとなると、君への恩が返せない」


 またその話か。

 西園寺と出会ってはじめてサシで飲んで、そしてこいつや他二名が僕の部屋に入り浸るようになってからというもの、こいつはことある毎にお礼と称してセクハラまがいの提案を押しつけようとしてくるのだ。

 男子たるものいっそのことありがたくお礼を頂戴してしまえば丸く収まるのかもしれないが、北条や東雲、牛嶋一家やサークルの皆等僕たちを取り巻く人間関係への影響、というか受け取った場合の僕への視線を思うと受け取る気にはなれない。

 ただでさえサークルの皆、主に一部男性陣からは厳しい目で見られているのに、それが今以上になったら日陰者には耐えられない。

 それになにより、ようやく安定してきたこの環境が崩れ落ちるかもしれないことは、僕にはどうしても受け入れがたかった。

 だから僕は、西園寺も納得できるであろう形でこの話題を終わらせることにした。


「ううん、衣服にも老廃物にも興味ないとなると、三次元じゃだめかもしれないな……。おすすめの同人誌とか官能小説を部屋に持ち込んで置いておくようにするか……?」


 未だに阿呆みたいなことを真剣に検討している西園寺に向けて、僕はグラスを突き出した。西園寺はちょっと驚いた様子を見せつつも、グラスを合わせてくる。

 お互いに中の酒を飲み干したのを確認してから、僕は西園寺に真っ当な理を説く。

 西園寺は部屋を占拠していることで僕に対して借りがあると考えているようだが、なんだかんだ食材を持ち込んだり家事の手伝いをしてもらったりで借りの返済はしてもらっているのだ。今日だって部屋に居座る代わりに買い物やら風呂掃除やらをやってもらっているので、西園寺達だけが一方的に利益を得ているわけではないのである。


「それはそうだけど、その……。君だって、本当は四六時中部屋に居座られるのは嫌だろう?」


 西園寺は常にはない遠慮した様子を見せつつ言った。そう思ってるならもっと自重しろと言いたいが、話がややこしくなるのでここでは言及しない。

 ちょっとやそっとじゃ納得しなさそうな西園寺に、僕は仕方なく口を開く。

 そもそも前提が間違っている。友達と連むのに、恩だとかお礼だとかは無粋だろう。

 僕の台詞に、西園寺はぽかんとした表情をする。今日は西園寺の珍しい姿がいろいろと見られる日だ。


「……そうか。友達なら、遠慮することはないか」


 いや、もうちょっと遠慮はしろよ。

 僕の突っ込みに西園寺は少し笑ってから、おもむろに空いたグラスにハイボールを作るとそれをぐいっとひと息に飲み干した。

 先ほどまでの緩慢な動作に油断していた僕はそれを止めることができずに焦った。しかし様子を見るに急性アルコール中毒の兆候はなさそうだ。


「大丈夫だよ。自分の限界はちゃんと見極めてるから。……けど、ちょっと眠くなってきたな」


 そう言って西園寺は僕に寄りかかるように身体を預けると、僕が抗議するよりも早く寝息を立て始めた。

 まったく、免罪符を与えてやったそばからこれである。まあしかし、思ったより早く寝入ってくれたお陰であまり呑まされずに済んだし、この様子なら僕の小っ恥ずかしい発言も記憶から消し去ってくれるかもしれない。

 とりあえず、この酔っ払いを布団に運び入れてから僕も寝仕度をすることにしよう。

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