筋肉はすべてを解決する ~あるいは一一月〇八日に思いついた閑話~
「ふぬっ、んぎぎぎぎぎっ!」
買い物から帰宅して玄関ドアを開けると、誰かが苦しげな声を上げているのが聞こえてきた。何事かと部屋に入ると、北条が床に手足をついて歯を食いしばりながら身体を持ち上げている最中であった。端的に言えば、腕立て伏せである。
表情と声には色気がかけらもないが、汗で身体にぴっちりと張り付いたタンクトップの中に詰まった重量物による恐ろしいまでの視覚効果がそれらのマイナス要素をすべて打ち消し、とんでもないプラスを築き上げている。
その証拠に、ソファーで仰向けになって寝転び読書にいそしんでいたらしい西園寺が手にした本をそっちのけで北条をガン見していた。頭がソファーの端からはみ出て床に落ちそうになっているが、気にした様子もない。今の体勢が北条の真正面に位置する絶好のポジションだからだろう。
気持ちはわからなくもないが、体勢を保つためとはいえスカート姿で足を立てて開くのは色々見えるので止めた方がいいと思う。
しかし、僕も普段から北条のあられもない姿を見慣れているつもりだったし、セクハラ扱いされて煽られるのが嫌であまり意識しないようにしていたのだが、思わずまじまじと見てしまうほどの暴威だ。
北条が腕を曲げて身体を落とすと床に接触した胸がぐにゃりと潰れるのだが、腕がそれ以上曲げられない位置で止めているのか胸の質量でそれ以上身体が落とせないから止まっているのか判別がつかない。
そして、腕を伸ばせば潰れていた胸が形を変えてたわわに弾む。腕を伸ばしきった後も、腕の筋肉が限界に近いのかぷるぷる震えているので当然胸も震える。
マンガとかアニメではよく見る演出であるが、それを実演してみせるとは恐れ入った。北条、やはり恐ろしい女である。
「あれ、夏希筋トレしてたんだ。やっぱりその体型を維持するために努力してるんだね」
僕と一緒に買い物に出ていた東雲が、ドアの前で立ちつくす僕の後ろから部屋をのぞき見て北条に声をかける。
北条は返事をしようとしてか口を開こうとしたが、それよりも前に力尽きてべしゃりと崩れ落ちる。平面の床にうつ伏せで寝ていると胸が邪魔なのか身体がまっすぐ伸びなくて違和感がすごい。
「いやあ、最近パチンコにかまけてサボってたけど、重いものぶら下げてると肩こりとかやばいからね……。将来だるんだるんに垂れたら嫌だし……、今のうちにできる努力はしないと……」
息も絶え絶えといった様子だが、なんとか返事をする北条。
講義をサボってパチンコ打ちに行く意識低い系の北条に努力を強いるとは。やはりあれだけのブツとなると、気楽に装備出来るほど安いモノではないらしい。
うつ伏せでいるのが息苦しくなったのか、北条がごろんと転がり仰向けになる。北条の動きに合わせて何か別の生き物であるかのように形を変える乳。単位をキロで換算できてしまう軟体重量物が身体にひっついていたら、そりゃあ生活に支障も出るだろう。
持たざる者に苦しみがあるように、持つ者にも相応の苦しみがあるのだなあと考察しつつ、そろそろ本当に頭が床に落ちそうな様子をみせつつもなお北条に熱い視線を送るだけの機械になっていた西園寺に軽く蹴りを入れて再起動させる。
衝撃を与えたことで西園寺は意識を取り戻したが、バランスを崩してソファーから転げ落ちてふぎゃっ、と猫みたいな悲鳴を上げた。
「痛たたた……酷いじゃないか」
西園寺はぶつけた部分をさすりながら抗議をしてくるが、あのままだと頭に血が上りすぎて鼻血でも出していただろう。むしろ感謝してほしいぐらいだ。
「筋トレかあ。私も
服を脱いでラフな格好になりながら東雲がつぶやく。薄着になって分かりやすくなった身体のラインは女性らしさを残しつつも無駄のないモデル体型で、どこに肉がついたのかさっぱりわからなかったが、本人にしかわからないこともあるのだろう。
「いいじゃんいいじゃん、シノちゃんも一緒にやろうよ!やっぱりこういうのは仲間が多いほど続くっていうしね!せっかくだから他のふたりも!」
興味を示した東雲に食いた北条は僕と西園寺にも誘いをかけてくる。
「ううん、筋トレかあ。ボクは別に困ってないし、どちらかというと皆んなが筋トレしてるのを眺めていたいんだけどなあ」
誘いの言葉に難色を示す西園寺。こいつは欲望に忠実な女なのであまり努力をしたがらないタイプなのだ。そんなだから友達ができないのだと思うが、この件はやぶ蛇になるので沈黙を保つこととする。
そんな西園寺の後ろから東雲が音もなく忍び寄ると、西園寺のお腹をつまんだ。本日二度目の奇妙な悲鳴を上げる西園寺。
「最近ビールとか揚げ物が多かったから、春香もちょっときてるんじゃない?今のうちはいいけど、このまま歳とったらたぶんとんでもないことになるよ」
東雲も歳が一つしか違わないのでどんな根拠で話しているのかわからないが、やたら重々しく断定的に話すので西園寺も不安になってきたらしい。
「そ、そんなにヤバそうに見えるかな?」
恐る恐るといった様子で西園寺が尋ねると、東雲は無駄に確信的な表情で断言した。
「このままだと、十年後の体重は倍になるね」
「ひい!?」
どう考えてもふかしでしかないのだが、肉がついてぶくぶくになった自分を想像したのか、大袈裟なぐらいの悲鳴を上げた西園寺は東雲にすがりつくようにしながら助けを請う。
「ぼ、ボクはどうすればいいんだ!何をすればそんな未来を回避できる!?」
東雲は罪人に神の言葉を告げる聖職者のような表情で、西園寺に託宣を授ける。
「筋トレだよ。すべては筋肉が解決するんだ。筋肉さえ身につければ脂肪なんてどうということはないんだよ」
「筋肉が、すべてを……」
東雲の言葉に蒙が啓かれたような表情をする西園寺。
この小芝居いる?
僕の突っ込みに、西園寺はけろっとした様子で答える。
「いやあ、ちょっと面白くなってしまって。けど、実際ヤバいのは否定できないんだよなあ。正直、最近体重計に乗るのが怖くて避けてたところはあるからね。ボクもそろそろ現実を直視しなければならない時がきたってことなんだろうな……」
「じゃあハルちゃんも一緒ね!あんたも一緒にやろうよ。そのひょろい身体をなんとかしないと不健康で死んじゃいそうだし」
遠い目をし始める西園寺を尻目に北条が僕に水を向けてくるが、不健康は余計である。ただちょっと低血圧だったり、ちょっと体力がなくて肉体労働に弱いだけなのだ、僕は。
「だけ、では片付けられない気がするけど……。バイトの時とか、衣装の入ったケース運んでるだけでへばってることあるよね君。三代さんがあんまり重いもの持たせると折れそうで不安になるって言ってたよ」
東雲の突っ込みにはぐうの音もでない。
三代さんが経営するスタジオでのバイトはけっこう実入りが良くて融通が利くので、大変都合のいいありがたい仕事なのだ。雇い主からそうのように見られるのはちょっと問題かもしれない。
……仕方がない。今後の雇用継続を勝ち取るためにも、ちょっとぐらいは付き合うとしよう。
首尾よく道連れを作ってやりぃ!と喜ぶ北条に西園寺が問う。
「それで、ナツはいつもどんなメニューをこなしているんだい?やっぱり腕立てとか腹筋とか?」
「そうねえ。腕立てはやるけど腹筋はやらないかな。後はこう、胸の前で両手を押し合って……」
北条は自分の筋トレメニューを挙げていく。名称がわからないからかこちらに配慮してくれたのか、ご丁寧にも実演付きでの説明だ。しかし。
「いやあ、まさか本当に胸に関係する筋肉しか鍛えてないとはねえ……」
北条から一通りの説明を聞き終えて、東雲が苦笑混じりで言う。
北条が鍛える目的を考えれば理にかなっていると言えなくもないだろうが、どうせならもう少し全体的に鍛えれば良いだろうに。
「なによ、いいじゃない別に。あれもこれも手を出してたら逆にやる気なくなっちゃうわ。ハルちゃんとシノちゃんだって、今から気をつかっておかないと垂れるわよ?」
「私はふたりみたいに大きいわけじゃないからそこまで気を遣う必要はないしねえ」
「いや、ボクにしたってナツほどのサイズはないからそんなに深刻になるほどでは……」
北条の指摘にふたりはなんともいえない表情をしている。公には口が裂けても言えないが、客観的な事実として、西園寺も東雲も胸が小さいわけではないのだ。
西園寺は北条の影に隠れているが平均で考えれば大きなサイズといえるだろうし、東雲にしてもふたりには劣るがスタイルがいいのでそこらの女性と比べても際だって見える。
ただ、ふたりの近くに北条がいるせいでまったく目立たないだけなのである。
「シノの言うことも一理あるけど、極端なことやってると上半身だけ筋肉がついて肩幅だけがっちりした体型になりそうじゃないかい?」
ああ、チキンレッグってやつだな。
「そうそう。……いや、ナツは太ももにもいい感じに肉がついてるから問題ないのか?」
西園寺の言葉に、全員の視線が北条の太ももに集中した。例によってホットパンツ姿の北条だが、ホットパンツはぴっちりと太ももに張り付いている。
なるほど、これなら多少上半身ががっちりしても問題ないかもしれない。
「……下半身を、いえ、全身を鍛えられるようにトレーニングを増すわ」
「それを捨てるなんて勿体ない!」
「嫌よ!ただでさえ太って見られてるんだから!こんな肉、駆逐してやる!」
「とりあえず腹筋とかスクワットとか、基礎的な筋トレメニューをこなすぐらいでいいんじゃないかな。他に気になる部分は各自でやればいいし」
そうだな。こういうのは全体的にバランス良くやった方がいいだろう。
勝手にもめはじめた西園寺と北条を無視して、東雲とトレーニングメニューについて相談する。
まあ個々に目標も違うし、すべて同じメニューであわせる必要もない。一緒に筋トレをやる仲間を増やすことで続けられそうな環境を作るだけでいいのである。
そういうわけでトレーニングをはじめたのだが、流石に四人が一度に筋トレをできるほどの空間は我が家にはない。
僕と東雲、西園寺と北条の組み合わせで二人一組となってペアの補助をしながら交代でトレーニングをしていく形だ。このペア組は何気ない様子で西園寺が決めていたのだが、意図的なものを感じるのは僕のうがち過ぎだろうか。
そうして、始まった筋トレはすぐに暗礁に乗り上げることとなる。僕と西園寺がすぐに力尽きてへばったためだ。
「いや、ふたりとも流石に早すぎだよ……。まだ腹筋二十回もできてないよ」
呆れた様子の東雲に、僕は何も反論することができない。反論材料が無いという事もあるが、そもそも腹筋が引き攣りすぎて声を出すこともできないレベルなのだ。言い訳をすれば、まともな運動なぞここ数年行っていないのである。高校の体育も適度にサボりながら流していたし……。
既に起き上がる努力すら放棄し、東雲に脚を抱えられながら寝転がっているだけの僕に対して、西園寺は意地をみせている。既に腹筋が悲鳴を上げて力を入れることすら億劫であるだろうに、歯を食いしばってうなり声を上げながら身体を持ち上げようとしている。
……悲しいことに背中は床にくっついたままなのだけれど。
「ほらハルちゃん、もうちょっとだよ!がんばれ♡がんばれ♡」
「ぐっ、ぬううううううっ!!」
北条のどこかで聞いたような応援の仕方に反応して、西園寺が反動をつけつつ渾身の力を込めて状態を起こそうとすると、ちょっとだけ背中が持ち上がったがすぐに力尽きて床に逆戻りしてしまった。
「くそっ!桃源郷は後少しだというのに……!どうしてボクの身体は動かないんだ……!」
たかだか腹筋のために目を潤ませるほど悔しがる西園寺。本人の気持ちとは裏腹に、身体はもう動かせないようだ。そんな西園寺に対して北条が励ましの言葉をかける。
「頑張れて偉いぞっ♡後一回だけ頑張ってみよう♡」
「ぐああああああああっ!」
それを聞いて再び奮起した西園寺は、なけなしの力を込めて身体を持ち上げようとする。
あんな地獄みたいなトレーニングがあるかよ……。
「なんていうか、腹筋が壊れて使いものにならなくなっても続けそうだね」
次のトレーニングから西園寺と北条を組ませるのは止めよう。
結局、腹筋が崩壊寸前になった僕と西園寺はあえなく離脱し、それぞれベッドとソファーで身体を休めながら東雲と北条がトレーニングに勤しむのを眺めている。
北条に脚を抑えてもらいながら腹筋をする東雲は、けっこうな回数をこなしているがけろりとした様子だ。
「シノちゃんすごいわねえ。やっぱり昔なんかやってたの?」
「ああ、小学校から高校までは家の近所のボクシングジムでやってたボクササイズ教室に通ってたんだよね。お母さんのダイエットに付き合ってはじめたんだけど、結局お母さんはすぐ辞めちゃって。私はなんとなく惰性で通い続けてたんだ。高校卒業した辺りで辞めちゃってそれからは運動らしい運動は何もしてなかったけどね」
「なるほどね。シノのモデル体型はそうやって培われてきた訳か。やっぱり運動が習慣になってた人はちょっとブランクがあっても余裕があるなあ。本の虫だったボクにはとても真似できないよ」
腹筋が機能不全に陥ってるため声が小さい西園寺の言葉に、東雲は腹筋を続けながら苦笑する。
「こんなのは慣れだよ。筋肉がついてるに越したことはないけど、トレーニングを反復して行っていれば筋肉が多少落ちても回数をこなせるものだからね」
そんなものなのか。まあ、野球の素振りとかもフォームを身体に覚え込ませるためにやるって話だし、筋トレでもそれは変わらないということか。
「そうそう。だから、ふたりも何度も筋トレしてれば無理なく回数こなせるようになるよ」
「それにしても、なんで辞めちゃったの?長く続けてたんでしょ?」
北条の何気ない問いに東雲は身体を持ち上げ、北条の正面で微笑みつつ答える。
「実は、ジムには弟も一緒に通っててね……」
「すいませんした!!!」
「ナツは上手に地雷を踏み抜くねえ」
ここまでくればわかりそうなものだけど、迂闊なやつである。まあ、東雲がまったく気にせず北条をからかうぐらいのノリでいるから問題はないのだろうが。
そうして北条の発案で始まった筋トレ会の初回は、雑談をしながら筋トレメニューをこなす北条と東雲を、即離脱した僕と西園寺が眺めるだけという形でさっくりと終わった。別に本格的なトレーニングを目指しているわけではないのでこの程度で問題ないだろう。
東雲は涼しい顔でメニューをこなしていたが、北条は慣れないメニューをこなしたこともあっていい感じに汗をかき西園寺を喜ばせた。僕と西園寺に関しては論外である。あ、明日以降にまた頑張るから……。
「いやあ、今日はいい汗かいたし、いいものは見れたし、充実した休日だな!後は酒を飲んで寝るだけだね。さあて、ビールビール……」
なんとか動けるまで回復した西園寺は、シャワーを浴びて部屋に戻ってくると機嫌良さげにそんなことをのたまい冷蔵庫を開けようとしている。
そんな西園寺を制止し、僕はグラスに注いでおいた冷えたビールを渡してやる。
「おや、気が利くじゃないか。それじゃあありがたくいただこうかな!……、……、……うん?」
西園寺は上機嫌のまま僕からグラスを受け取り、腰に手をあててぐいっとグラスを呷った。ごきゅごきゅと喉を鳴らして豪快に中身を飲み干している。そして、何やら違和感を感じたのか空になったグラスを見つめながら不思議そうな顔をした。
「……なんか、いつもより味気ないような?」
それはそうだろう。本日はいつも飲んでいる銀色のやつではなく、こっちの糖質オフのやつなのだから。
「ええ……。な、なんでそんなものを?」
「せっかく運動を始めたんだから、食事の方も気をつかわないとね。お酒もしばらくは糖質オフのビールか水か炭酸水で割ったハイボールの二択にしようって話になったんだ」
「今日の夕ご飯も油物とか炭水化物多めなものは避けて豚しゃぶサラダにしたのよね」
信じられないといわんばかりの表情をしている西園寺に、東雲と北条が説明する。
「そんな……。ここは筋トレで疲れた身体を労って欲望を開放するところじゃないのかい……?」
そんなことしたら筋トレの意味が無くなるし、そもそも西園寺はたいして動いてないだろうが。お酒を止めるわけでもないしつまみの種類が制限されるだけである。しばらくの辛抱だからちょっとは節制しろと。
「し、しばらくというのは、どれぐらいの間なんだ……?」
すがるような目で見てくる西園寺。その辺りのことが一番わかりそうな東雲に視線を向けると、彼女はちょっと考えてから口を開いた。
「ううん、見た目が変わるぐらいまでとなると半年ぐらいなんだけど、それは長すぎるからね。筋肉量の増加を確認でるぐらいまでと考えると……ざっと三ヶ月前後ぐらい?」
「よし。筋トレはもう辞めよう。みんなで仲良くぶくぶくになろうじゃないか」
心が折れてすべてを諦めた西園寺を三人で説得した結果、定期的に筋トレは続けつつ、食事制限は多少配慮していくという形で収まった。
まあ、なにもしないよりは健康的というものだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます