文藝創作概論Ⅱ
本日朝一の講義は基礎ゼミだった。
講義室に入室すると、中には長机が長方形の形に囲いを作っていて既にそれなりの席がゼミ生で埋まっている。
秀泉大学における基礎ゼミは、一年次にすべての学生が受講することになるゼミである。なので、この場にいる学生はすべて一年生だ。二年次からは各自が興味のあるゼミを選択していくことになる。
通常の講義であれば空いた席を探すことになるのだが、このゼミは受講人数が多くないこともありほぼ席が固定されている。
いつも座っている長机の方を見ると、既に西園寺と東雲が席に着いておりこちらに向けてひらひらと手を振っていた。
僕たちは元々別々の席に座っていたのだが、連みはじめてから僕の周囲にやつらが集まってくるようになってしまい、一角を占有するような形になって現在に至っている。
かたよった男女比のグループであるせいか、周囲からちらちらと視線を向けられるようになり非常に気まずい。以前なら僕が講義室に入ってきても誰も気にとめなかったのに、今は席に向かって座るまでの間居心地の悪い思いをするハメになっている。
「やあ。君がこんな時間にやってくるなんて珍しいね」
席についた僕に西園寺が話しかけてくる。
昨日読んでいた本が思いのほか面白かったので遅くまで読みふけってしまい、うっかり寝坊しかけたのだ。こういう時に家が大学に近いとありがたい。
ところで北条がいないようだがやつはどうしたのか。
「まだ開始まで五分はあるからね。ぎりぎりに飛び込んでくるんじゃないかな」
確かに北条は朝一からパチンコ屋に並ぶとき以外は朝に弱い質なのであり得そうだ。出席を取るゼミでやらかすのは珍しいが、ゼミだからと言って毎回頑張れるわけでもないということか。
「おそらく全力疾走で来るだろうからね。今から楽しみだよ。息を荒げて大きく弾む乳。汗で透けるブラ。突き刺さる視線に無頓着なあどけなさ……」
なにやら西園寺の妄想が漏れ聞こえて来るが、とりあえずよだれは拭いて欲しい。
「おっと失礼」
しかし、北条はゼミの開始時間直前になっても一向に姿をあらわさなかった。
「夏希、来ないねえ」
「これはナツも寝坊したかな?」
一応連絡した方がいいんじゃないだろうか。
「確かにね。ちょっとグループトークで連絡してみようか」
そう言って西園寺はスマホを取り出し、メッセージを打ち込んだ。僕と東雲も反応を見るために自分のスマホを取り出して様子を確認する。
『ナツ、もうゼミ始まるけど大丈夫かい?』
『遅刻?今どこ?』
『ごめん、ゼミには行けません。いま、パチンコ屋の前にいます』
『あっ(察し)』
『七が付く日のイベントに私は挑んでいます』
『こいつ、やりやがった』
『……本当は、ゼミの出席を落とすのは怖いけれど、でも今はもう少しだけ、知らないふりをします』
『懐かしいネタだなあ』
『私の作るこの勝利へのロードも、きっといつか皆への奢りにつながるから』
『とりあえずゼミは欠席だね……。体調不良で誤魔化しておくことにするよ』
『すまんこ。普通に連絡するの忘れてたわ。爆勝ちしたら皆に還元するからね!』
『せっかくだから生理休みが許されるのか実験してみようか』
『やめてくださいおねがいします。あ、列動き始めたから行ってくるわ!状況は逐次報告しま~す』
北条は勝負の大海へ漕ぎ出す債務者のスタンプを残して銀玉飛び交う戦場へ繰り出していった。
僕たちはスマホから目を離して顔を見合わせる。
「やれやれ。朝からパチンコとは相変わらずだね」
ゼミを休んでまで打ちにいくとは、やつも歯止めが効かなくなってきてるな……。
「ちょうどバイト代入って懐が暖まってたからねえ」
口々に言い合っていると、ちょうどゼミの担当講師である大林女史が入室してきた。まあ講義の開始時間は過ぎているのだが、この人の場合はいつも通りである。
大林女史はカッターシャツにタイトスカート姿で、ぱっと見ちゃんとした装いをしている。だが、眼鏡越しでもわかる目の隈と口に加えられたココアシガレットがろくでもない感を演出していた。
「全員いるな?それじゃあ始めるとしよう」
大林女史は学生たちも座る長机のホワイトボード側真ん中に座ると、室内をろくに見もせずに雑に出席を済ませようとするので西園寺がさえぎるように片手を挙げた。
「先生。ナツーー北条さんはお休みだそうです」
「なにい?……まあ、北条の欠席は初回だから別にいいか」
西園寺の言葉に大林女史は軽く片眉を上げたが、すぐに興味をなくしてしまった。大学の講師としてあまりにやる気の無い態度であるが、本人曰く大学の講師業は副業とのことなので特に問題と感じていないのだろう。
西園寺が肩をすくめて手を下ろすと、大林女史は何事もなかったかのように講義を始める、が。
「それじゃあ今日は今から配布する短編小説を読んでもらって、それを題材に講義を進めていく。読書時間は三十分あればいいな?それじゃよろしく」
大林女史はそれだけ言って左右の学生に手に持っていた紙束を渡してタイマーをセットすると、咥えていたココアシガレットを噛み砕いてから取り出したアイマスクをつけて寝始めてしまった。相変わらずフリーダムな御仁である。
回ってきた紙束――プリントアウトされた小説のタイトルは『グレムリン』だった。タイトルからしてファンタジー小説を連想したのだが、舞台は現代であるらしい。
僕は、紙の枚数的にも三十分もかからず読み切れるだろうとその小説を気軽に読み始めた。
*
主人公である小学生の少年はごく普通の両親の元、仲の良い友人にも囲まれ健やかに育っていた。何故か主人公が機械類に触れると高確率で故障するという、とんでも能力を持っていたが、周囲も偶然だろうと特に気にしていなかった。
だが、その日常は時が経つにつれて徐々に失われていく。
主人公達が中学、高校と進学していくにつれ級友たちが背丈を伸ばしていく中、主人公だけまったく身長が伸びなかった。級友たちに混じると頭ふたつ分以上は小さかったので、彼らと同年代にはまったく見えないぐらいだ。
おまけに、作中では婉曲な表現をしていたが、要約すると容貌が醜かったために次第に周囲から気味悪がられるようになった。
機械をよく壊す特性と合わせて誰かが彼のことを機械にいたずらする妖精グレムリンと呼び始めると、彼の周囲からは一層人が去って行った。仲の良かったはずの友人達さえも。彼らにとってグレムリンとはゲームによく出てくる敵キャラ、化け物なのである。
主人公は、身長が伸びないのもみてくれが悪いのも機械をよく壊してしまうのも自分のせいではないのにどうしてこんな目にあわなければならないのかと、鬱屈した思いを募らせていく。
大学を卒業しても機械に囲まれた現代社会では主人公の生きる場所はほとんど無かった。機械に触れないので大半の仕事に就くことができず、子供のような体型であるため力仕事も難しかった。その時には親にも忌避されるまでになっており、主人公は実家を追い出されて街をさまよい歩くことになる。
それでも拾う神はいるもので、偶然であった老人が自分の経営している倉庫会社の作業員として雇ってくれた。主人公は雇い主となった老人に感謝し、誠心誠意をもって仕事にあたっていった。
あるとき、会社に事務員が入社した。新卒入社の若い女の子で、社長である老人の孫だという。当然のように社内で浮いていた主人公にも分け隔て無く接してくれる優しい娘だ。主人公は彼女の優しさに惹かれ、思いを募らせていく。
やがて一大決心をした主人公は彼女に告白するが、丁寧に断られてしまう。それだけなら諦めがついたのだが、主人公は影で自分を悪く言う彼女と同僚の会話を聞いてしまう。
昏い感情に心を覆い尽くされた主人公は、その日の夜に彼女の住むマンションに忍び込む。鍵は都合良くすべて電子オートロックであったのでそれらを自らの能力で解除して侵入し、寝込みの彼女に襲いかかり主人公は陵辱の限りをつくした。
ことを終えて満足した主人公が灯りをつけて彼女を見ると、彼女は主人公のことを化け物を見るような目で見ている。部屋の姿見の前に立つと、そこには醜悪な笑みを浮かべる一匹の化け物の姿があった。
*
タイマーの音が講義室の中に鳴り響いた。紙をめくる音と、大林女史のいびき以外はほとんど物音のたたない張り詰めた部屋に弛緩した空気が流れる。
大林女史は目の前でタイマーが鳴っているにもかかわらず、変わらぬ様子で寝こけている。彼女は隣の席の生徒に肩を揺すられてようやく目を覚ました。
「お……おう。もう時間か。中途半端に寝ると逆につらいな……。さて、誰か時間内に読みきれなかったやつはいるか?」
大林女史がぐるりと部屋を見回すが、反応はない。誰もがただ、なんともいえない表情で女史のことを見つめている。
「まあこれだけ時間があれば読めるわな。さて、それじゃあこれから討議を始める。感想でも質問でもなんでもいいからとにかく挙手して発言しろ。発言のないやつは減点、面白い発言をしたやつは加点だ」
そう言って大林女史は再度部屋を見回すが、誰も手を挙げる者はいない。お互いに視線を向け合って困惑するばかりだった。
初手の発言は悪目立ちしそうなのであまりやりたくなかったが、できれば先に聞いておきたいこともあったので僕は無言で手を挙げた。大林女史が僕を見てうなずいたので発言する。
……この胸くそ悪い小説を書いたのはどこの誰です?
言葉選びが悪かったためか、一部の生徒がぎょっとした表情を見せたのが視界の端に映ったが、大林女史はにやりと笑って口を開く。
「うん。最初から良い質問だな。これは私が学生の頃にこの文藝創作ゼミで発表した小説だよ。この前古いUSBを整理してたら出てきたんで教材にいいと思ってね。プロの小説家が書いた、未発表の作品というわけだ。ありがたかろう?まあ、当時はプロじゃなかったがね」
予想通りの回答に、この人はただの基礎ゼミになんという作品を持ち込んでいるのかと問いただしたくなったが、一応講師が相手なのでぐっとこらえてため息を吐くにとどめる。
僕が先陣をきったためか、ぽつぽつと手が挙がるようになり各々が感想を言い始めた。
曰く、話が重い、エグい、救えない。ラノベみたいなキャラ設定なのに文体がおどろおどろしくて明るいところがひとつもない。
作者である大林女史はそれらの感想を機嫌良さげに聞いている。
ある男子生徒がためらいがちに発言する。彼は僕や西園寺と同じ文芸サークルの部員だ。名前は……、まあいいか。
「ええと、その。主人公の見てくれが悪いとか機械を壊す能力とかは話の構成上必要だからこういう描写なんだと思いますが、背が小さいのはタイトルのグレムリンに当てはめるためだけに使われた設定かなと。今のご時世だといろんなところから叩かれそうだと思いました」
作品批判ともとれる発言であったが、大林女史は気にした風もなく肩をすくめる。
「確かにその通りだし、似たようなことは当時も言われた記憶があるな。まあ、その時のゼミとこの場でしか出さない作品だからそんな細かいことはいいんだよ」
「……さいですか」
サークル部員の彼も女史の答えを察していたのか、特にどうと言うこともなく口を閉じる。
「最後の社長の孫娘を陵辱した部分ですが、けっこうしっかり描写しているのは何故ですか?下手をすると発禁ぎりぎりになっている気がしますが」
誰もがあえて触れなかった部分に西園寺が平然と切りこんでいく。男子生徒たちが微妙に気まずそうな表情をしているが、この程度で日和っていてはこの女と接していくことなどできない。
「それは当時のゼミの教授のアドバイスを取り入れた結果だな。私の恩師に当たる人だが、彼が言うにはエログロバイオレンスを取り入れることで読者を惹きつけやすい。なぜならこれらは人の感情に訴えやすいからだってね。普通に暴行させてバイオレンス路線でもよかったんだが、どうせならエロが書きたかったんだよ」
「しかし、そういうことであれば最終盤にエロを入れても既に遅いのでは?」
「学生がそこまで考えて作品書いてるわけないだろう」
身も蓋もない大林女史の発言に、西園寺は呆れた様子で沈黙した。
「他には何かないかな?」
そう大林女史が確認すると東雲が挙手をして質問する。
「なんでこんな小説を書いたんですか?」
身も蓋もない質問だな、と思ったが、それを聞いた大林女史は討議が始まってから一番の笑みを浮かべ、椅子に預けていた背を離し長机に両肘をついて組んだ手にあごをのせた。
「今までで最高の質問だ。それはこの小説を読み終わった後の君たちのリアクションと感想が答えだよ」
大林女史の発言に自分たちの反応を思い返す。徐々に昏くなっていく主人公の学生時代、人並みの幸せをつかめそうだったところからの急転直下の畜生道で誰もが気持ちを落とすところまで落とされていた。
「だいたいのやつが酷い気分になっただろう?当時の私はそういう反応が欲しくてこの小説を書いたんだ。さっきも触れたが、私は教授から物語に必要なのはエログロバイオレンスと言われていた。実際この作品でも取り入れているが、私はさらに教授の話を拡大解釈したんだよ。人を惹きつける小説とは、読む者の感情をぐちゃぐちゃにかき混ぜてやるものだとね」
確かにそういう意味では大林女史の小説には人の感情をかき乱すものがあった。悪い意味でではあるが。
「ここで言う感情というのは、別にいい意味でも悪い意味でもかまわないんだよ。胸がスカッとするような勧善懲悪でも、読んでいてじれったくなるような甘く切ない純愛でも、夜の暗闇が怖くなるようなホラーでもな。もちろん、気分が悪くなるほど陰鬱なスリラーもだ」
だからといってその中でスリラーを選んでくるんじゃねえよと思ったのは僕だけではあるまい。おそらくほぼ全員が僕と同じような感情をのせた目で大林女史を見ていただろうが、その程度でこの人は小揺るぎもしない。
「まあこの論法も、私が言ってるだけだからな。他の作家にはその人が考える小説論があるだろうし、君たちの中にも反論がある学生がいてくれると嬉しいね。基礎ゼミではあくまで討議の方法を学んでもらうためのものだからここまでにするが、本格的に創作論について討議したいなら、是非とも二年次からのゼミ選択で大林ゼミを選んでくれ。私が顧問を務める文芸サークルでも同じようなことをしているから、そちらに顔を出してみてくれてもいい。それじゃあ今回は以上だ」
最後にちゃっかり自分のゼミの宣伝をしてから、大林女史は講義を終了した。一限の終了時間までまだ五分ほど残っていたが、女史の講義はいつもこんな感じである。
朝から重い小説を読まされた生徒たちが活力を奪われたような表情で退出していく。
「いやあ、一限目からこれは辛いね。朝から大分カロリーを消化した気がするよ」
大抵のことには動じない東雲が苦笑を浮かべながらもぼやく。僕もそれには同意だった。こんな作品を読まされるぐらいだったら北条についていってパチンコでも打ってたほうがよかったかもしれない。それで負けたらもっと後悔しそうだけど。
「確かに、最近では中々お目にかかれない怪作だったね。大林女史が大学生の頃っていうと十年ちょっと前ぐらいか。作風だけならもう三、四十年前の作品と言われても納得するよ」
そう言いながらも西園寺にはあまり堪えた様子がない。こいつはけっこうな乱読家で、本人が気になればなんでも読むタイプなのでこういうジャンルにも耐性があるのかもしれない。
「耐性というか、読み方の問題だよ。この作品を陰惨なスリラー小説と思って読むから君の無愛想な顔がさらに陰気になるんじゃないか。確かにボクも最初はいい気持ちで読んでなかったけど、最後の陵辱シーンですべてを許したね」
無愛想も陰気も余計だ。というか、最後の最後で作者の意図からはずれにいってるんじゃねえよ。
「いや、流石に公の場では語れなかったけど、官能小説顔負けの描写力だったよ。本人も暴力シーンよりこっちのがいいって話だし、一本ぐらい別名義で官能小説を出しててもおかしくないね」
何やら熱く語り出しそうな雰囲気の西園寺の相手をするのがめんどくさくなって彼女から視線を外すと、いまだ席に着いていた大林女史と目が合った。
女史は、無言でちょいちょいと手招きをする。一瞬面倒事だったら嫌だなと思ったが、西園寺の官能小説トークを聞いているよりはましだろうと思い直して女史に寄っていった。
「北条の件なんだけどな。あいつはどうせ七の日だろう?」
ええ……。
開口一番正解を当ててきた大林女史に、とっさになんと答えればいいかわからず閉口してしまう。というか、この人なんで北条がパチンコを打つことを知っているのか。
「その様子だと正解みたいだな。北条とはパチンコ屋でよく顔を合わせるから、そんなところだろうと思っていたよ。私も大学の講義がなかったら打ちにいってたんだがなあ……」
ああ、そういう……。
このお人とは何度か会話したことがあったし、こうしてゼミの講師や他の講義を受講することもあるがパチンコを嗜むのははじめて知った。
「北条に連絡つくなら伝えておいてくれ。ゼミをさぼってパチンコ打ちに行ったのは目こぼししてやるから、後日イベントの状況を報告しろとな」
先ほどの発言も含めて中々にクズ度が高いが、こういう緩い対応をしてくれるのは学生としてはありがたい。この後すぐに連絡することにしよう。
「よし。ああ、それと今日の文芸サークルの活動には途中から顔を出せると思うから、
大林女史は、それだけ言うと席を立ちさっさと出て行ってしまった。まったく、サークルの顧問なのだから先輩方の連絡先なんぞ当然知っているだろうに、よりによって僕に言伝とは。
仕方がない。部長や副部長の連絡先は一応知っているが親しくしているわけではないし。新垣先輩に連絡しておくことにしよう。
何故か公の場で、かわいそうなのはヌケるかヌケないかについて激論を交わしていた西園寺と東雲に声をかけて講義室を出る。生徒が出ていった後じゃなかったら無視して去っていたところだ。
ちょうど喫煙所が近いのでそこで一服しながら北条と新垣先輩にそれぞれ連絡を入れることにした。
最近は北条がことある毎にパチンコの景品としてたばこを持ってくるので吸っても吸っても消化しきれない。毎回違う種類のものを仕入れてくるから当たり外れがあるし、同じ銘柄のたばこしか吸わない東雲の協力が得られないので、西園寺と北条と三人で頑張って消化している。
なお、どうしても合わない銘柄がある時は北条に責任を取らせている。
新垣先輩は即レスで了承のスタンプを返してきた。相変わらずまめな人だ。
北条はグループチャットにパチンコ台の写真を何枚も添付して、写真の演出がいかに熱いかを語っているのだが、何故か当たったという報告は来ていない。大林女史からのメッセージを伝えると緑色の何かを吐き出す顔のスタンプを連打してきたが、まあ伝わったなら良しとしよう。
たばこの煙をくゆらせながら、東雲が口を開く。
「大林先生の小説ははじめて読んだけど大分尖った作風だったね。出版した小説もああいう感じのやつなのかな」
「確か女史の代表作と言われる、古い作家の名前を冠した賞を取った作品がエンタメ系っぽい作品だと聞いたよ。まあ、それもまゆつばに思えてきたけど」
僕は大林女史のことを知ってから試しに女史がデビュー初期に出した短編集を購入して読んでみたのだが、選んだ短編集はこの小説のような陰鬱な作風だった。
お陰で今日の短編も途中からどういう流れかなんとなく察していたが、分かっていても疲れる小説だった。
たばこの煙と一緒に胸にたまったもやもやを吐き出しながら、こんな気持ちにさせてくれた下手人の顔を思い浮かべる。
本人も語っていたように、大林女史は小説作家である。エンタメでもホラーでも歴史物でも、なんでも書くと本人は嘯いているが西園寺が言うように今日みたいな作品を書く作家がエンターテイメントを書けるのかは甚だ疑問だ。
「そうなんだ。ちょっと先生の小説に興味が湧いたからできるだけ軽いやつを読みたいと思ったんだけどね。とりあえず新作の方が読みやすいかな」
「お、いいねえ。自分の作品を読んで興味を持ってくれたとなったら女史も作家冥利に尽きるんじゃないかな。しかし、新作かあ……」
「うん?もしかして新作も今日みたいな作風なの?」
少々歯切れの悪くなった西園寺の様子を不思議そうに見る東雲。西園寺はちょっと困ったような笑みを浮かべながら口を開く。
「そういうわけじゃないよ。……いや、女史の最新作がどういうジャンルかは知らないんだけどね。ただ、女史が最後に本を出したのは何年も前だって話を聞いてね。新作というとちょっと語弊があるなって」
「へえ。小説家の中でも時々いるって聞くけど、すごい遅筆な人ってこと?」
いや、大林女史は最後に本を出すまでは年一回ペースで書いていたらしい。それが本が出なくなった辺りでうちの大学の講師になったもんだから色々と噂されてるんだと。
「曰く、安定した収入が得られるようになって執筆活動への情熱を失った。いや、それは逆で作家としての自分に限界を感じたからこそ恩師の跡を継いで大学講師になったのだ。実は今でも名義を変えて執筆は続けているのだってね。ああ、官能小説の作家になったとかだったら是非ペンネームを教えてもらいたいね」
流石にそれはないだろう。……たぶん。
面白いというか下世話なものだと、大林女史は自分の小説の師でもある前任の教授と愛し合っていて、愛人に遺産を残すことはできないから遺産代わりに後任の講師にしたっていう話もあるな。
口々に語る僕と西園寺に対して、東雲はぱちくりと目を瞬かせる。
「……なんていうか、ふたりがそういう噂を知ってるのは意外だね。ゼミは当然として、サークルとかでもまともに日常会話してなさそうなのに」
「ふふん。自慢じゃないが、酒の席で相手に呑ませて一方的に喋らせるのは得意なんだ。相手の方は男子が勝手に寄ってくるし」
酔った先輩とかOBなんかは愛想笑いしながら適当に相槌打ってれば勝手に色々喋ってくれるからな。そういうめんどくさい相手の話し相手ポジションに収まっておけば隅っこでぼっちになることもないのだ。
「……そっかあ。ふたりとも、上手くやってるんだね」
東雲が微笑みを浮かべて僕たちを賞賛してくれるが、その目には悲しげなものが宿っているようにも見えた。まあ僕の考えすぎだろう。
「ふたりのサークル事情は置いておくとして、そうすると賞を取ったっていう代表作を読んでみようかな。お昼休みにでも図書館を探してみるよ」
そう言いつつ、東雲は手にしていたフィルターの短くなったたばこを灰皿に放り込んだ。僕と西園寺もそれにならい、それぞれの講義に向かうために解散した。
休憩時間ぎりぎりまでだべってしまったので、足早に次の講義室に向かいながら自らも口にした噂話を思い出す。
大林女史は、本をコンスタントに世に出しているし名の知られた大きな賞も取っていた。作家としては順調なキャリアだったはずなのだ。それが、今は大学の講師に収まって生徒に創作論を教える日々。
何か心境の変化があったのか、それとも作家としての自分に見切りをつけてしまったのか。
僕も文芸サークルなんてものに入るぐらいであるから、作家というものに憧れを持ち、自身もいつか……と、思わなくもないのだ。
そんな身からすれば大林女史が今何を考えて教壇に立っているのか、興味は尽きない。
と、そこで二限開始のチャイムが鳴り響く。僕はそれまでの思考を打ち消し、慌てて目の前の講義室に飛び込んだ。
*
「ううう……。みんな、容赦ねえよ……。あれが人のやることかよ!」
そう嘆きながら佐川君は酒の入ったグラスを呷っている。
何だかどこかで見た光景であるが、ここは新垣先輩の部屋ではなく居酒屋であったし、周囲の文芸サークル部員は彼に優しくもなかった。
「そりゃあお前の自業自得だろ。俺たちはお前が容赦なく批評してくれって言うからその通りにしてやっただけだぜ?」
佐川君の前で彼を肴に酒を飲んでいる新垣先輩の言葉に続いてつれない言葉が彼に降り注ぐ。
「設定矛盾と誤字脱字が多すぎるんだよなあ。」
「人に読ませるならもっと自作を推敲して持ってこないとだめよね」
「まあ、今のまま賞に投稿してもいい結果にはならないだろうからしっかりと練り直してから改めるんだな」
「ちくしょう!」
部員たちの暖かい言葉を受けて佐川君は再び酒を呷る。
佐川君が荒れている原因は本日開催された文芸サークルの定例会にある。
定例会では商業作品の書評を行ったり、季節毎に刊行している部誌についての打ち合わせ等を行ったり、適当に雑談したりといった活動をしているのだが、部の誰かが自分が執筆した作品を部員に見てもらい批評や指摘を受ける場になることもある。
今回は佐川君がライトノベルの賞へ応募するために書き上げたという作品を持ち込んできたのだが、ご覧の通り”自信満々で提出したものの、鼻っ面をばきばきにたたき折られて轟沈した佐川を慰める会”が新垣先輩によって開催された次第だ。
前回とは違い定例会に参加していた部員が女性陣も含めてけっこうな人数参加したため、新垣先輩の家ではなく居酒屋での開催と相成った。
また、定例会には参加していた西園寺だが、飲み会は不参加だ。朝から元気にパチンコを打ちに行ったはずの北条が死ぬほど負けて闇墜ちしかけているのを東雲と一緒にフォローしに行ったためだ。
別に毎度負けているわけではなく、こつこつ勝ちを重ねているらしいのだが、負けるときが派手なのでいつも負けているイメージがある。北条はそういう女だ。
正直なところ、最初は僕もサークルの飲み会に参加するよりも西園寺と一緒に家に帰ってくだを巻く北条を肴に酒を飲むつもりだった。サークルの飲み会よりはそちらの方が気遣いをしないで済むし疲れないのは明らかだったからである。
それでも気を変えてわざわざこちらに出向いたのは、大林女史が飲み会に参加するからだ。
彼女は僕の目の前で酒を飲みながら相変わらず眠そうな表情で大騒ぎする佐川君とその周囲の部員たちを眺めている。いつもの癖で隅っこに陣取ったところ偶然大林女史が対面に座ったのだが、実に好都合だ。
こちらから不躾な質問を投げかけるつもりはないが、自分から話してくれる分については問題なかろう。気持ちよく酒を飲ませて色々と語ってもらうことにしよう。
「しっかし、最近の学生はゼミでもサークルでもラノベっぽい作品出してくるやつが本当に増えたなあ。私が学生の頃は文芸作品ばかりだったんだが」
そりゃああんなおどろおどろしい作品が発表されるような環境なのだ。とてもライトノベルなんぞ出せないようなお堅い雰囲気の中で意見が交わされていたに違いない。まあそれも僕の偏見にすぎないのだが、少なくとも僕にはそんな勇気はない。
大林女史は佐川君の作品を批評した時も、いつも以上に辛口だったような気がするがあまりライトノベルを好まないのだろうか。
大林女史の空いたグラスにビールを注ぎながら問うと、女史は何やら複雑そうな顔でしばし黙考し、グラスの中身を一気に半分ほど飲んでから口を開いた。
「……私には年の近い妹がいるんだがね。喫茶店なんぞ開いてのらりくらりと生きていたやつなんだが、何年か前にラノベを出版して阿呆みたいに馬鹿売れしやがったんだ。しかも人が苦労して作品書いてるというのに、ただ自分の喫茶店での出来事を本にしただけとかぬかしやがって。あんな無茶苦茶な話が現実にあるか」
どうやら思った以上に地雷案件であったらしく、グチグチと不満をこぼしながら残ったビールを飲み干している。妹さんの作品がどんな作品なのか気になったが、とても聞ける雰囲気ではないので僕は無言で女史の乾いたグラスにビールを注ぎ込んだ。
「……まあ、そういうわけで個人的に思うところがないでもないが、別にラノベ自体を否定するわけじゃないんだ。私もラノベは昔から読んでるしな。それに今の若者を読者に取り込むなら、エンタメに特化した小説の方が受けるのは間違いないし」
これは意外な発言だった。今日の短編も含めて、僕が読んだ大林女史の作品は読者にエンターテイメントを提供することよりも、読者の心の中に爪痕を残すことだけを考えたような強烈な作品ばかりだったからだ。確かに代表作はエンタメ系という話は聞いているが……。
大林女史は再度口を開きかけたが何かに気がついたように口をつぐみ、周囲を見回す。学生達がいる場での発言に気後れしたのかもしれない。
流石にこれ以上は踏み込めないかな、と思っていたのだが、女史は注がれたばかりのビールを一息に飲み干すと懐からたばこの箱を取り出して、僕を喫煙所に誘った。僕はそれに乗っかり、ふたりで連れだって喫煙所に入りたばこに火をつける。
「……ふう。さっきの続きだがね、私だってどういう小説が売れるのかは理解しているんだ。実際、私の小説で一番売れたのはエンタメに寄せたやつだったし。それでも、私にはどうしてもそれが納得できなくてなあ。正直、私にとってあれは一番の駄作だった。編集者にごり押しされて渋々書いた、何も揺さぶるもののない小説だった。それなのに、その駄作は面白いぐらい売れて賞までとってしまった。自分が面白いと思って気持ちを入れて書いた小説よりもこんな駄作が持て囃されるのかと、当時は荒れたものだよ……」
大林女史は、たばこの煙を天井の空調ファンに向けて吐き出ししみじみといった風に言葉を紡ぐ。
「それからも自分の書きたい小説を何作か世に出してそれなりに評価されたが、結局駄作を越えることはできなかった。結局、自分の理想と世間の現実のギャップに苦しめられて、未だにそれを埋められずにいるわけさ。……まったく。学生に語るような話じゃないな、これは」
そう言って大林女史は苦笑した。
多少の下心をもって参加した飲み会であったが、内心で予想していたものよりも多くのことを女史から聞くことができた。作家になれば人生バラ色、なんてことはないとは思っていたが、僕が思っていた以上の苦しみがそこにはあるらしい。
僕はそこで、大林女史にどういった言葉をかけるのが良いか逡巡した。僕のスタンス通りで考えれば愛想笑いのひとつも浮かべて、作家って大変なんですね、とでも口にして女史のことを労ってやればいい。そうすれば、大林女史がちょっと酒の勢いで学生に愚痴を言った程度の話で終わるだろう。
しかし、僕の心の内の悪魔さんが囁いてくるのだ。今ならもう一歩踏み込める。節を曲げるなら今だと。僕は酒の勢いもありつい悪魔さんの言葉に従って、言葉を吐いた。
大林先生はもう小説を書かないのですか、と。
言った瞬間、踏み込みすぎたという後悔に顔をしかめる。大林女史は怒るだろうか、それとも適当にはぐらかすだろうか。どちらにしろ明日からのゼミやサークルで気まずくなるのは請け合いである。
だが、大林女史の反応は僕の予想とは違った。
「まさか。今はインプットの時期ってだけだよ。まだ駄作越えもできてないのに断筆なんてできるかよ」
はっきりとした大林女史の言葉に、僕は目を見開いてまじまじと女史のことを見つめてしまった。彼女は苦笑しつつも、言葉を続ける。
「何を驚いている。いつも言ってるだろう?大学講師はあくまで副業だと。講師の仕事は作品が書けずに停滞していた私に前任の教授――私の恩師が推薦してくれたんだよ。学生の書いた小説や創作論を吸収することで自分の糧になることもあるってね。だから、私は今君たちに創作論を教授すると同時に、君たちから創作論を教授されているのさ」
……なるほど。大林女史の言葉に僕の疑問は氷解する。女史はまだ諦めていなかった。世間の評価という現実に苦悩しながらも、いつか自分の創作理論で大衆の心に爪痕を残すべく、爪を研ぎながら雌伏している。眼鏡の奥、隈に覆われた女史の瞳が今はぎらついて見えた。
「ま、そういう訳だからお前達も私から色々なものを吸収してくれ。私はそれ以上に君たちから吸い取ってみせるさ」
そう思うなら、もう少し真面目な態度で講義にあたって欲しいものだ。そんなだからあることないこと噂されるのである。
「それはそれ、これはこれだよ。それに、私はこう見えて恩師の講義に対する姿勢を可能な限り踏襲しているつもりなんだがね」
つまり、その恩師もクズってだけじゃねえか。
僕の言葉に大笑いしていた大林女史は、ふと気がついたというようにポンと手を打つ。
「そういえば、君は中々面白い状況になっていたな。こうも露骨に女を侍らせているやつを私は初めて見たよ。君を主人公にしてその日常を小説に書いたら面白いかもしれない。ちょっと脚色してやればラブコメにでもできそうだ」
それはマジでやめていただきたい。クズ共の日常をいくら脚色してもラブコメにはなり得ないだろうし、恐ろしくて想像もしたくない。
「はっはっは。そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいだろうに。まあ、私の主義じゃないし、なにより妹の二番煎じはいただけない。それは別の誰かに託すとしよう」
大林女史は楽しそうに笑ってたばこの火をもみ消す。
「そろそろお開きの時間だな。わかってると思うが、ここでのことは内密に頼むよ」
そうして女史は喫煙所から出て行った。
最後は無駄にからかわれたが、今日は得るものが多かった一日だ。
僕もたばこの吸い殻を灰皿に放り込んで喫煙所を出ると女史を追いかける。
なんとなく、今日は小説を書きたい気分だ。もう遅い時間だが、帰り道でゆっくりとプロットを練って家に戻ったらパソコンを開くとしよう。
飲み会が解散し家路についた僕はあれこれと構想を練り上げていき充実した気持ちになりながら家に帰り着いた。
だが、いまだに続いていた北条を慰める会に巻き込まれて酒を詰め込み、翌日頭痛と共に目覚めたときには小説の構想など頭の中から消え去っていた。
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