花散る里の蝶々

第1話

その手は、ずっとそばにあった。

どんな時も、どんな時も。

私たちは、離れていても、お互いの手を感じていた。

それは、今でも、ずっと。


 女学校は高等学校の隣でありましたから、私はかのお方と、通学の時にそっとすれ違うのです。私は高等学校の側から、かのお方は女学校の側から、それぞれお互いの学校へ向かいました。二つの学校の境目の、そのわずかな時間が、私の一日の内で最も幸福な時間と言えましょう。最初はただ、すれ違うだけで私はかのお方を気にも止めておりませんでした。しかし、あれは、そう。桜の舞う、春のことでした。

 女学校には、桜の木がそれはたくさん植えてありました。春の、花の時期ともなれば、満開の桜から花弁が舞い、見事な桜吹雪となっておりました。その年の花の季節。私は正門の前で友人を待っておりました。彼女は構内に忘れ物をし、一度戻られたのです。彼女を待つ間、私は正門の横に植えてある、桜の木を見ておりました。折しも、花は満開で、美しい桜吹雪が舞っておりました。その折、桜の花びらを、舞い落ちる前に捕まえると、願いが叶う、という呪いを思い出し、つい、その薄紅の花弁を追ってしまいました。私は足元の石に気付かず、転倒してしまったのです。公道で転ぶということの恥ずかしさに、私は動けなくなりました。道行く人は、私を見て笑っていました。いえ、笑っていたように、私が感じただけかもしれません。それでも、そう思う私の気持ちは、更に私の身体を硬直させ、ますます動けなくなりました。すると、急に視界が暗くなって、優しい声が聞こえました。

「さ、今のうちに」

私が顔を上げると、一人の書生が、私を外套で庇ってくださっておりました。そして、そっと手を差し伸べてくださいました。私は、彼の手に、そっと触れました。何とも温かく、優しい指先でありました。彼はそっと手に力を入れて、私を立ち上がらせてくださいました。笑わないでくださいませ。私はその時、初めて家族以外の殿方に触れたのです。そのすぐ後に、友人が戻って来て、かのお方は

「美しい物には魔が宿ると申します。どうぞお気を付けて」

と、書生帽をわずかに下げて礼を取り、立ち去られました。以来、私の心は、かのお方のことばかり、考えるようになってしまいました。

 しかし、毎日のように顔を合わせているのに、勇気の出ない私は、あの時言い忘れたお礼の言葉すら言えないのです。あのお方の顔を見るたび、心臓が煩いほどに音をたて、熱で頭がぼぅっとなって、すれ違いざまに会釈をするのが精一杯でした。それでも、かのお方は優しく、笑顔で礼を返して下さるのです。その様が何とも紳士的で、私はますますかのお方に好意を抱いてしまうのです。

 雨の日でした。朝から降っていたのではなくて、それは急にやってきました。驟雨、です。私はもう学校からは歩き出してしまっておりましたので、小さな小間物屋の軒先で雨宿りをしておりました。空は明るく、それほど長くは降り続かないように思いましたので。

すると、そこへ一人の書生が走って参りました。軽く外套を濡らして、私のすぐ横の軒下へ入ってきました。私は俯いて、身体を端に寄せました。

「すみません。場所をお借りしても?」

声を聞いて、すぐにわかりました。かの、お方だと。私の心臓は高鳴り、顔が赤くなるのが分かりました。それでも何か言わなければと、必死に言葉を探しました。

「わ、私の場所をいうわけではありませんので……」

あああ、何という気の利かない言葉でしょう。あの日、あの時の、このお方の美しいお言葉を聞いて、少しなりと言葉を覚えようと、懸命に美しい言葉の書かれた書籍を読んできたというのに。私は泣きそうになりました。己の不甲斐なさに、です。それでもやはり、このお方は優しく、

「有難う」

と、言って、静かに微笑むのです。私は、せめても、あの時のお礼を言いたいと、何とか喉の奥から声を絞り出しました。

「あの、せ、先日は助けて頂いて、ありがとうございます」

最後の方が、蚊の鳴くような声になってしまいました。言ってから、彼が、私を覚えて居なかったらどうしようと、怒涛のように不安が押し寄せてきました。しかし、彼は、

「いえ、あのくらい。男子ならば当然のことです」

と、穏やかに言うのです。覚えていてくださった。それだけで、私の心は満たされているのに、懸けて頂いたお言葉は何と男らしいのでしょう。ああ、私はどれほどこのお方を好きになれば気が済むのでしょうか。彼の声は、言葉は、まるで慈雨のように私の心を潤し、今にも新たな命が芽吹いていきそうなのです。それは荒野が緑に染まるかのような、奇跡なのです。かのお方、あなたはそんな事など、つゆほども知らないのでしょうけれど。

「蝶々さん」

かのお方の声が聞こえました。何とも優しい呼び声です。誰かをお呼びなのかと顔を上げると、かのお方の目は、私を捉えておりました。

「その、大きなリボンが蝶々のようでしたので、勝手にそう呼ばせて頂いておりました」

「わ、私を?」

かのお方は微笑を浮かべております。勿体ないほど、爽やかな笑顔です。

「はい。正に桜に遊ぶ蝶々でした」

「……恥ずかしいです」

私は顔から火が出そうでした。私は思わず持っていた本で顔を隠しました。

「お嫌でしたか」

「いえ、そのような」

私が何とかそう、答えると、彼の胸元で小さく猫の鳴き声がしました。

「おっと、いけない」

彼がそっと外套の胸元を開くと、中から小さな白い子猫が顔を出しました。

「この雨の中、一人で鳴いておりましたので、思わず拾ってしまいました」

小さく鳴く、その子猫はいつぞやの私のようにも思えました。お前、良かったね。その外套の内側は、温かいでしょう?私はそんなことを思いました。私は、その方の温もりを知っているのよ、と、心の中で猫に話しました。

「お飼いになられますの?」

「いえ、私は下宿人ですので、動物は飼えません。誰か貰い手をと思っております」

「……それでは、私が頂いてもよろしいでしょうか」

我ながら、何とも後先を考えない発言でした。それでも、今、その猫を手放してしまったら、かのお方との縁も切れてしまうと思ったのです。

「よろしいのですか?」

そう、言われて私は懸命に笑顔を作って頷きました。

「ありがとうございます。蝶々さん」

彼は書生帽を取り、深くお辞儀をした。

「は、華恵、と、申します。どうぞ、華恵と」

私はやっとそう言いました。

「華恵さん。綺麗なお名前ですね。私は新一郎と言います」

新一郎、新様。私は心の中で何度もそのお名前を繰り返しました。そうして、私たちはお互いの名前をやっと知る事ができたのです。

「華恵さん」

かのお方、新様の私を呼ぶ声の、何と甘く、優しい事か。私たちは、時折、共に帰る事が出来ました。新様が私を家まで送って下さり、あの時の、子猫を連れて、遊びに出るのです。子猫は名前を花散里と付けました。源氏物語で、光君の安らぎとなった女性から取りました。私は、光君の周りの女性で、彼女が一番好きだったからです。それを新様に伝えると、

「良い名ですね。私も花散里は好きです」

と、おっしゃって下さいました。見栄えのいい女性はたくさんいますが、やはり、安らぎとなることができる女性は幸いだと、私は思うのです。私たちは、日が暮れるまでのほんの少しの時間を大切に大切に過ごしました。新様は必ず、暗くなる前に私を家まで送り届けてくださいました。私は、大事にされて、幸せでした。

とても、とても。

 秋の頃でした。大きな地震があったのです。それは、まるで、大地が海になってしまったかのようでした。大きな、大きなうねりの中に放り込まれて、私は訳も分からず、ただ、床にはいつくばっているしかできませんでした。後に、関東大震災と呼ばれたそれは、大きな悲劇を産んだのです。私の家は、辛うじて被害を逃れ、無事でした。家族も幸い、誰一人命を落とすことはありませんでした。父が腕の骨を折るけがをしましたが、母の献身的な看病のおかげで、ほどなく快癒いたしました。ただ、花散里が、地震に驚いて、いなくなってしまったのです。それと同時に、新様とも会えなくなってしまったのです。新様の下宿先を、私は知りませんでした。女学校は建物が半壊し、授業ができない状態になりました。学友の一部が、地震や、火事に巻き込まれて命を落としました。高等学校も同じような状況であったと聞きました。そして、新様は我が家にも、学校に姿を現すことは無かったのです。花散里と新様と。私はその二つを一時に失い、ひどく落ち込みました。哀しみに打ちひしがれ、食べ物も喉を通りませんでした。次第に痩せていく私を、両親は何とか元気づけようと、様々な事をしてくれました。それでも、私は笑顔を取り戻すことはありませんでした。

 次の春が巡る頃、両親は私を田舎の別荘に連れて行きました。田舎にはまだ雪が残っていましたが、それが春の陽気に少しずつ溶けていくのを見て居ました。あるいは、良心はその雪のように、私の心が溶けるようにと、願っていたのかもしれません。

 そして、ああ、その日のことをどう表現すれば良いのでしょう。私は小さな、そして懐かしい猫の声を聞いて、思わず別荘を飛び出したのです。果たして、その真白の猫は、私を待つように、座っていました。

「花散里!」

私が追うと、猫は逃げました。違う猫かもしれないと、心のどこかで思いながらそれでも信じたい思いが私を突き動かしました。そして、次に猫が足を止めたのは、一人の男性の前でした。着古した白いシャツ。少し煤けたカーキのズボン。学生服ではない、その姿。それでも、

「蝶々さん」

ああ、何とも懐かしい、かのお方が、新様が私を呼ぶお声。それを聞いた途端、私は思わず駆け寄っておりました。そして、食べていないのが災いしたのでしょう。私の足はもつれて、転びそうになってしまいました。それを、新様は優しく受け止めてくださいました。

 あの時と同じ、優しい、温かな手で。

 ああ、どのような事情がそこにあろうとも、私には関係ありませんでした。ただ、ただただ、新様にお会いできたことだけが、私の幸いでした。


「それからですか?」

老婦人がふっと微笑むと、こつん、と、杖の音がして、彼女の背後に一人の老人が立った。彼は穏やかに彼女と微笑みあった。老人は片目に眼帯をしていた。その近くに傷跡も見える。そして、彼は目と同じ方の腕を失っていた。

 二人の生きた時代は、この国が幾度か滅びの憂き目にあった時代である。だが、どれほどの困難があっても、その中で彼らは……この夫妻に関わらず、その時代を生きた人々の全ては、前を向くことを忘れず、廃土の中から立ち上がり、暗雲の中に光を射した。

「幸せですか?」

若い記者の問いに、老夫婦は目で言葉を交わし、そっとその掌を重ねた。もうそれだけで、二人の笑顔だけで、語るべきことは他に何もないように思えた。

 つられるように記者が微笑んだ。彼の目には、蝶々のような真っ赤なリボンをつけた女学生と、黒い学生服に身を包んだ書生の姿が見えるようであった。


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