第32話 天才二塁手の孤独な闘い⑧:死闘の果てにあるもの

 大陸国の男子硬式野球で『千手観音』『Mr. Pitching Machine』『シュリケンボーラー』とあだ名された少年がいる。

 バッターに合わせて左右両方で投げ分けて、ピッチングフォームも使い分けられる変幻自在の投手がいる。

 多数の変化球を使い分け、いずれもキレも変化量も一級品という恐ろしい怪物がいる。


 星上雅久。


 オーバースローでも、スリークォーターでも、サイドスローでも、アンダースローでも、どの投球フォームでも決め球となる球を持っている、類まれなる才能の持ち主であった。






(……ほんと、こんな状況で星上くんと当たるなんて、絶望的っスよね。笑えるっス)


 何が一番最悪かと言えば、滅多にボール球を投げてくれないこと。

 見逃しをすれば即アウト。ときめき学園の他のピッチャーたちにも共通することだが、カウントを悪くしてくれない以上、多少怪しいコースでも積極的に振っていかざるを得ない。

 そうなると、芯を食った会心の当たりを出すことは非常に難しくなる。


 1球目。

 外角低めに丁寧に決まったカーブ。星上や森近が好む配球パターンの一つ。初球外角低めのカーブは、絶対にこれがくると分かっていてもつい見逃したくなってしまうものである。このコースの右投げカーブは、右打者視点から見ると、頂点から急にぎゅっと曲がって見える。これがいかにも打ちづらく感じてしまい、手が伸びづらいのだ。


(……ふ、ふふ、もう・・失敗っスね。やっぱり私、疲れてるっス)


 馬杉は内心で、己の失策を悔いた。バッターボックスに立って、まず様子見から入って、貴重な1ストライクを取られてしまった。

 それがもう致命傷なのだ。


(初球を叩いてバッテリーを動揺させるべき場面だったんじゃないんスか、自分。星上くんは初球カーブとスライダーが多いって知ってたじゃないっスか)


 球筋と球速を見ておこう――と慎重な入り方をしたのがもう失敗だったのだ。先ほどの1年投手と球筋が違うからといって、それに合わせに行く時間はもうない。そもそも星上の球筋に慣れようとするのが間違いなのである。

 なぜなら彼は、オーバースローもスリークオーターもサイドスローもアンダースローも操るのだから。


(星上-甲野のバッテリーなら、ここで決め球に何を持ってくるっスかね。決め球を内角にするなら2球目は外角。逆にここで内角を持ってくるなら――)


 2球目。

 恐ろしい角度から放たれるサイドスロー。球の出所がひどく分かりづらい。外角のボールからストライクになるシュート。これも迂闊に打てない。


 これはボール球だろう――と直感的に思ってしまった。だが相手が星上ということを忘れてしまっていた。打つか見逃すかを判断するポイントを過ぎてから、その球は綺麗なシュート回転で曲がってストライクゾーンに入っていった。

 バックドア。鮮やかな変化球だった。


 最悪の展開。

 0ボール2ストライク。


(……流石っスね、星上くん。こんな決め球投げられたら、普通はお手上げっスよ。普通は・・・


 あれ・・を振りに行くようであれば、そんな奴はもう打撃を諦めたほうがいい。明らかなボール球でも打ちに行ってやろうとしない限り、あのコースに手は伸びない。

 変化球が変化し始める場所が絶妙であった。まさしく魔球である。


(でもこれで分かったっス。最後は読み合いっス。もうここからは直感を信じて決めつけていくっス)


 馬杉はここで、バットを短めに持って構えた。

 ミート重視であることを分かりやすくアピールしたのだ。更にバットを立ててスイング姿勢に入る。これは低めのボールを掬って飛ばすのに適した構え方である。

 ただしグリップを身体から離して握って、しかもベース寄りに立っている――。


(グリップを身体から離しているこの構えは、腕が柔軟に使えて内角も捌きやすいっスが、その反面、外角低めに力が入らないという弱点もあるっス。この場合は、バットの握りが短めなことも合わせて、外角低めに投げたくなるはずっス)


 しかし、外角低めにはすでに二球投げている。

 初球オーバースローのカーブと、二球目のサイドスローのバックドアのシュート。


 ここで星上のよくある配球パターンでは、三球目にはアンダースローの独特な軌道を活かした変化球を投げてくる傾向が強い。例えば、胸の近くをえぐってくるような内角高めシュートや、内角低めシンカーが予想できる。

 一方で外角低め三連投はあまり見ないパターンである。


 オーバースローから放たれる山なりのカーブ回転と、インステップ深めのサイドスローから切れ味鋭く放たれたシュート回転のバックドアを見せられた今、外角低めに投げ込む球として落ちる球や横に滑る球のどちらを持ってきても、いまいち決め手にかけるのだ。

 強いて言えばスライド回転とスクリュー(シンカー)回転を見せていないが、カーブ回転とシュート回転を見せているので、まあ似たようなもの・・・・・・・を既に見せていると言える。


 故に、外角低めには決め球がない――。


 星上と甲野のバッテリーは、こういう・・・・決め球がない場所への配球を嫌う傾向がある。


(球速がないっスから、決め球のないコースには投げにくいっスよね。しかも外角をスイングしやすいようにホームベース際に寄られている。こんな場面で、外角低めにえいやと投げ込みに行きづらい気持ちは分かるっスよ)


 かといって、馬杉がバットを短く持っている今、内角にあっさり投げるのも不気味であろう。

 特にバットの構え方から読めば、内角低めは打たれそうな場所と言っても過言ではない――。


 相手の立場に立ちながら、馬杉はそこまでを予想した。


 無論、読み合いに正解はない。突き詰めても白黒はつかない。配球論に絶対の正解はないし、若干の不利を承知の上で、意外なコースを狙ってくる可能性もある。


 それでも馬杉は読むことをやめない。


(何故ならこの馬杉、読み合いでも技量でも勝ちたいからっス――!)






 3球目。

 放たれるそれを迎え打つ。ピッチングもスイングも一瞬の勝負。

 瞬間的な駆け引き、それが投手と打者の駆け引きの全て。


 刹那。

 交錯。


 手応え。

 弾ける打球。

 読み通りのコース、理想的なスイング。


 それは右方向に理想的に刺さる、ライナー性の鋭い当たり。

 だが明らかに差し込まれたそれは、残念ながらライト線を超えるファールになった。


(……仕留め損ねたっス、くそっ)


 球種は、打った馬杉にも分からない。

 ただ、内角高めに何かが来ることは読み筋だった。


 グリップを身体から離して構えるこのバッティング姿勢では、内角高めはかなり上手に肘を畳まないと打ちづらいコースになる。このピンポイントに食い込む球を投げれば、ほぼ凡打に仕留められる絶好球になる。

 馬杉の直感では、内角高めのこのコースに一級品のシュートが来ると読んでいた。


 もしかしたら打ったのはシュートかもしれないし、少しずらされてシンカーだったかもしれない。


 絶好の当たり。

 しかし0ボール2ストライク。まだまだ追い込まれていることに変わりはない。


 星上は――にんまりと深く笑っていた。

 最悪なやつだと馬杉は思った。あの嗜虐的な笑みを見ると、背筋が妙にぞわぞわする。




(……仕切り直しっス。一旦外角低め→内角高めに目線を持ってきて、奥行きの感覚を揺さぶってきたところっス。ここで定石通りなら、次は素直に狙ってくるっスよね、外角低めを)


 4球目。

 サイン交換を終えた星上が、しっかり構えて投球モーションに入る。

 ひどく極端なインステップ。球の出所の分かりにくい、鋭いサイドスロー。


 振れ、と直感が囁いた。

 外角だ、と勘が閃いた。


 目に飛び込む、僅か0.1秒の情報。

 その0.1秒は、生物の反射神経の限界速度。


 あとは経験と予測を活かして、身体を合わせに行く――。


 だが馬杉は、奇跡的に・・・・身体を止めた。

 違和感が遅れて、目に飛び込んだ。


(――――あ)


 上手い、と馬杉は絶句した。

 インステップ深めのサイドスローでリリースを分かりにくくし、角度をつけてコースの予測を難しくし、球種判断の時間を極端に削った投げ方。


 そこから繰り出された、打ち気を完全に見越した――チェンジアップ・・・・・・・

 気付かずに振れば、明らかに空振りになるタイミング。無理に当てても凡打。

 外角低めに決まったそれは、馬杉を完全に殺していた。


(……っぶな)


 全身が総毛立つ。

 外角低めのボールゾーン、しかし今日の審判は外角を広く取る――と後悔が遅れて押し寄せる。


 判定は――。


「ボール!」

「――――――――っ」


 馬杉は、深く息を吐いて、跳ねる心臓を抑えた。

 殺された、と思った。

 完全にあれは、誘い球であった。

 狙っていたコースに堂々と投げこんできたのがその良い証拠である。あれで殺せると思って向こうは投げたのだ。


 振れば確実に、馬杉は仕留められていた。

 だから振らせるためにあえて、打者の狙い目であろうコースを投げてきたのだ。


(あぶないっスね! ほんと星上くん嫌いっス! もうっ……もうっ!)


 これでまだ、1ボール2ストライク。痺れる勝負に目頭が熱くなる。

 生きた心地がしないとはこのことである。




 5球目。

 馬杉に次を読む余裕はなかった。

 だが狙いを絞る嗅覚はあった。


 先ほどの見逃し。あれは外角低めのチェンジアップを見破った、ように見える。

 相手バッテリーの視点に立ってこの状況を見たら、外角はもう打者の目が追いついているかのように見えて不気味に思える、はず。


 故に、相手バッテリーが狙う場所は――。


(ビンゴ、内角低めっ!)


 直感を信じて振り抜く。

 弾ける衝撃。手のしびれ。

 馬杉は咄嗟に走ろうとして――すぐに気づいた。


 これもまた、三塁線を切るファールだと。


(……さっきから際どいっスね。これは捉えたと思ったっスが)


 馬杉はもう一度息を深く吐き出して、呼吸を整えた。

 手のしびれが、先ほどの打球を捉え損ねたことを教えてくれている。読みが正しければ、あれは内角低めのシュートだった。ただし、馬杉の予想した軌道よりボール四半分は内に寄っていたかもしれない。


 先ほどから、読みはそう大きく外れていない――。

 だというのに、変化球のキレの鋭さと技量で負けている。

 その認めがたい事実が、疲労困憊している馬杉を奮起させていた。


(……ダメっス、頭がぼうっとしてきたっス)


 3-4。8回表。

 ここを打たないと、次の8回裏の相手攻撃は2番星上から始まるクリーンアップ陣。1~2点取られかねない超強力布陣。仮にそうなると、迎える9回の想定得点は3-6になる。


 ここは絶対に1点食らいついておかねばならないのだ。


 困窮疲弊。青息吐息。

 精疲力尽。艱難辛苦。


 あらゆる疲れが、馬杉を苛んでいた。もはや判断力はひどく鈍い。思考がまとまらない。

 打撃に走塁に守備に、細かいことに神経を使いすぎて消耗したともいえる。集中力に綻びが出ている。


 それでも馬杉は――。




 6球目。

 サイン交換を終えた星上のフォームを見て、馬杉は瞬時に山を張った。


(ここにきてオーバースローなら、落ちる球!)


 追い込まれた打者を仕留めるウイニングショット。分かっていても打てない球の代名詞。

 長きに渡って打者を苦しめてきた、落差の魔球、フォーク。


 これだ・・・、と馬杉は直感する。


 刹那。

 馬杉は。

 目を疑い。


 ボールを見失う。


(えっ)


 消えたそれに、動揺を隠せず。

 読みの根底が崩される。


 空に舞い。

 宙を優雅に、孤を描く。


 高らかに浮く。

 その球は。


(――――――)


 山なりの軌道。

 イーファスピッチ。




(あ、えっ)


 入るのか、と目を疑った。

 しかしそれは入る軌道だった。


 打たねばならない、と振り抜いた。

 否、振り抜くことはできなかった。

 もはや完全に、当てるべきタイミングと場所を見失ったのだ――。






「ボール!」






 宣告を聞いたとき。

 馬杉はようやく我に返った。頭が真っ白になって、何も追いつかなかった。


(―――――! しっかりするっス! ダメじゃないっスか、自分! 星上にはとびっきりのスローカーブがあるって知ってたじゃないっスか!)


 体感、70km/h台のスローカーブ。

 50km/hにしてこなかったのは、恐らく邦洲国の球審にストライクに取ってもらえる自信がなかったのだろう。


 馬杉は確信している。

 間違いなく、あれはストライクだった。

 だがこの球審は、落差に目を狂わされてボールと宣告した。その宣告に、馬杉は首の皮一つで命を拾った。


(……読むっスよ、自分。しんどくても、最後まで、食らいつくんスよ)




 7球目。

 もはや次の決め球は分からない。

 だが一つだけ、山を張っていいものがある――。


 しなるようなアンダースロー。放たれる球。

 馬杉はそれを見て、これで合ってくれ、と祈りを込めた。


(あれだけの高さを目で追ってしまって、せっかくの目付がすっ飛ばされたっス。もはや打者不利といって過言じゃないッス。でも落ちる縦の球を見た後、続けて落ちる球が来ないとすれば、決め球は痺れるほど鋭い真っ直ぐか――)


 切れ味鋭い、その球は。

 一閃。


 振るわれたバットに強烈な手ごたえ。

 馬杉は確信した。


 アンダースローの独特の軌道、そして腕の振りと球の回転の相乗効果。

 それを活かすとなれば――先ほどまで見せてなかったスライド回転の決め球が読める。


 スイーパー。

 フリスビーが如く大きく横滑りする、強烈な横スライダー。


(読み、切った……っス)






 馬杉は、この時、もはや何も考えていなかった。

 か細くつながった最後の希望を前に、馬杉はふらつく足を前に出した。


 最後の最後。もつれにもつれた勝負。

 夏の試合には魔物が棲む――。


 渾身のセンター前ヒット。

 3-4。ランナー1塁。


(あとは、ホームに帰って、1点も、失わない……だけ……)


 あまりにも馬鹿げた勝利への道のり。

 ここまでやって未だに1点負け。帰塁できる気力があるかも怪しい。


 馬杉も、相手にからくりが通用しなくなりつつあることを痛感している。ここから向こうの打線は確実に牙を向いてくる。


 それでも、馬杉は食らいつく。勝負にはどこかにまぎれがある。その偶然をたぐりよせることが、勝利の最後の可能性なのだ。

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