第33話 天才二塁手の孤独な闘い⑨:最後の砦が崩れるとき

 馬杉が出塁したことで、鹿鳴館杜山の打撃陣は血気盛んになっていた。

 同点に追いつく起死回生のランナー。馬杉を確実に進ませていけば、彼女は帰ってこれる。あのときめき学園にもう一度追いつけるという希望・・が、鹿鳴館杜山を奮い立たせていた。

 苦しい展開のときは、得てして対戦相手も苦しいものである。ときめき学園も鹿鳴館杜山も、佳境を迎えていた。


 ……しかし、それこそが油断である。本来ならありがたくもない無死1塁の場面。

 この俺、星上雅久にとって、実にありがたい状況が出来上がっていた。


(悪いが、付け込ませてもらうぞ)


 ここで馬杉を送れば1点を確実にもぎ取ることができる――そんな必死の気持ちで挑む打者たち。

 だが俺はそんな打者たちを、いとも容易く翻弄していた。


 下手に塁に走者が出てしまったせいで、打者は欲を出してしまったのである。

 つまり破れかぶれの強振よりも、ミートを優先した確実な一打を求めるようになってしまったのだ。

 それが運の尽きだった。


 向こうがそれに気づいたときには、すでに二人目の打者が仕留められていた。


(……馬杉を送って確実に1点追いつこう、という発想をしている時点で、もうダメなんだ。ここはむしろ2点返して逆転しようとしてくる方が怖かった)


 1点ずつ確実に返していく、という考え方自体が間違っているのだ。この場面は2ランホームラン以外を狙ってはいけなかったのだ。

 こうなると却って俺は、悠々と投げることができる。

 もはや慣れたものだ。向こうにまぐれの長打がないのであれば、駆け引きで俺に勝てるはずがない。


 流石に2アウトまで追い詰められると、逆転の長打一発に切り替えてくるが、それはすでに遅かった。

 今度こそ俺は、三振を奪い取るために変化幅の大きな変化球主体で配球を組んで、打者を仕留めきった。


 馬杉は、3アウト計上までに三塁まで盗塁を成功させていた。

 牽制球で幾度となく警戒していたにも関わらず、三盗までしっかり決めてしまったのは称賛に値する。

 ――だがそれでも三塁は本塁ではない。得点にはならないのだ。


(……悪かったな、馬杉。さっきお前にヒットを打たれた時、俺は心底ヒットでよかったと思った)


 逆に、本塁打でさえなければ、勝った・・・と思ったのだ。


 きっと甲野も同じことを考えたはずである。

 確かに今日の馬杉は何か・・を持っていた。それは勝ち運だとか勢いとでもいうような曖昧なものだが――それでも、本塁打さえ打たれないような配球を心がければ、俺たちが勝てる場面であった。


 額の汗を拭いながら、ふらつく身体をどうにか誤魔化して移動する馬杉は、見るも痛々しい有様であった。


 敵ながら、この試合は7回で終わりであって欲しいと思った。7回までで1点差で辛勝――でよかった。


 回を追うごとに消耗する彼女と裏腹に、回を追うごとに球筋に目が慣れる打者とでは、条件があまりに違うのだ。






 ◇◇◇






 名二塁手である馬杉の攻略法、それは間接的には「セカンド側に打球を集めない」という方法になるであろう。相手の守備の弱い場所をつつく。バットコントロールを駆使して、守備の強いところに打球を飛ばさないというやり方。


 しかし、今後相手になる全国の強豪相手にそれは通用しない。

 馬杉や羽谷妹並みに優れた反射神経をもつ傑物はいないにせよ、今後、二遊間が弱いチームを期待するのは間違っている。

 守備の弱点を突くという方法はあながち間違っていないが、弱点をそのままにしている高校なんてそうそうないのだ。

 ゆえにこの段階で「セカンドに打球を集めない」というやり方は覚えなくていい。


 一見して無策とも思われる正面突破。

 これが一番、チームの成長を促す方法であった。


(鋭い打球で馬杉の横を抜くんだ。彼女ほどの守備の名手を抜くことができれば、その経験は、並大抵の守備に負けないという強い自信につながる)


 馬杉を正面から攻略するには、アウトコース低めをおっつけて流すのでは不十分である。

 後ろ足に体重を残したままボールを引きつけて打つ"おっつけ"ではなく、振り切るスイングでしっかりとインパクトすることが求められる。

 難しいコースでも打球速度を落としてはならないのだ。


 アウトコースで強い打球を打つためには、下半身の粘りが必要となる。


 一般にバッティングの際は、腰や下半身の回転が必要となるが、アウトコースを捉えようとして腰が早く回転しすぎたり、膝が伸び切っていたりすると、力が上手く伝わらなくなる。外角低めが手打ちになりがちなのはこれが原因の一つである。

 ただでさえアウトコースは遠いため、膝を伸ばして遠くまでバットを届かせようとする意識が働いてしまうが、力強いインパクトを実現するためには、これを我慢しなくてはならない。


 下半身で粘って、打つ瞬間に身体が伸びあがらないよう抑制することが求められるのだ――。


(とか言ってる傍から、俺が馬杉に取られてたら意味ないんだけどな!)


 先頭打者、俺の渾身の一打。


 力強い当たりでいかにもセカンドを抜けそうな打球。

 だが、このようなライナーでも飛びついて処理できるのが、馬杉が名手たるゆえん。

「嘘だろ」と思わず声が出る。

 セカンドが飛びつける場所に打った俺が悪い、みたいに言われては困る。普通は飛びつけない。仮に内野手の半径2メートル以内にライナーが飛んだとしても、打球にはスライスなりドライブなり回転がかかるもので、その2メートルにきちんと一歩踏み込んで飛びついて捕球する奴の方がまともじゃないのだ。


 だが、次の打者の森近が、右中間を割る鋭いヒットを放った。

 三塁も狙えそうな強烈な当たりだったが、無理せずツーベースで待機。1アウト2塁。十分に追加点を狙えるチャンス。


 ――あの馬杉が、飛びつけなかった。


 これを綻びと言っては極端だが、試合序盤の彼女であればアウトに取っていたかもしれない。しかし馬杉は動かなかった。

 もう、動けなかったのだろう。


(こうなったらもう、相手バッテリーは緒方と甲野を絶対に敬遠せざるを得ないはず)


 予想通り、緒方と甲野が敬遠され、そのまますんなり1アウト満塁に移行する。

 迎える6番目の打者に注目が集まる。2アウト1塁2塁と1アウト満塁は雲泥の差。内野ゴロに仕留めれば確実に終わるのと、ダブルプレーがないと終わらないのとでは守る難易度が違う。加えて犠牲フライもある。長打が許されない。


 すわ代打が出るか、と緊張が場を包んだ。ときめき学園には、左打者だが代打の名手が一人いる。

 立ったり座ったりうろちょろ忙しない縦ドリルの少女が、先生にやんわりと注意されていた。


 しかしときめき学園ベンチの采配は、代打出さずこのままである。

 それでいい、と俺は思った。


 6番打者の彼女はこの試合、3打席で3回凡退、3の0である。しかし3つともいずれも進塁打や犠飛であり、打点に貢献しているのだ。


 打ち抜いてしまえ――と俺は内心で思った。

 相手のまやかしはもう通用しない。


 アウトコース低めいっぱい。

 この審判はやや癖が強い。変化球の外角低めには厳しいが、真っ直ぐに決まった外角低めには甘い傾向があった。

 綺麗に決まるアウトローのストレートが好きなのだろう。確かに外角低めのストレートは野球の醍醐味と言ってもいい。

 だがそのせいで、軟投派の多いときめき学園は非常に苦労した。


 我がときめき学園のことをよく思っていない可能性もある。

 強豪リトル出身の有望株を県内外問わずにかき集めている裕福金満チームと思われている節がある。そうでなくとも、展開的にも点差的にも優勢なのだから、ときめき学園側にやや辛い裁定を付けて少しでも試合を平等・・にしたいのかもしれない。

 ここまでの馬杉の健気な献身も相まって、確かに「鹿鳴館杜山を勝たせてあげたい」と思っても仕方がない状況がいくつも揃っている。


 それでも、プロ野球なら確実にボール宣告になるこの癖の強いコースを――見逃すのではなく叩きに行くのだ。

 踏み込みを10cmも深くすれば、それは全然違うスイングになる。脇が開きミートポイントが遠くなった分、力の入り方は全然変わってくる。

 たった四打席、ファールの打球を合わせてもバットへのコンタクト回数が片手の指にも満たないような、そのわずかな機会の当て感だけで――それを合わせに行く。


(たとえ我がチームに少々厳しい裁定でも、たとえいつもの練習と違うようなストライクゾーンの取り方をされたとしても、また、たとえ打球を相手の守備の強い場所に集められてしまったとしても――基本に忠実にそれを乗り越えに行くんだ)






 インパクトの音は、極めてクリアだった。


 ドアスイングとは、両手が伸び切ってバットが身体から離れすぎているスイング軌道のことである。このようなスイングだと、バットは遠くまで届くかもしれないが、パワーがほとんど伝わらなくなってしまう。アウトコース、特にアウトコース低めは身体から遠いため、ドアスイングにならないようにインサイドアウトを意識する必要がある。

 正しいイメージは、バットの遠心力を使って飛距離を出すようなスイング。


 普段の練習で狙うよりも10cm近く遠い、本来ならばボール球になるようなミートポイント。


 そこを力いっぱい振り抜かれたスイング。


 弾ける白球。

 叫ぶ声。


 スローモーションになったように、切り抜かれて引き延ばされる時間。


 二塁手は。

 打球に反応していた。






 ――捕球、送球、ダブルプレー、盗塁阻止、牽制、中継、外野手への球種の伝達、ピッチャーへの声がけ、ベースカバーとバックアッププレイ(カバーリング)。

 これらは全て、二塁手がやらなくてはいけない仕事である。


 その上で馬杉が任されている守備範囲は非常に広い。打球がセカンド側に飛ぶたびに、馬杉は広いフィールド上を走り回る必要がある。

 加えて、試合が進むにつれてグラウンドが荒れてイレギュラーを起こすゴロ打球さえも、確実に捕球しなくてはいけない。


 そのイレギュラーは、飛びついた馬杉の予想より少し高かった。

 グラブを弾いた打球。

 足を取られながら再び齧りつく馬杉。


 立て直しは――許されない。


(……ああ)


 内心で嘆息した。

 あまりの辛さに見ていられなかった。

 敵ながら、指先をすり抜けるあのぞっとする感覚はよく分かる。


 ――あれを拾っていれば・・・・・・・・・


 だが現実はそうはならない。

 ただのセカンドゴロではなく、インパクトの乗った強いセカンドライナーの打球だったからこそ、馬杉にも拾えない会心の当たりになったのだ。






 2点のタイムリー。3-6と突き放されるスコア。

 爆発する歓声。1アウト2塁3塁。


(……いい、当たりだったな。最高だ。最高の勝ち方だ。悪いが勝たせてもらったぞ、馬杉)


 勝敗は、この時ついたともいえるし、もうすでに付いていたとも言える。

 8回表で馬杉が本塁に帰れず同点に追いつき損ねた時点で、実質的な勝敗はついていた。打撃陣が外角低めの球筋を捉えきった7回終了時点で、もはや勝ちは決まっていた。

 戦いの主導権はこちらにあった。


 あえて言うならば、真正面から馬杉が負けたこの一打が、とどめだったかもしれない。

 打撃陣を抑え込んでいた最後の分厚い砦。それを真正面から打ち負かした一瞬。


 振り返ればこの試合は確かに、最初から最後まで馬杉の試合であった。


 無論、鹿鳴館杜山の質の高さを無視して、個人技だけの試合だったとするのは流石に極論ではあったが――冴えわたる個人技が県下最強を脅かす、才気煥発なる渾身の試合であったともいえる。






 最終得点は、3-7。

 死闘を制した勝者は――ときめき学園。

 

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