第20話 再戦・晄白水学園、そして監督⑧:安いプライド
(……我ながら、安いプライドだにゃ)
晄白水学園の若きエース、津島やまねは、かつてないほどの疲れを覚えていた。
シュートの多投は肘に悪いと言われているが、津島のそれは無理に腕を内旋させるものではない。それゆえに肘にもさほど負担はかかっておらず、今まで長いイニングを任せられてきていた。肘や肩に痛みも違和感もない。
この疲れは、単純に消耗によるもの。
真夏の日差しと、気の抜けない緊迫した勝負が、彼女の神経を削っていた。
リリース時に人差し指に力を入れて(中指~薬指側に力が入らないようにして)操るツーシーム・ファストボール。
――彼女の持ち球であり、鷹茉監督と共に磨いてきた決め球でもある。
シュート回転のボールが打たれやすいと言われるのは、勝負に行ったアウトコースのボールが真中に入るなどの弊害があるため。しかしそれは、制球が定まってれば解決する問題である。
球速がいまいち足りないピッチャーの生命線は制球。そしてそれが、ここにきて少しずつ狂い始めていた。
『へえ、面白いフォームで投げるんだな。君は身体の開きが遅いから、球の出所が分かりにくいんだ。随分と打ち返しにくいな』
津島は努力家だった。
ナチュラルシュートになる癖は、投げる腕と反対側の肩が開くのが早いから――そう言われてきたから、身体が開くのをなるべく遅くするよう努力を続けた。
それでもなお、この癖球は直らなかった。
汚い球筋だと罵られた。そんな汚い球筋だから球が浮かび上がらず、三振を取れないのだと嫌味を吐かれた。
危ない場面になったとき、自力で三振をもぎ取る力のない投手ごときではエースになれない、と叱責された。
投手の道を諦めようとさえ思っていた。
鷹茉監督に出会うまでは。
『無理なことをしようとしなくていい。できることをすればいい。シュート気味になるのはお前の持ち味だよ、津島』
元々、六大学野球で活躍していたという鷹茉監督は、プロ入りせずに教員になった経歴をもつ女性だった。
本人は半ば恥ずかしそうに『公立の教員採用試験に受かる自信がなかったから私立高校の教員になったのだ』と言っていたが――おかげで晄白水学園はいい監督に恵まれた。
六大学はいずれも教職課程のある大学であり、単位取得と教育実習さえすれば、一種免許状の取得ができる。それができる地頭があるのだから、公立の教員採用試験ぐらい頑張れば何とかなる。きっと鷹茉監督は、『六大学野球でも活躍していた凄い人』だと思われるのが恥ずかしかったのだろう。
津島は鷹茉監督のことを深く尊敬していた。
野球に関することであれば、何を聞いてもすぐに答えてくれるからであった。
『津島も私と同じで、シュートピッチャーなんだな。私が六大学野球で活躍したときはこの握りで投げていた。どれ、津島もやってみるかい?』
踏み込みはこうすればいいのではないか。
リリース時に手首が寝ているから、すっぽ抜けやすいのではないか。
私が対戦していて嫌だったのはこういう投手だ。
私が対戦していて嫌だったのはこういう打者だ。
鷹茉監督は、ついぞ夏の甲子園には出場したことはなかったものの、春の選抜に出場したこともある優れた投手であった。その経験から語られる野球の技術論は、その辺にたむろしている野球に詳しくない監督なんかを遥かに凌駕するものだった。
生きた野球を知っている、貴重な監督であった。
『……星上くんはすごいな、若いのにこんなに真剣に練習に打ち込んでいるなんて。男だという埋めがたいハンデがあるのに、腐らないで努力している』
鷹茉監督は、時々遠い目をすることがある。
私も彼ぐらい真面目に打ち込んでいればプロになれただろうか――と、選ばなかった人生に思いを馳せるようなことを何度か口にしていた。かたや私立高校の野球部監督。かたや邦洲国のプロ野球選手。
もちろん、その度に彼女は『ま、後悔はしていないがね』と付け加えていた。
その時の鷹茉監督の表情を、津島ははっきり覚えている。
今の人生を悔やんでいないことは明白だった。今の人生に満足していることも分かった。だが――プロ野球選手という輝きは、とてつもなく眩しいもので、憧れがどこかに残っていても何らおかしくはなかった。
いつかこういう大人になりたいと、そう憧れた人がたまに見る、"より遠い憧れの世界"に胸がざわめいた。
(『連中に見せつけてやれ。お前がエースだとな』――でしたにゃあ、監督。もちろん見せつけますにゃ、思う存分に)
ときめき学園は、たった五人の天才たちの登場で、一気に変わってしまった高校である。
それまでは何てこともない弱小校だったのに、いつの間にか全国的に名前の知れ渡っている強豪校になってしまった。
その五人のうち四人は、もはや確実にプロ入りすることが見えている、将来がほぼ約束されているような四人であった。人々が憧れてやまないスターダムに簡単に登り詰めるような、輝かしい才能の持ち主であった。
彼らは全員、本物であった。
本来なら、全く手の届かない存在であった。
(野球はどうしてもどこかに
――だったらこのまま押し切らせてくれよ、と。
津島やまねは、一球ごとに思いを込める。
華やかな世界で輝く才能も本物だが、名もなき人生の中にある確かな質感のこもった時間だって、偽物ではない。
強くなろうと練習した。それを今出しきるだけ。
(こんなクソ暑い中で、必死こいてのめり込んでしまうなんて、まるっきりダメな競技だにゃ)
監督になってよかった、と心の底から思ってもらえるような試合を。監督にならないときっと味わえない、また異なる思い出を。
どうしようもないぐらい才能がかけ離れている天才たちに、『津島やまねのできること』しか持っていない自分の精一杯を。
――9回表。5-3。
追加で1点をもぎ取られての140球。
つくづく、どうしようもない競技である。証拠に涙が止まらない。まるで人生のように泥臭く、一筋縄ではいかない。
安いプライドを背負ったやつが、エースの看板をはってもいい。そういう競技なのだ。
◇◇◇
【頑張れ】近江県高校野球スレ117【湖国球児】
883:やきうのお姉さん@名無し
9回表終了時点 5-3
うおおおおお
すげーいい勝負してる
884:やきうのお姉さん@名無し
ハラハラするわ
全然安心できへん
885:やきうのお姉さん@名無し
ぐう熱い
886:やきうのお姉さん@名無し
振り返ってみたら両者そこそこ打ち込まれてるな
887:やきうのお姉さん@名無し
ここでホッシout 緒方in
888:やきうのお姉さん@名無し
ホッシ……
889:やきうのお姉さん@名無し
星上はツーラン打たれちゃったからね
しゃーない
890:やきうのお姉さん@名無し
クローザーの風格出てきたな緒方
891:やきうのお姉さん@名無し
晄白水学園がここから勝つ方法ある?
◇◇◇
9回裏、得点は5-3。
迎える相手打線は6番打者から。
ここからは、緒方の仕事である。
星上を引っ張らない理由は単純明快。速度差が大きい緒方をぶつけることで、代打攻勢を強要しているのだ。
(
最後の夏の思い出を三年生に作らせてあげたい。
そういった側面もあるであろう。今回のような場面だと特に、直前の投手との速度差が気になって、多少打撃力が劣る控え部員でも代打に回してしまいがちである。
しかも劣勢であるため、相手は強振狙いの傾向が出る。
そこに公式戦初登板の緒方が出ることで、大きな効果があるのだ。期待されているのはただ一つ。
(この采配は、公式戦でまだ見せていないパワーカーブで仕留めろ、ということだ――)
せっかく強振狙いの相手を引っかける球種があるのだから、それでとどめを刺せという明確な意志。次の試合までに一旦、試合の感覚を思い出させるという意味もあるだろう。
先頭打席。
予想通り、代打の三年生が送られてくる。
内角攻めを警戒しているのか、かなりホームベース寄りに立って身を乗り出している。内角に投げにくくさせるための戦法。
だが、こういうスタンスを取る手合いは、大抵が内角を捌くのに苦手意識を持っている場合が多い。内角を投げにくくさせているのがその証拠である。
なのでセオリーでは、内角を狙うことが多い。
(まずは球速で押す)
1年捕手の蜜石は、初球は慎重にアウトローを注文。ボール1つ分外したところにミットを構えている。
緒方としては特に文句はない。低めの制球が決まるかどうかで調子を図りたいのだろう。
1球目はさほど低くならず1球分甘い場所に抜けた。だが球速があるので悪くない。相手も思わずバットを出して振ってきた。真っすぐを狙っていたのだろう。
結果は空振りのストライク。
(外角が見えてねえな。それと、ぱっと見たところスイングがボールの下を空振りしてやがる。ホップ量についていけてねえと見た)
再びのサイン交換。蜜石も相手のスイングのズレから何かを感じ取ったのか、再びストレートを注文。
ただし今度はインローに。目付を左右に揺さぶりつつ、凡打に仕留める意図のリードであろう。ストレートを二球外→内に投げたので最後に外角あたりに変化球がある――と匂わせる効果もある。
外角低めにしなかったのは、今度は高さを調整されてバットに当てられる可能性があるから。空振りは空振りでも、ストレートに対応できてないと安易に考えない、慎重な探り方である。
2球目、インロー狙いのストレート。やや球が浮いてベルトの高さより少し低いぐらいになったが、これはバットを掠めてファールになった。
たった2球でタイミングが合うのは普通ではない。もしかするとこれは、速球対策をやりこんでいる可能性がある。
とはいえ結果、これで2ストライクに追い詰めた。投手有利のカウントである。
(……。3球目もインローの同じ場所にパワーカーブか。星上や森近が好きそうな配球だな)
良くありがちなリードは、ここで一つインハイに見せ球のストレートを挟んでアウトローにカーブ、という決め方。見えていない外角に決め球を放り込むというやり方である。
だが星上曰く、インハイへの見せ球はあまり効果が高くないらしい。それならばいっそ、インハイのきっちりストライクゾーンにストレートの三球勝負をしろと言うに違いない。そして星上は、裏をかいて二球連続同じ場所に投げるリードを好む。この場合はインローである。
緒方にとっても三球勝負は望むところであった。
注文通りに3球目にパワーカーブ。
相手は思いっきり振ってきたが、ピッチャーゴロになりアウト。
初めての球種を前にしてか、相手のベンチが俄かに動揺しだした。
「タイム!」
咄嗟にタイムを取ってくるあたり、向こうの監督は最後の悪あがきのやり方も分かっている。
だが所詮は悪あがき。初見の球がそう易々と打てるはずがない。
(……。あんまりいい予感はしねえな。速球対策されている気配がする)
二打席目。
こちらも予想通り、代打が打席に立った。だが顔付きは非常に険しい。かなりの重圧を感じていることであろう。
前打者同様にホームベース寄りに立って身を乗り出している。内角を投げにくくしつつ、外角に手が届きやすくなる構え。だがしかし。
(……誘いだろうな。一回タイムが入ったということは、狙い球が変わっていてもおかしくねえ。内角に投げさせるのを狙っている可能性があるな)
見るべきポイントは、バットを長めに握ろうとせず、中ぐらいの長さにしているところ。
これがもし長めに持っているのであれば、もはや内角は捨てており、外角の長打一発に賭けているという一貫性がある(それでも随分怪しい)が、バットの握りを中ぐらいにしたということはミートを捨てきれていない証拠。
むしろ本音を言えば、もっとバットを短く握りたかったところを、ブラフのために精一杯頑張っているのかもしれない。
(……。オレには分からねえや。星上みたいに化け物じみた洞察力があれば分かるんだろうけどよ)
ミートを捨てていないということは、空振り三振を狙う球ではなく凡打に仕留める球が理想的ということ。
今のところ緒方が使えるものでは、シュートとパワーカーブがそれにあたる。狙うべき場所はインローで、変化球がよさそうである。内角高めは狙われている可能性があるし、ホームベース寄りに立たれている以上、打者との距離を活かした外角低めもそれほど有効に機能しない。
(ますはシュートから――)
1球目。
この1球がまずかった。
狙い澄ましたように叩いてきたその一打は、詰まりながらも三塁手を超えた。
(……読まれていた? 慎重に考えたはずの配球だったが……)
もしや、投げてほしい場所に投げさせられたのか――と緒方は怪訝な顔つきになった。
最後まで気の抜けない戦い。この一打さえも、向こうの監督の読み通りなのであれば――この最終イニングは相当難しいものになる。
最後の悪あがき。しかしそれこそが、一番侮れない。
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