第195話 『 八雲晴 』

「八雲晴さん。……ん? その名前ってどこかで」


 男性――晴さんの名乗りに、水野さんは何か不審な点があったのか怪訝に眉をひそめる。

 数秒思案したあと、水野さんは「ハッ⁉」と目を大きく見開いて、


「帆織くんにオススメされたラノベの何冊かに、著作者と同じ名前があった気がする……」


 流石は水野さん。読みが鋭い。

 僕と晴さんは目配せすると、こくりと頷き、


「うん。そうなんだ。彼こそが作家の『ハル』さんだよ」

「うえ⁉」


 暗黙の了承を得て晴さんの正体を告げれば、水野さんは驚愕に目を剥いた。


「な、え、うえええ⁉ ハルってあの、何度も『このラノベがすごい!』で受賞してる作家だよね⁉」

「うん。凄いよね」

「なんでそんな大物と知り合いなのさキミ⁉」

「晴さんここの常連だから。それに美月さんもここで働いてるし……」

「彼がラノベ好きなら知り合うのは必然というわけだよ」


 ねー、とお互い微笑み合う。


 連絡先を交換する仲ではないものの、晴さんがこうしてたまに喫茶chiffonに足を運んだ時には新作の感想だったりおススメのラノベを聞いたりする間柄だった。


 僕と晴さんの関係をざっと説明すると、水野さんは何か違和感を覚えたように眉根を寄せた。


「ん? ちょっと待って。なんでその話にさっきの女性の名前まで出てくるんだ?」

「それは……」

「なんだ。もう妻と会ったのか」

「妻⁉」


 僕が答えようか躊躇っている間に晴さんが目をわずかに見開いた。

 僕は説明を求めてくる水野さんに苦笑を浮かべると、


「うん。さっき僕たちの前に来た美月さんが、晴さんの奥さんなんだ」

「そうなの⁉ ……ケホケホッ!」


 衝撃の事実の連続にむせてしまった水野さん。僕は急いで水が注がれたコップを渡すと、水野さんはこくこくと喉を鳴らしながら一気に水を飲んだ。

 それからふぅ、と息を吐くと、


「美男美女夫婦とかなにそれ。事実は小説より奇なりってこと?」


 唖然とする水野さんの言葉に僕も「ずるいよね」と共感。しかもあんな美女との出会いもこれまた小説みたいだから余計に羨ましい。


 ひとまず混乱している水野さんを落ち着かせている間に、晴さんがウェイトレスを呼んでブラックコーヒーを注文していた。


「美月が美人なのは認めるけど、俺はどこにでもいる一般男性だよ。むしろ、彼女はこんな俺なんかとよく結婚してくれたものだ」


 それに感謝は尽きない、と晴さんは届いたブラックコーヒーを口に運びながら微笑みを浮かべていた。照れもなくそういうことを言えるのが大人の男性だよな、と感銘を受けずにはいられなかった。


 ここにもまた一人見習うべき男性がいて、僕は人知れず頑張らないと、とやる気を漲らせる。僕もアマガミさんに感謝は尽きないからね。


「さてと、俺の話はここまでにしてそろそろ本題に入ろう」

「そうですね。晴さんのお時間をあまり頂くのも悪いですし」

「それに関しては気にしなくていいよ。未来ある若者に微力だが助言できる機会は妻のご機嫌を窺うよりはるかに気分がいいからね」

「それ美月さんに聞かれたら絶対機嫌悪くなりますよ」

「聞かれなければどうということはない」


 某ガン〇ムに出てくるシャアの台詞に則って場の空気を和ませてみせる晴さんに僕は思わず苦笑。聞かれたら本当にヤバいのは晴さんなのにすごい度胸だ。まぁ、美月さんが今バックヤードにいることを確信しているからこそ言ったのだろう。


 そうして晴さんに促され、僕らの――ではなく、水野さんの相談が本格的に始まろうとしていた。


「すぅ。すぅ」

「緊張しないでいい。キミの悩みは帆織くんから概ね聞いて確認しているから」

「そう、ですか」

「自分の想いを言葉にする価値は、今のキミならもう分かるだろう?」

「――っ」


 意味深なことを呟いた晴さんに、水野さんがはっと息を飲んだのが分かった。


 僕も晴さんのその言葉の意味を何となく理解しながら、静かに水野さんが口を開くのを待つ。


 水野さんは一度瞼を閉じると、覚悟を決めたように紺碧の瞳をそっと開いて、


「私が、今日晴さんに相談したいことは――小説を投稿した方がいいか否か、です」

「――――」


 遂に胸の内を吐露した水野さんに、晴さんは静かにその覚悟を受け取ると、


「……まず。キミの気持ちを確認したい。キミはどうしたいんだい?」

「私は……」


 コーヒーを含みながら問いかけた晴さんに、水野さんがテーブルの下でぎゅっと拳を握った。


「私は、やってみたいと思ってます」

「うん。何事にも挑戦は大事だ」


 強い眦で答えた水野さんに、晴さんは柔和な笑みを浮かべた。


「やりたいこと、やってみたいこと。目標は具体的であればあるほど実現性が増すというやつさ。今日のキミの覚悟が、どんな未来にも背中を押してくれる日は必ずやって来てくれる」

「「……かっこいい!」」

「はは。ちょっとカッコつけすぎたかな」


 晴さんの言葉に感銘を受ける僕と水野さん。言い回しが正に小説家といった感じで、この時点で彼が天上の存在だと思い知らされた気分だった。


「まぁ、相談してもらった手前こういうのも無粋だとは思うけどね。結局のところ、何かに挑戦するのは本人の意思次第だよ。その点でいえば、もうキミは既に覚悟を決めている眦をしている」


 不安だったよね、と口許を緩めながら言った晴さんに、水野さんは静かに頷いた。


 そうだ。水野さんがこれからやろうとすることは、一人で向き合わなければいけない課題なのだ。僕や海斗くんが支えると約束しても、戦うのは水野さん一人で。


「晴さんもネット小説出身の作家ですよね?」

「そうだね。まぁ、もう十年以上前になるけど」

 それでもオファーされた日は今でも昨日のように思い出せると、黒瞳が憧憬に浸るように細くなった。

「夢があるよねー」

「そりゃたしかに夢はあるけど、でも私なんかの作品がオファーなんて来るわけないよ」


 と弱気な発言を吐いた水野さんを否定したのは意外なことに晴さんだった。


「いやそうでもないよ。キミの作品を読ませてもらったけど、率直いって面白かった」

「え⁉ 私の書いたやつ読んだんですか⁉」

「うん。帆織くんに相談された時についでにデータを送ってもらった」

「なんてことしてくれたんだキミは⁉」


 キッと水野さんに睨まれて、慌てて「ごめん!」と謝罪する僕。


「でも相談するからにはどうしても一度晴さんに水野さんの書いた小説を読んでもらって欲しくて」

「だからってなんでプロ相手に初心者が書いた小説見せた⁉」


 恥ずかしくて死んじゃいそうだよ⁉ と涙目になる水野さん。


 今にもテーブルの下に蹲りそうな形相の水野さんを制止したのは、こんな状況にも関わらず呑気にコーヒーを飲んでいる晴さんだった。


「キミの心情もよく分かるよ。他人に自分の小説をみせるって想像以上に緊張するよね」

「……うぅ」

「でもそう悲観することはないよ。さっきも言った通り、キミの書いた物語は面白かった。たしかに粗削りな部分もあるし間違った文法もあった。けれど、人に訴えかけるには十分な内容だったと俺は思うよ」

「ほ、本当ですか?」

「あぁ。俺は嘘は吐かない。嫌いだからね」


 力強く肯定した晴さんに、水野さんはぱちぱちと目を瞬かせて、浮いていた腰が力が抜けたようにストンと落ちた。


 プロにそんな評価を貰えるということは、きっと当事者ではない僕には想像もできないほど嬉しいことなのだろう。


「まぁ、これをネットに上げるってなったら全然読まれないと思うけどね」

「うええ⁉」


 あっけらかんとした顔で唐突に残酷な現実を突きつけてきた晴さんに、水野さんは今まで聞いたこともない素っ頓狂な声を上げた。


「いやでも! 晴さん今面白いって!」

「うん。たしかに言った。けれどそれは全体を通して読んだ感想であって、一話毎として読んだ感想ではない。これを一気に投稿するとなったらそうだな……一生三桁にはならないかな」

「カハッ!」

「しっかりして水野さん⁉」


 ついに口から血を吐いて倒れる水野さん。

 瀕死の水野さんの肩を揺さぶる僕を見ながら、晴さんはくつくつと笑う。


「まぁ、今言ったのは単なる推測で、実際どうなるかなんて試してみなきゃなにもならない。ネットに小説を投稿して数多の人に読んでもらえるなんて、極論をいってしまえば『運』か『奇跡』でしかないんだ。俺たちはその『奇跡』を限りなく現実にさせるために策を練り、工夫を施し、作品と向き合うんだ」

「――――」


 少し声音を落とした……真剣さを帯びた声音に、水野さんがゆっくりと顔を上げた。


「俺がキミにいえることは一つ。可能性とチャンスを掴むのはいつだって他人ではなくキミ自身だ。――もしキミが、俺の今の話を聞いて本気で自分の書いた物語を他人にみせようとするなら、俺がこれまで積み上げてきた経験の全てを教えてあげるよ」


 その提案はきっと、水野さんの胸裏にある『小さな覚悟』を垣間見たからだろう。あるいは、ただ単に人の可能性に興味が湧いただけかもしれない。


 僕は晴さんのことを詳しく知っている訳じゃない。でも、これだけは知ってる。


 この人はいつも小説のことばかり考えていて、そして自分の創る物語の為にあらゆる手段を使ってアイディアを生み出そうとしている。


 きっと、そんな部分が水野さんの覚悟に共鳴したんだろう――彼女の経験を自分の小説に活かせるかもしれない、と。


 たぶん、今日のこの相談に乗ってくれたのも大部分がそれなんだろうな。


「……もし、晴さ――ハル先生にご教授いただいて、それで結果が出なかったら……」

「それもまた一つの結果だよ。キミが俺たちの世界をどんな風に見ているかは分からない。けれど、誰かから知恵を授けてもらった程度で上手くいく業界じゃない」


 この世界はキミたちが思っているよりずっと過酷だよ、と微笑を浮かべながら業界の残酷さを語る晴さん。


「俺がキミにこれまでの経験を開示して構わないと思ったのは、ある種期待しているからなんだ。俺たちって普段家に引きこもって書いてることの方が多いから、あまり人と関わる機会がなくてね。キミのような学生の作家も出版社にいるはいけど、俺が怖いのかあまり話しかけてくれないんだよ」

「たしかに只ならぬオーラは感じます」

「そうかな? 妻からはいつも「その死んだ顔ずっと治らないですね」ってよく言われるけど。……まぁ、そういう訳だから。キミのような将来ある若者に関われるほうが俺としては貴重な機会なんだ。若者からしか得られない独特なインスピレーションもあるしね」


 つまりwinn―winnってことだ、と晴さんは何一つ躊躇することもなければ嫌悪感を示すことなく言った。

 それから、晴さんは水野さんのことをジッと見つめて。


「一つ。キミに聞いておきたいことがある」

「な、なんでしょうか?」

「キミは、何のために小説を書くんだ?」


 その問いに、水野さんは数秒沈黙した。

 答えることを躊躇うような、まだ答えが出ていないような、そんな複雑な表情。

 やがてその表情から迷いが消えると、水野さんは揺るぎない双眸で晴さんを見つめて。


「最初は、ただなんとなく興味があっただけでした。自分でも何か書けるんじゃないかってそんな曖昧な気持ちで書き始めて。それを初めて帆織くんにみせて、面白かったって言ってもらえて嬉しかったんです」

「それがキミが本気で書き始めようとしたきっかけ?」

「これはまだ半分です」


 水野さんは一拍間を置いて、


「もう半分は――追いつきたい人がいるんです」

「――――」

「その人は私の為に何もかもを賭して傍にいると誓ってくれて、私なんかの為に変わろうとしてます。そんな彼を見て、自分はこのままでいいのかと思ったんです」

「――――」

「ただ甘えるだけじゃ、何も変わらない。ただ逃げてるだけじゃ、過去は乗り越えられない。ただ願うだけじゃ、いられなくなったんです。だったら無謀でも何でもいい。何か一つ、自分にもできることをやってみようと思ったんです」

「なるほどね」


 水野さんの胸の内を静かに聞き届けていた晴さんは、その胸裏に含まれていた心情を理解したような吐息をついた。


「やっぱり不純でしょうか」

「いや、子どもらしからぬ、学生ならぬ素晴らしい答えだった。少なくとも小説を書き始めた俺の時よりずっとマシな考えだよ」


 晴さんが笑うと、先程まで真剣さを帯びていた空気がいくらか朗らかになった。水野さんも胸の内を曝け出したのか安堵した表情で、強張っていた頬もいつの間にか元に戻っていた。


「よし。キミの覚悟は受け取った。俺としてはその想いに応えたいと思っている。何なら俺のコネを使って直接編集者に合わせたいくらいだけど……」

「その、それはまだ流石に、勇気が出ないというか、怖いです」

「あはは。だよね。俺も初めて編集者と会った時は緊張したよ」


 それから晴さんは一息つくと、


「さて、これが最後の質問だ。キミは、俺から指導を受ける気はあるかな?」


 なければそれでいいよ、と気さくに言った晴さん。それに、水野さんは静かに、けれどしかしこれまで僕が見たこともない真剣な表情で頷き、


「――はい。私に、小説の書き方を教えてください」


 深々と頭を下げた水野さん。それに、晴さんは愉快げに口許を綻ばせると、


「うん。喜んで教えてあげるよ」


 そう、未来ある若者の懇願に大人の余裕と少しの少年心をみせて応じたのだった。


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