第194話 『 八雲美月 』

 ――木曜日。


「いらっしゃ……おや、智景くん」

「こんにちは。マスター」


 面会人の関係者さんから連絡をもらい、僕と水野さんはとある喫茶店に訪れていた。


 その喫茶店の名前は喫茶・chiffonシフォン。ここは僕の馴染みの場所でもあり、そしてバイト先でもあった。


「今日はお客さんとして来たのかな?」

「はい。友達と一緒に」


 ダークブラウンの短髪をオールバックにしているのが特徴的なマスターに聞かれ、僕はこくりと頷く。それから、


「すいません、マスター。今日は美月みつきさん出勤してますよね?」

「うん。今日は出勤してるね。今はキッチンにいるけど、美月ちゃんに何か用があるのかな?」

「はい。美月さんにはるさんがいつ頃いらっしゃってくれるかお尋ねしたくて」

「今日は晴くんが来るのか。ふふ、ここ最近彼の顔を見れていないから、元気にしているか私も気になっていたんだよ」


 それは嬉しいことだ、と口許を緩めるマスターはふと僕の後ろに隠れている水野さんに気付き、


「おっとすまない。お客さんを席に案内させず待たせてしまったね」

「あ、え、ええと。わ、私のことをお気遣いなく……」


 水野さんはマスターに声を掛けられるとさらに僕の背に隠れた。緊張というより人と関わるのが苦手と分かる態度に、思わず僕も苦笑。


「マスター。今日はお客さん引いてるみたいだし、好きな場所に座ってもいいですか?」

「あぁ。構わないよ。それに晴くんも来るんだろう。何なら彼のお気に入りの席を取っておいてあげなさい」

「ふふ。分かりました」


 マスターから許可と一礼を受け取ると、僕は緊張して動きがどこかぎこちない水野さんを連れて窓際の席に移動した。


「ふぅ」


 席に座った水野さんが長めの息を吐いた。容姿は変わったとはいえ、中身は相変わらず人見知りな少女のままで安堵した僕がいた。


「もう疲れちゃった?」

「もうっ。揶揄わないでよ」

「あはは。ごめんごめん。水野さんが変わってなくてちょっと安心したんだ」

「なにそれ。私は何も変わっていないよ。以前と変わらず、人付き合いに興味がない捻くれた女さ」


 自嘲気味に言う水野さんに苦笑しつつメニューを二人で見ながら雑談していると、

「失礼します」


 銀鈴の鈴が鳴ったような声音にまず水野さんが反応して、やや遅れて僕も振り返る。


 上げた目線。その先に立っていたのは、息を飲むほどの美女が女神のような微笑みを浮かべていた。


 背中まで伸びる艶やかな黒髪。端正な顔立ちには妖艶さと愛らしさが絶妙に混ざり合っていて、禁断の果実のような魅了があった。

 瞳の色は黒よりも淡く紫よりも鮮やかな紫紺。すっと薄く引かれた口紅には、大人の色香と安易に近づいてはいけない艶やかさがあった。


 モデルや女優に勝るとも劣らない――否、むしろ秀でていると言っても過言ではない絶世の美女は、確かに僕らの目の前に存在していて。


「美月さん」

「こんにちは。帆織くん」


 何の脈絡もなくしれっと登場した絶世の美女に目を奪われて硬直する水野さんは一旦置いておいて、僕は美月さんと挨拶を交わす。


「今日はキッチンだったんですね」

「うん。お客さんも少ないし、それにマスター、今日はホールの気分だったみたいで。キッチンに灰原くんもいるけど、俺一人は嫌だ! って泣きつかれちゃって」

「あはは。それでキッチンなんですね」


 そうなの、と肩を落とす美月さんは「それで」と継ぐと、


「もうメニューは決まった?」

「まだです」

「そっか。今日はお客さんなんだからゆっくりしていってね。それと帆織くん。さっき晴さから連絡貰ったんだけど、ちょっと会議が押してここには遅れてくるみたい」

「分かりました」

「ごめんね。今日は予定空けるなって散々注意してたのに、あの人結局予定入れちゃって」

「晴さん忙しいから仕方がないですよ。それに、僕の方からお二人に無理言って時間頂いてもらったんですから。いくらでも待ちます」

「ふふ。そういってもらえるとあの人のお世話係として少し溜飲が下がるわ。あ、そうだ。これお詫びといってはなんだけど、カプチーノ。良かったら飲んで」

「わぁ! ありがとうございます!」

「それじゃあ私はキッチンに戻るけど、二人はゆっくりしていってね。そうだ。私ももう少しで上がりだから、その時は今の高校生のお話少し聞かせてね」

「ふふ。喜んで」


 ごゆっくりどうぞ、と洗練された一礼する美月さんに僕は小さく会釈。


 それから後ろ姿も美しい彼女がキッチンに戻っていくのを見届けていると、それでまで硬直していた水野さんがハッと我に返り、


「なにあの美人さん⁉」


 と唐突に素っ頓狂な声を上げた。


「私あんなに綺麗な人と会ったことないよ⁉」

「僕もそうだよー。初めて美月さんのこと見た時女神って本当にいるんだって思ったもん」


 絶世の美女との邂逅に度肝を抜かれた水野さんに僕も同情。僕らの高校にも彌雲先輩や白縫さんといった美少女は存在するが、美月さんは僕の知る女性の中で一番美しいと思える人だった。


「そんな人が身近にいる生活とかどうりで帆織くんが他の女子に目移ろいしないわけだ。あんなの誰も勝てっこないじゃないか!」

「一応説明しておくけど、美月さん既婚者だからね?」

「結婚しているからといって惚れない訳じゃないだろ⁉」

「べつに惚れてないよ? そりゃ、美月さんは綺麗な人だとは思うけど、ただあまりに美しすぎてそれが返って現実に引き戻されるというか、あ、この人と自分が釣り合う訳がないって無理矢理思い知らされるよね」

「だろうね。私が男でも釣り合わないって思わさられるもん。そんな人と結婚できるなんて、その晴さんて人は一体前世でどれ程の徳を積んだのさ」

「興味あるなら聞いてみれば? せっかく今日はその本人に会えるんだし」

「恐れ多くて聞けないよ⁉」


 晴さんも美月さんもいい人なんだけどな。まぁ、晴さんの方はちょっと変わってるけど。


「はぁ。世の中まだまだ知らないことだらけだ。……あ、このカプチーノおいし」

「それ美月さんが用意してくれたやつだよ」

「美人で料理できてコーヒーを淹れるのも得意なの?」


 私の存在価値って、と落ち込む水野さんに思わず苦笑。あの人が特別過ぎるだけで、落ち込む必要はないと思うんだけどな。


「とりあえず気晴らしに何か食べよっか。あ、ここはパンケーキとフレンチトーストがオススメだよ。ケーキはチーズケーキとショコラがオススメ」

「女子が好きそうなメニューだ」

「実際女性のお客さん多いよ。男性客も少なくはないんだけど、その人たちはメニューというよりウェイトレスさんを見る為に足を運んでるみたい」

「言われてみればたしかにここのウェイトレスの制服可愛いね」

「ウェイトレスの制服目的でバイトする人も多いんだよ」

「そうなんだ」

「よかったら水野さんもここでばい――なんでもない」

「私に死ねと?」


 何気なく勧誘しようとするも、水野さんが今までに見たこともない顔で拒絶してきた。

 僕はそれに頬を引きつらせると、瞬時に無謀だと悟りこの話はなかったことにした。


「バイトなんてしたくもない。やるくらいなら死ぬよ」

「どんだけ働きたくないのさ」

「それは誤謬がある。私は働きたくないんじゃない。人前に出るのが嫌いなんだ。しかもあんなキラキラした制服を着るなんて……想像しただけで背中に悪寒が走るよ」


 ぶるりと身震いする水野さん。この人やっぱり何も変わってないなぁ、と安堵と苦笑を同時にこぼす。


 そうして会話を弾ませながらメニューを決めて同僚のウェイトレスさんを呼んで注文。その最中に「カノジョかぁ?」と揶揄われたりして誤解を解くのに必死だったが、その疲れを甘味が癒してくれた。


 二人でケーキを嗜みながら雑談を弾ませることおよそ20分――店内に来客の知らせを告げる鐘が鳴り、そして慌ただしい足音が近づいてきた。


 それに気付いて顔を振り向かせると、水野さんにとってはまだ未知の人物で、しかし僕にとっては既知の人物が荒い息を継ぎながら僕らの前に現れた。


「すまない帆織くん。急に予定が入ってしまって遅れた」


 そう謝罪した男性に、僕はふるふると首を横に振ると、


「いえ。隣にいる彼女とお茶を嗜んでいましたから、気にしないでください」

「高校生に気を遣わせる社会人とか申し訳なくて格好が立たないな。……彼女が例の子かな?」

「はい。ほら、水野さん」

「あ、うん。もしかしてこの人が帆織くんの言ってた人?」

「そうだよ」


 男性が失礼、と一礼入れて僕らの対面に座った。それから水野さんに挨拶を促すと、彼女はぎこちなく頷いて、


「は、初めましてっ。水野琉莉といいます。今日は、よろしくお願いします」

「水野さんか。よろしく」


 男性は朗らかな笑みを浮かべた後、己の胸に手を当てて名乗った。


「俺は――『八雲晴やぐもはる』。どこにでもいるラノベ作家だ」


 その彼――晴さんの名乗りに水野さんは怪訝そうに眉を顰め、彼の実態を知る僕は「嘘つき」と内心で苦笑するのだった。




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