第190話 『 今はまだ、蛹のままだけど 』
――人には誰しも、〝前に進まなければいけない時〟というものが来る。
どんな雨もいつかは止むように。蕾がやがて花開くように。夜がいつかは明けるように。時が永遠に止まることはないように――あらゆる物事に不変はなく、変化を強要する。
それは私だって例外はなくて。
深海で独り彷徨い続ける少女でさえ、見上げた先にある微かな光に羨望し手を伸ばし、掴みたいと足掻くのだ。
いつまでも過去を引きずって殻に閉じ籠るわけにはいかない。
例え優しい温もりが私を守ってくれると誓ってくれても、いつかは殻を突き破って外に触れなければないのだ。
――人には誰しも、〝試練〟という壁に挑まなければない日がやって来る。
それがいつ訪れるかは分からない。今日か、明日か、或いはずっと先の未来か。
今思えば、私はずっとそれから逃げてきた。
私の下から去っていく愛しい少年に「行かないで」と手を伸ばさずに。
恋慕を抱いておきながら傷つくことが怖くてずっとその想いを隠し続け。
そして、今度は痛みから逃げようとしている。
――人には誰しも、〝覚悟〟を研ぐ時がやってくる。
それは〝前へ進むことを決意〟し、訪れた〝試練〟に挑む時だ。
人は痛みを知り、弱さを知り、そしてそれと対峙して初めて、己を知ることができる。
痛みと向き合うのは簡単じゃない。弱さを知るのは屈辱的なことだ。――しかし、それに触れ、受け入れることで、蛹は蝶へと昇華する。
私はまだ、蛹のまま。
蝶になる未来は、まだ当分先な気がする。
でも、私は今、蛹から蝶へと変わる一歩を踏み出す。
彼が一歩を踏み出して新しい自分を見つけにいったように、私は彼に置いて行かれるわけにはいかないのだ。
彼がくれる温もりを望むなら、それは猶更で。
そろそろ過去をなぞるのは止めよう。
そろそろ妄想ではなく未来を見よう。
そして。
そろそろ――この深海から浮上して、綺麗な月を眺めに行こう。
きっとそれは、私に新しい世界を見せてくれるから。
この姿を一番最初に見せるのは、いつも私の為に頑張ってくれた幼馴染にしようと決めていた。
お礼、というわけではない。これから変わろうと、前に進もうとしている自分を見てもらうのに、きっとこれからそんな私の一番身近にいてくれる彼が適任だと思っただけ。
それに、たったこれだけがお礼に値するなんて思わない。
「――行ってきます」
静かに玄関の扉を開けると、冬の凍てついた空気がうなじに当たった。
やっぱりまだ慣れなくてそわそわする。でも、なんだかいつもより景色が開けて見えた気がした。
開けた扉を閉じて振り返れば、門の先にはもう彼が待っていて。
彼はなんだかいつもよりそわそわしている気がした。たかが幼馴染と一緒に登校するだけだというのに、彼は一体何に緊張しているんだろう。
「ふふ」思わず笑みがこぼれた。
いつもは憂鬱な足が、今日はなんだか軽い。羽が生えたみたいというのは流石に誇張しすぎだけど、どこまでも前に進める気分だった。
扉の音に気付いたのだろう。彼が振り返る。
「おはよう。る、り――?」
その顔がぱっと明るくなって、次の瞬間眉間に皺が寄る。ぱちぱちと、まるでアナタは誰ですかとでも言いたげに目を瞬かせて――そして私の幼馴染はようやく向かって来るのが〝私〟だと気付くと、これでもかと目を見開いて。
「おはよう。海斗」
「え、え? ――え⁉」
「どうかな? 似合う?」
わざとらしく訊ねてみて、少し頬を朱に染めながら海斗の反応を楽しむ。
金魚のように口をぱくぱくさせる海斗は、震えた指で私をさして、
「お、おまっ……髪」
「うん。切ったんだ。結構バッサリいった」
海斗の目線の先――そこにはいつもの幼馴染はもういない。
今、彼の目に映るのは、新しい私。
腰まで届いていた黒髪は、今や鎖骨に掛かるほどの長さしかない。
変わったのは髪型程度――けれど、いつもの私に見慣れていた海斗にとってそれは、青天の霹靂とでも言えるほどの大変化で。
「うええええええええええええええええええええええええ⁉」
私の変化を誰よりも最初に見た幼馴染は、衝撃を抑えきれずに朝から近所迷惑なほど大絶叫した。そして、そんな彼の反応を、私は心の底から楽しむ。
こうして、蛹から蝶へと昇華しようとする私を、幼馴染と冷たくも心地よい風が迎えてくれたのだった。
「あはは。海斗、朝から五月蠅いよ」
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