第153話 『 深海。ここからもう一度。キミと 』

「もう私に構わないで」


 琉莉にそう言われた時、覚悟はしていたけどやっぱり胸が締め付けるように痛かった。

 けれど、同時に少しだけほっとした自分がいて。

 あぁ。これが、俺が受けるべき報いなんだなと。


「……嫌だ、って言ったら?」


 問えば、琉莉は無理解を示すように眉根を寄せた。


「どうして海斗はそこまで私に関わろうとするの? もう既にあの約束は反故されて、私たちはただの幼馴染に戻った。それとも今更あの約束を果たそうとでもしてるの?」


 段々と熱が籠っていく声音に、琉莉の表情にも怒りが覗いた。

 当然だろう。勝手に約束を破られ、裏切られ、そしてまた勝手に自分との距離を埋めようとしている――そんな男を目の前にすれば、誰だって怒りを覚えるに違いない。

 クズだと罵られても仕方がない。それが俺が幼馴染にしたことだ。許されざる、俺が受けるべき罰だ。拒否権はない。


「私なんか放っておいて、皆の所に行けばいいでしょ。私は一人でも平気なのに、それなのにどうして、海斗は私を放っておかないの?」

「放っておけるわけないだろ。だって琉莉は、俺の大切な幼馴染なんだ」


 俺の言葉に琉莉は嘲笑する。


「大切? ずっと放っておいたくせに? あの約束を忘れて、私を独りぼっちにしたくせに? それなのに、私が大切なの?」

「……あぁ」


 紺碧の瞳は、その奥に滾る怒りをみせた。

 呆れと諦観。絶望と喪失が、彼女の憤怒が俺に向けられる。


「勝手だよ! 何もかも! 勝手に私の手を離したくせに! ずっと一緒だよって約束したのにっ、なのに私を裏切ったくせに!」


 紺碧の瞳に、感情の奔流が抑えきれずに溢れ出していく。ギリッと強く奥歯を噛む音。今にも目前の男を殺したいような殺意に満ちた表情。

 そうだ。俺は勝手だ。自分勝手だ。

 全部認めよう。罪から逃げるつもりはない。

 あの日、お前の手を離してしまった罰を、俺は生涯かけて贖う。

 だって、今目の前に映る彼女の涙が、俺が犯してしまった罪の重さだから。


「どうせまたどっか行っちゃうくらいなら、最初から優しくなんかしないで」

「もうどこにも行かない」

「嘘だっ!」

「嘘じゃない! だって俺はっ、俺は――」


 疑心に満ちた瞳が俺に注がれる。

 怒りと、怨嗟と、疑心と、憎しみ。その瞳にはわずかな期待さえ覗いてはいなかった。

 きっと信じてはもらえない。

 それでも、俺は伝えるしかなかった。

 一つ。息を継ぎ。疑心に満ちた幼馴染へ、告げた。



「俺は――琉莉のことが好きだから」



「――は?」


 その告白は、琉莉にとって予想外のものだったのだろう。

 この状況で誤魔化すことでも謝罪ででもなく、その対極に位置する恋慕を告げられたことが琉莉には荒唐無稽の出来事だった。

 瞠目する琉莉は、数秒口を震わせた後に呟いた。


「……今、なんて言ったの?」

「好きって言ったんだ」

「誰が? 誰を?」

「俺が。琉莉を」


 琉莉は猶更理解できないと首を振った。


「この状況でっ……ふざけないで!」

「ふざけてなんかねぇよ。ちゃんと真面目に言ってる。俺は、琉莉のことが好きなんだ」


 ずっと胸に秘めていた想いを吐露しているというのに、どうして心臓は高鳴ることなく、締め付けられていく一方なのだろうか。

 幼馴染のことを好きだと思っているのに。なのにどうしてこんなにも、俺の心は彼女に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになのだろうか。

 俯きたい衝動を必死に抑えて、俺はこの二日間を述懐する。


「この文化祭で俺が琉莉を連れ回した理由は二つあるんだ。一つは、琉莉ともう一度距離を縮めたかった。ただの幼馴染だって思われるのが嫌で、一人の男として意識してほしくて、琉莉を連れ回した」

「――――」

「二つ目はな――帆織智景から、琉莉を奪いたかったんだ」

「――っ」


 水野琉莉が帆織智景に惹かれていることを俺は知っている。俺だけが、彼女が決して叶うはずのない恋をしていたことを知っていた。


「何それ。意味が分からない。海斗には関係ないでしょ」

「あぁ。俺はいつだって蚊帳の外だ。中に入ろうとしても、嫌われ者の俺は輪の中に入れてもらえない」


 俺は琉莉の近くにいて、けれど決して内側には入れてもらえなかった。一度彼女を裏切った代償はとても重くて、しかし相応で。俺は彼女がもう一度心を開いてくれることを待った。

 しかし、その時はいつまで経っても訪れない。

 その間にも、彼女は本当に一人の世界に殻籠ってしまいそうだった。

 だから俺は、無理矢理にでもその殻をこじ開けようとした。

 罪を背負ったまま。未だ罪を贖えぬまま。


 傲慢だ。


 でも。


 ……でも。


 ――でも!


 俺は、それでも琉莉を独りにはさせたくなかったんだ!


「一緒にいられないやつとの妄想に耽るくらいなら、俺が傍にいるって気づいて欲しかったんだ。空想智景じゃなく、現実を見て欲しかった」


 もう、琉莉の初恋が叶うことはないだろう。あの強固に築き上げられた絆は、何人も寄せ付けない。恋した少女に淡い夢さえも見させない。


「俺はもう、どこにもいかない。お前が俺のことを嫌うまで傍にいさせて欲しい」

「また勝手なことをっ……海斗なんて要らない!」

「それが本心か?」

「―――っ!」

「それが琉莉の本心なら、俺はもう二度とお前には関わらないよ。これ以上琉莉に嫌われたくないから」


 無知だった頃の約束は、もう既に反故され、白紙と化した。

 大人になった俺たちは、真っ新な関係に戻った。

 唯一の繋がりは、幼馴染という関係だけ。


「琉莉は俺のことを憎む権利がある。それだけのことを俺はしたから。でも、これだけは忘れないで欲しい。俺はずっと琉莉の味方で、琉莉のことが好きだ」

「…………」


 琉莉は何も言ってはくれなかった。


「そっか。分かったよ」


 それを答えだと受け取った俺は、彼女の下から去ろうとした――その、瞬間だった。

 背中を引っ張られる感触が、去ろうとする俺の足を止めた。


「……どこ、行くの」

「どこって……教室に戻るんだよ」


 顔を俯かせる琉莉の問いにぎこちなく答える。


「――ぃで」

「え?」

「いか、ないで」


 震える指先が求める。


「どこにも行かないって。今度こそ私の傍から離れないって言うなら、誓うなら、どこに行かないで私の傍にいて」

「――っ! ……いいのか。お前を傷つけたのに」

「なら、これはお願いじゃなくて命令――海斗が罪を償うまで、ずっと私の傍にいて」


 俯いた顔が上がる。

 その瞳に、懇願と切望を一杯に溜めながら。

 それを見た俺は、ゆっくり彼女へと振り返って、


「手、握っていいか。いや、握らせて欲しい」

「……セクハラ」

「頼むよ。どうしても、琉莉の手を握りながら誓いたいんだ」

「どうしてもって言うなら。いいよ」

「ありがとう」


 数秒の間のあと、琉莉は小さく頷いてくれた。

 さっき俺の服を引っ張って、離れた手。その手を、俺はそっと優しく握った。

 か細く。冷たく。恐怖に震える手。まだ、俺の事を信頼していない手。

 その手に、そして彼女に、今度こそ誓った。


「あぁ。分かったよ。ずっと琉莉の傍にいる。もう、この手を絶対に離さない」

「――うん。もう絶対に、私から離さないで」


 俺たちは、一度離れた。

 けれどここから、もう一度始まる。

 その始まりの一歩が、この繋ぐ手の確かな温もりで――。

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