第152話 『 月下。二人だけの深海』

 学生たちの祭典である文化祭が終わり、クラスメイトたちは軽く片付けをしたあと教室で小さな打ち上げを開いていた。

 そこには智景と天刈の姿も見えた。白縫が大泣きしながら天刈に抱きついて、天刈はそれを本気で嫌そうな顔をしながら白縫を引き剥がそうとする。そんな二人に智景とクラスメイトたちは可笑しそうに笑いながら見守っていた。

 智景も、天刈も、白縫も――皆が幸せそうだった。そこはまさしく、陽だまりと呼ぶに相応しい場所だった。

 本来であれば、俺もそこに交じって皆と笑い合っていただろう。

 でも、もうそんなことはできない。

 皆とは、笑い合えない。

 だってその陽だまりには、俺の大切な人がいないから。

 窓に目を向ければ外は既に薄暗くて、教室の灯りが異様に眩しく見える。まるで、舞台のスポットライトのように。

 そこだけが明るくて、他は真っ暗。今日の主役は皆だから、全員が舞台に上がって拍手喝采を受ける。

 でも、一人だけ、その舞台に上がっていなかった。

 その事に気付いているのは、きっとごくわずかだろう。

 皆、誰もが思い込んでいる。この舞台上には皆いるはずだと。欠けているものなんてないはずだ、と。

 彼女はなんて実に巧妙なんだろうか。

 始まりは確かに舞台上にいた。目立ちこそしないけれど見紛うことなく存在していた。けれどスポットライトが収縮――主役の登場――されていくと同時にこっそりと影に紛れるようにすっと消えた。人々の記憶に印象を残すというアリバイをしっかりと刻みながら陰に紛れたから、誰も彼女がいつの間にか消えたことに気付かない。

 そうやって彼女は世界から消える。誰にも気づかれず知られず、悟られもせず。影となって海へ潜り、そして陽の光が決して届くことない深海へ逃げる。

 そうやって一人で蹲るんだ。

 蹲って、瞳を閉じて、世界を拒む。

 自分に居場所はないと。

 ありはしないから、蹲り、瞳を閉じ、孤独でしかし安寧な世界に居場所を作る。

 そうやって彼女はずっと独りでいる――それも、もう終わらせよう。


「やっと見つけた」

「……海斗」


 見慣れた後ろ姿に声を掛けると、彼女――琉莉は心底不快そうに顔をしかめながら振り向いた。


「いったいどこまで付いてくる気なのさ」

「どこまでも、って言ったらどうする……そんな嫌そうな顔すんなよ⁉」

「それ冗談でも止めて。悪寒と恐怖が止まらなくなるから」


 両肘を抱えながら身震いする琉莉に頬を引きつらせつつ、俺は彼女の隣へと歩み寄った。

 隣に並ぶと、俺は琉莉の顔は見ないまま、


「なんでクラスの打ち上げ途中で抜け出した?」

「海斗なら言わなくても分かるでしょ」

「お前ってやつは本当に何も変わらないな。文化祭を通して少しはクラスメイトと友情を育んだかと思ったのに」

「受付の仕事如きで友情は芽生えないよ。事務的な作業に仲間意識というものは生まれづらいからね」

「だったらお化け役やればよかったのに」

「それこそキャスティングミスだよ。私がお化け役なんてやっても誰も怖がらない。ただそこにぽつんと立っているだけの幽霊なんて装飾と同じでしょ?」

「いや。案外怖いと思うぞ。その場に突っ立ってるだけでも十分不気味だろ」

「それはあれかな。私が普段から不気味だって海斗は言いたいのかな?」

「いやちがっ……確かに愛想はねぇし影薄いし何考えてるか分かんねぇけど、でも不気味だって思ったことなんて一度もないからな!」

「はぁ。擁護しているようにみえて、実は貶してるでしょ」

「あれほんとだ⁉ なんで誤解を解くつもりが逆に誤解を招いてんだ⁉」


 頭が混乱して発狂する俺に、琉莉は肩を竦めながら嘆息した。


「……で、抜け出した理由は?」


 ワントーン下げた声音で訊ねれば、琉莉は俺のことを暫くジッと見つめて、視線を切ると静かな声音で答えた。


「静かになりたかっただけ。あそこは、私には少し騒々しくて息が詰まりそうだから」

「だから図書室に?」

「ここを選んだ理由にこれといった深い理由はないよ。……ただ、ここは喧噪の渦中であっても静謐で、熱狂からは隔離されたように冷たくて、私にとっては慣れた場所だったから」


 琉莉の言葉を聞いて、俺はやっぱり推測は間違いではなかったと胸を撫でおろした。

 おそらく琉莉ならば、此処を選ぶだろうと思った。

 理由は、琉莉が先ほど述べた内容と大して相違ない。

 各階は文化祭の後片付けやプチ打ち上げ会を開いていて宴会状態でどこも騒がしい。体育館も既に閉鎖されていて、屋上には人がいる可能性がある。

 ならば必然と琉莉の移動先は絞られる。

 人気が全くなく、かつ一年生の教室からはさほど離れていない空間。

 あるとすれば別棟のどこか。そしてその別棟には琉莉の最適解と呼べる場所が一つだけあった。

 それが此処――図書室だった。


「それよりもよく私がここにいるって分かったね」

「ちょっと考えれば見当がつくよ。静かで誰にも邪魔されない場所って言ったら、学校ならここくらいしか思いつかない」

「だから必然と私に辿り着けたってわけだ。平均点以下の男にしては勘が冴えてるね」

「嫌なとこついてくんなよ。あと茶化そうともすんな」

「べつに。私は何も茶化そうとしてないよ。それに、この会話は一体いつから真剣なものになったのかな」


 たしかに、と俺は苦笑。そんな俺を見て、琉莉は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。  

 それから俺たちはしばらく無言の時間を過ごし、話題は文化祭の感想へと移った。


「文化祭、どうだった?」

「可もなく不可もなくだよ。私にとってはただの学校行事に過ぎない」

「相変わらず冷めてるな。色んなとこ連れ回したのに感想がそれかよ」

「じゃあ歩き疲れた」

「自分勝手に連れ回して悪かったよ」


 ジト目を向けて抗議してくる琉莉に謝罪すれば、「冗談だよ」と微笑が浮かぶ。

 この二日間を通して、琉莉は俺に小さな笑みをみせてくれることが多くなった気がする。

 それが、少しだけ彼女が自分に心を開いてくれたようで、嬉しかった。


「でも疲れたのは事実だよ。振り返り休日は家から一歩も出たくないくらいには疲れたかな」

「いつもなら引きこもりと言ってる所だが、今回はいいと思うぞ。仕事頑張ったんだし、何よりお前のこと散々歩かせたの俺だから。もうこれ以上は何も言えん。……でも、そっか。やっぱり行かないんだな」

「……うん。私もどうかって誘われたけどね。結局断ったよ。行ってもたぶん息詰まるだけだし、帆織くんにも迷惑かけてしまうだろうから」

「智景はそんなこと絶対思わねぇよ」


 そうかな、と琉莉は遠くを見つめながら呟く。その顔には、感傷がみえた。

 そんな顔をさせたくなくて彼と関わらせないようにしたのに、結局俺の望みは果たされなかった。

 いや、最初から無謀だったんだ。琉莉と彼を関わらせないように画策するのは。

 友達という関係性である以上、どうしたって関わる道は避けられない。

 帆織智景が太陽である以上、影になりたいと望む者さえも飲み込もうとしてしまう。

 太陽は、影には寄り添えないというのに。

 影は、太陽には近づけないというのに。


「なぁ、琉莉」

「ん? なに?」

「覚えてるか。子どもの頃、今日みたく二人で色んな場所に行ったよな」

「…………」


 俺は琉莉の顔を見ず、図書室の窓からまだ明かりの灯る教室を眺めながらそう呟いた。

 そんな俺の言葉に、琉莉が静かに息を飲んだのが分かった。

 それはまるで、どうして今更になって、とでも言うように。


「……そうだね。昔は、よく海斗に連れられて色々な所に行ったね」

「思い返ってみれば、遊ぶ先は全部俺が決めてたよな。公園にいくのもどっちの家で遊ぶのかも、今日は何して遊ぶのかも」

「今も昔も大して変わらないね、海斗は」

「あぁ。そうだな。何も変わってない」


 変わったのは背丈と声音くらいだろう。中身は琉莉が言うように、まるで成長していない。

 本当にあの頃から、何も変わってない。ワガママで、自分勝手で、琉莉を振り回す。 

 そして、それは今も。


「ねぇ、なんで今更昔話するの?」


 ちらっと見れば、琉莉が俺に紺碧の瞳を向けていた。ジッと俺のことを見つめるその瞳は、答えを求めるように揺れる。


「今日まで一度たりとも過去に触れてこなかったのに、どうして?」

「そんなのわざわざ聞くか?」

「教えて」


 わずかに苛立ちを覚えた声音。

 俺は静かに応える。


「……思い出したからだよ」

「――――」

「つい最近な、全部思い出したんだ。琉莉と昔よく遊んでたことも。どんな色が好きだったかってことも。昔どんな話をよくしてたかも。昔の琉莉との思い出を、全部思い出した」


 蓋を開ければ、鮮明に。

 俺が長年忘れていた記憶を、やっぱり琉莉はずっと覚えていたようで。

 だからきっと、これも覚えてるんだろうな。


「――おっきくなったらケッコンしよう」

「――っ」


 琉莉は一際大きく息を飲んだ。

 その後に、何かもを悟ったような、或いは諦観したような吐息を一つ、虚空に零した。


「そんなことまで思い出しちゃったんだ」

「言っただろ。全部思い出したって」


 その約束は俺が一番忘れてはいけないものだったのに、忘れてしまった。

 そして、思い出してしまったからには無視はできない。

 無碍むげにしては、いけない。


「ごめん。ずっと忘れてて」

「いいよもう。約束といっても、あれは所詮無知な子ども同士が見た淡い夢に過ぎない。そして夢はいつか覚める時がくる。それに、私は海斗の選択を間違いだとは思ってないから。まだ約束を覚えてたら、海斗はこんな捻くれた性格の女と結婚しなきゃいけないんだよ」


 嫌でしょ、と琉莉は自嘲しながら笑う。


「私たちはもう子どもじゃない。だからあの約束に縛られる必要もない。私はもう子どもの時のように海斗に手を引かれなくても自分で歩けるようになった」


 海斗、と名前を呼ばれる。

 その静かで、儚くて、今にも消え入りそうな声は、胸が締め付けられるほどの微笑とともに、こう告げた。


「もう私に構わないで」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る