第89話 『 水族館。行かないか? 』

 という訳で琉莉の家で勉強会が開かれることとなったのだが、殊の外順調に進んでいた。


「そこ違う。ここはこの公式を使うの」

「え、そうなのか。……おぉ、なんか合ってる気がする!」

「気がするじゃなくて正解なんだよ。……はぁ、こんな出来でよくうちの高校に入れたね」

「はは。バカですいませんね」


 ため息を吐く琉莉に、俺はぺこぺこと頭を下げるしかない。


「あー、その。教えてもらってる手前こう言うのも悪いんだが、琉莉は琉莉で自分の勉強に集中してもらって構わないんだぞ?」


 さっきから俺の面倒ばかり見ているせいで琉莉のノートは殆ど進んでいない。罪悪感が芽生えてしまってそう言えば、琉莉はそんなことはどうでもいいと言いたげに頬杖をついて、


「さっきも言ったでしょう。私はもうとっくに夏休みの課題は終わらせてる。なら、優先すべきは自分よりも、目前の出来の悪い生徒の面倒を見ることだと理解したんだよ」

「へぇ。……出来の悪い幼馴染ですいやせん」

「謝るくらいなら勉強して」


 ぴしゃりと叱られた。ごもっとも、と俺は恐縮する。

 それから琉莉はやれやれと肩を落として。


「まったく。こんなんじゃ海斗の夏休みは勉強で終わっちゃうね」

「そこまで勉強するつもりはない! 仮に進学するとしても、まだ一年は遊べる! つか遊びたい!」

「それは海斗の人生だから好きにすればいいよ。でも、遊ぶにしても本くらいは読んだ方がいいと私は思うけどね」

「おいおい琉莉さん。俺をあんまし見くびらないでくれよ。本なら読んでるぞ。まん……」

「漫画本は論外。小説を読めと言っているんだ」


 先に言われた挙句、また琉莉に睨まれた。

 俺はその鋭い視線に頬を引きつらせつつ、


「なら、琉莉が教えてくれよ。オススメの小説。ついでに読感文に使うから」

「妙案だね。いいよ。貸してあげる。十冊くらいあるから、全部読んでね」

「十冊もあんのかよ!」

「本来ならその10倍は読んで欲しいところだけどね。でも今回は特別にその量で済ませてあげる。いいでしょ、夏休みは長いんだから」

「うへぇ。夏休みを読書で費やすなんて俺は勘弁だぞ」

「小説なんて一冊三時間で読み終わるさ。十冊だからだいたい30時間ってところだ。一日半もあれば読み終わるよ」


 楽し気に語る琉莉。俺は苦虫を嚙み潰したような顔をする。

 流石は読書好きだ。俺にとっては苦行もいいところの所業を平然とした顔で強いてくる。

 しかし、これも琉莉と距離を縮められるいい機会だと気付いた俺は、嘆息を一つ吐いて琉莉の提案を受け入れることにした。


「……まぁ、琉莉がオススメする本なら面白いんだろうな。分かった。今年は頑張って本読むわ」

「本というのは頑張って読むものではないと思うけど、でも、その心意気は存外気に入ったよ」


 ふふっ、と笑った琉莉。その微笑に、思わずドキッとしてしまった。


「……あー、そのさ。琉莉は夏休み、どっか行くか?」

「? どこかって?」


 俺は照れ隠しのように話題を変えれば、琉莉はこてんと小首を傾げた。


「ほら、海とか花火とか」

「なるほどそういう予定ね。残念ながらないね。私にはそういった、どこか遊びに行くような友達はいないからね」

「さらっと寂しいこと言うなよ」

「どこかさ。私は家でのんびりしている方が好きなんだ。外よりも内側にいるほうが気楽だからね」


 琉莉は寂しげもなくそう言った。本当に、友達を作るのにも外に出るのも興味がないんだろうな。

 そんな幼馴染を外に連れ出したいと思うのは、やはり俺のワガママなんだろうか。

 ワガママでしか、ないんだろうな。


「……なら、俺が琉莉に付き合ってやる、って言ったらどうする?」

「――――」


 ぽつりと、呟くように俺は言った。

 琉莉はしばらく沈黙したまま、視線を右往左往させる俺をジッと見つめて。やがて、


「付き合うとはつまり、どういう意味?」

「どっか。遊びに行きたい所があるなら、付き合ってやるって意味」


 ぎこちなく言えば、琉莉は俺の思考を完璧に理解したようなため息を吐いた。

 どんなに迂遠な言い回しをしても、嘘を吐いても、琉莉には通じない。人の心を読めるなんて特殊能力を持っている訳ではないが、その鋭い洞察力と小説によって培われた推察力が他人の思考を用意に暴く。

 だから、俺の本音など自分で吐露する必要なく、


「……そうだね。なら、水族館に行きたいな」


 琉莉は、俺を慮るように答えてくれた。

 男としては情けない限りだ。尻込みする俺にそっと手を差し伸べるように答えてくれたことに感謝しかない。

 そんな情けなさない自分ができることは、後はもう一つくらい。

 琉莉に、楽しいと思える思い出を作ってやることだと思う。


「水族館か」


 外といっても館内。それに涼しい場所だ。琉莉らしいチョイスだが、外出場所としては夏に行くには打ってつけの施設だろう。


「よし、なら行こうぜ。水族館。そんで目いっぱい夏の思い出作ろうぜ!」

「海斗と二人で?」

「い、嫌か?」


 顔をしかめる琉莉。そんなに俺のこと嫌いなのかよ。

 狼狽する俺を見て、琉莉はくすくすと笑った。


「冗談。いいよ。海斗と一緒に行ってあげる。水族館。でもその代わり、夏休みの課題が終わってからね」

「一日……いや三日で終わらせてやる!」

「やれやれ。急にやる気だして。はぁ。海斗はほんと単純だね」


 琉莉と出かけられると分かって、途端にやる気を出す俺。そんな俺を見て、琉莉は呆れた風に嘆息。そうだよ、男ってやつは単純なのさ。


「そうと決まればぐずぐずしていられねぇ。早く課題終わらせねえと! 今年の夏休みは琉莉とたくさん遊ぶぞ!」

「は? なにそれ。私聞いてないんだけど。ちょっと海斗、聞いてる?」

「うおおおおおおおおおおおお! ……全然分かんねえ!」

「空前絶後のバカだね」


 やる気をみなぎらせてノートに向かうも、開始数秒で立ち止まる俺。そんな俺を、琉莉は死んだ目で見守っていたのだった。

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