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◇
左手を兄と、右手を弟とつないで、ソウタは南に向かっている。けれど、目印のないこの星空では、ほんとうに南に向かっているのかソウタにはわからなかった。ただ、ふたご座がためらいのない様子で手を引くので、それが唯一の目印に思えた。
「ソウタ、疲れてない?」「たくさん歩くのたいへんじゃない?」
「大丈夫だよ。こんなに星を見られることないから、楽しいよ」
「そっか、よかった」「ケイスケも同じこと言ってた」「星を見るの楽しいって」「星がずっと好きなんだって」「ソウタも星すき?」
「うん。ケイスケくんに教えてもらってからずっと好きだよ」
ソウタは、はじめてケイスケの部屋に入れてもらったときのことを思い出した。決して広くない部屋にはたくさんの本があった。棚には図鑑もマンガも難しそうな本も隙間なく並び、床を見ると本の塔がいくつか立っていて、いくつか崩れていた。散らかっててごめんなー、とケイスケは言った。ソウタは、そうだね、と返事をした。そうだね、本屋さんみたいだね。本屋さんはもうちょいきれいやと思うけどなあ、とケイスケは笑った。眉が困ったように傾いていて、笑っているのか、戸惑っているのかよくわからないな、とソウタは思った。ケイスケは本棚で何かを探していて、本を取り出したりまた戻したりしていた。ソウタは勉強机の椅子に座って待っていた。机の上にはプリント(書き込みや、文字や図でびっしり)の束や英語の本がざっと乗っている。少しして、ケイスケがあったあったと言って、一冊の本を取り出した。子ども向けの読みもので、宇宙がテーマのものだった。はじめはこれがわかりやすいと思う、とケイスケは言った。かたい表紙の厚めの本で、ケイスケの手からその本を受け取ったとき、ソウタは重みに驚いた。いまとなってはそんなに驚くほどでもないことだけど、その当時のソウタは、マンガや絵本くらいしか手に取ったことがなかったのだ。大丈夫?とケイスケが訊くので、ソウタはだいじょうぶ、と本をしっかり抱きかかえた。僕はもう読まへんから、いつ返しても、返さんでもええからね、とケイスケは言った。ソウタは、うん、とだけ言った。
その本はとても面白く、ソウタは宇宙のことをもっと知りたくなって、ケイスケの部屋によく行くようになった。ケイスケの部屋にある本のほとんどが宇宙にまつわる本で、わからないことはケイスケが限りなくなんでも答えてくれた。
はじめて借りた子ども向けの本は、まだソウタの手元にある。ケイスケは近所だからいつでも返せると思っているうちに、ケイスケは外国に出て行って、宇宙に出て行ってしまったのだった。ソウタはその間に体が大きくなって、アルバイトをするようになって、自分で本を手に入れるようになった。
出会ったとき、ソウタは小学生で、大学生のケイスケはずいぶんおとなに見えた。高校生になったソウタの身長は、ケイスケとだいたい同じくらいになった。目線の高さも宇宙の知識も少しはケイスケに近づいたと思うけど、それでも画面越しのケイスケはずっとおとなに見えて、むかしと変わらないな、とソウタは眩しく思うのだった。
「ケイスケくん、ぼくの訊くことなんでも答えてくれて、わからなかったら、わからんなーって言って、一緒に調べてくれるんだよね。本も星座早見表もケイスケくんにもらったし、一緒に天体観測したこと、何回もあるよ」
ソウタがそう言うと、ふたご座のふたりは同時にそうなんだ!と言った。
「ケイスケはソウタの先生なんだね」「兄のようでもあるね」「僕たちみたいに?」「兄弟でもあるし」「親友でもあるんだね」
小さな兄弟はソウタを見つめた。ふたりの目が星空を写してきらきらひかると、ソウタはなんだか照れてしまって、「そうかもね」と小さな声で返事をして、逃げるように上を見た。見上げた星空にはやはり音がない。自分たちの足音も、星が動く音も、星が燃える音もない。なので、ふたご座が「ソウタ照れちゃったね」「照れちゃったよ」とひそひそ話しているのがよく聞こえた。ソウタは恥ずかしくて、なにか別のことを考えようとした。頭の中を探し回って思い出したのは、雪がたくさん積もった朝のことだった。起き抜けに窓を開けて景色を見ると、街中に音がないという音が満ちていた。そのことに驚いて、窓を開けたままぼーっとしていたら風邪をひいた。ケイスケに電話でそのことを話すと「たしかに、雪積もったらずっと見るよなあ」と言って笑ってくれた。風邪が治ったころにはもうすっかりとけてしまっていたので、雪遊びはできなかった。
ところで、星空には音はないけど光があった。鮮やかだったり、遠かったり近かったり、色もさまざまだ。ほんとうの真っ暗さを背景に、光たちは燃え尽きるまでのあいだをめいっぱい輝いている。だから、急に視界がまぶしくなったことにはすぐ気づいた。ぶつかったという感覚はないけど、湯たんぽを抱き止めたような熱のかたまりを感じた。ふたご座がなにか言ったような気もするけど、よく覚えていない。
まぶしいのは一瞬のことだったような気がする。まぶしいのがやんで、ソウタはやっとまぶたを開けられた。周囲は変わらず星空の景色だったが、両手は空いていて、ふたご座の姿が見当たらない。ソウタはしばらくぼーっとして、こういうのを迷子というんだな、と悟った。
◇
ソウタはしりもちをついた姿勢のまま、周囲を見ていた。ふたご座の姿はない。遠くにも近くにも星々があるばかりだ。ソウタはうしろも振り向いて眺めてみた。すると、見上げるような角度にひときわ大きな星があった。遠いのか近いのかわからないが、それまで見かけた星とは、なにか違うような気がする。ソウタは目を凝らしてその星を観察した。自ら燃えている星ではない。周囲の恒星に照らされてその模様がよく見える。キャラメルと生クリームを重ねたような、味の濃いキャンディーのような……
「——こんばんは」
ソウタはぎょっとして、声のしたほうに顔を向けた。ソウタが勢いよく振り向いたので、声をかけたその星もぎょっとしていた。
「どうしたの?彗星の子……じゃないね、じゃない、よね?」
その星はすたすたと近寄ってきて、座り込んでいるソウタに目線を合わせるためにしゃがみこんだ。その星は短い髪の色も瞳の色もミルクコーヒーのようだった。
「きみ、彗星の子?」
「彗星じゃないです。ぼく、地球から来ました」
「地球の子?私、初めて会った。」
ミルクコーヒーの星は、ソウタの姿をまじまじと見た。
「地球の子も自分で光るとかはないんだね、私たちと一緒」
ミルクコーヒーの星はソウタの目を眺めて、独り言のように言った。ミルクコーヒーの星は、いて座やうお座たちとちがって、体から光がこぼれているようなことはなかった。つまり、ソウタと同じで、周囲の恒星に照らされてその姿が見える状態だった。
「きみ、名前あるの?」
「ソウタです」
「ソウタね。私、エウロパっていうの」
エウロパという名前を聞いたとき、ソウタは上空に浮かぶ大きなキャラメル生クリームの星が何かわかった。
「あの、あれって、木星?」
「地球の子なのに、よく知ってるね。見たことあるの?」
「写真はあるけど、本物は初めて」
「しゃしん?知らないことばだ。地球のもの?」
「うん、写真は、えー、ものの見た目を、そのまま写しとった、絵、みたいな……。ほんとうは絵じゃないんだけど……」
生まれてはじめて写真について説明したな、とソウタは思った。辞書にはなんて書いてあるのだろうか。
「絵みたいだけど、絵じゃないんだ」
「うん、なんて言ったらいいかわかんないけど」
「不思議なものがあるんだね、地球って」エウロパは、ふふ、と微笑んだ。「ソウタは、しゃしんに描かれた木星を見たことがあるんだ」
「うん……そうだね、そういうことだね」
ソウタはもう一度上空を見上げて、木星をじっと見つめた。キャラメルと生クリームが層になったような表面によくよく目を凝らしていると、じわじわとそれらが動いているのがわかる。キャラメル色の雲と、生クリーム色の雲がじわり、ぐにゃり、と動いて混ざり合いそうになる。
「本物の木星はいかが?」
「写真は止まっているけど、本物は動いてる。すごいな、ふしぎできれい、だけど、なんだかとてもこわいって気分にもなるね」
「ふふ、木星は美しいからね。私もきみみたいに、木星をじっと見ているといろんな気持ちになるな」
「エウロパは、いつも木星の周りを回ってるんだよね」
「そう!どうして知っているの?もしかして私もしゃしんに描かれてる?」
「うん。エウロパも、いて座もうお座もしし座もふたご座も、みんな写真でしか見たことなかったな。そうだ、さっきふたご座とはぐれてしまったんだけど、どうしたら会えるかなあ」
ソウタは、自分が迷子であることを思い出して、心が不安に染まり始めたことを感じた。エウロパは周囲を見渡して、少し考えている。
「そうだな……私は木星のそばを離れられないから、一緒に探すのはできないんだ。だから、ほかの星座のところに行った方がいいかもね」
エウロパはそう言って、木星の反対方向、斜め上を指差した。
「あの緑色の星の方向にまっすぐ進んだら、たしかてんびん座があるはず。てんびん座ならきっと助けてくれるよ」
エウロパに手を引かれて、ソウタはゆっくり立ち上がった。
「わかった。ありがとうエウロパ」
「こちらこそ、地球のこと教えてくれてありがとね。ソウタが良い夜を過ごせますように」
「うん、エウロパも良い夜を」
エウロパは、周囲の星の光に紛れて姿が見えなくなるまで手を振ってくれた。
エウロパの姿が見えなくなって、木星を見おろすようなところまで歩いても、まだ木星は巨大な星として佇んでいた。木星を見下ろすのは初めてだなと思った。
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