第6話

午後の授業は微塵も集中できないまま過ぎて、すぐ放課後になった。


正直、全く気のりはしない。でも、足は淡々と体育館の方向へ俺の身体を運んで行った。もう完全に習慣になっていて、体育館に行かない決断をするほうが怠かった。


練習中、副島先輩は一度も俺の顔を見なかった。二人以上で組む練習で、ペアになることも露骨に避けていた。俺は胃のあたりがなんとなくムカムカしたけれど、部長の号令に身を委ねて練習をすることはできた。というか、慣れた動きを繰り返すほうが、休んでいるより気が楽だった。高校に入ってから一番、意識の低い練習をしたと思う。


平日の練習でも、一、二ゲームは試合をこなす。俺は一番強い先輩に惨敗したあと、体育館の隅で休憩していた。


「富田、ちょっと来い」


三上先生は俺を呼びつけて、


「井口先生のとこ行って指示もらってこい」


と、もう一人の顧問の名前を出した。


学校としての取り扱いは単独のバドミントン部だが、練習は完全に男女別で行われている。男子の側を指導しているのが四十四歳の三上先生で、女子の側を指導しているのが五十二歳の井口先生だった。三上先生は丸顔のチビで、井口先生はハゲだから、女子には二人とも不評なようだった。実際、バドミントンは女子の方が競技人口の多いスポーツだけれど、明真学園高校のバドミントン部は男女が半々だった。体育館もちょうど半分ずつ使っている。


井口先生のところに行くと、俺は篠原しのはらという女子との試合を命じられた。同じ二年生の、普通科の女子だ。下の名前は思い出せないし、聞いた記憶もない。いかにも下手そうな女子で、ほとんど印象がない。強いて言えば、宮沢みやざわ瑞姫みずきとよく一緒にいることが多い気がする。宮沢も普通科の女子で、やはり地味な存在なのだが、俺と同じ中学校の出身なのでさすがにフルネームくらいは分かる。小柄で野暮ったい顔つき。あんまり瑞々しくなくて、あんまり姫じゃないな、と俺は思っていた。中学校のときも同じバドミントン部に所属していたけれど、ほとんど喋ったことはなかった。


「よろしくお願いします」


ネットの下で触れるか触れないかの握手をして、試合が始まる。


女子との試合は勝って当たり前だ。それに、篠原はやはり、二年生女子の中でもあまり上手いほうではないのだろう。サーブから甘い球が入ってくるし、逆にこちらのサーブに対しては緩く浮いた球が返ってくる。スマッシュには手が出遅れているし、ネット際に落とすドロップには全然追いつかない。


十対〇なったとき、俺は決意した。パーフェクトゲームだ。一点も落とさずに勝つ。


パーフェクトを意識し始めると、身体にはいつも以上の緊張が走る。四隅を狙うときも、普段の感覚よりも気持ち内側寄りに飛ぶようラケットを振った。少しでも苦しい姿勢から打つときは、とりあえず高く大きくクリアする。相手にとっては返しやすくなるから、ラリーは長くなる。集中力が切れそうになって、思考の隙間に副島先輩の顔と札束が入り込もうとする。それを振り払おうと、俺はラケットをぎゅっと握りしめ、相手の一挙手一投足に意識を集中させようとした。篠原はもう顔面蒼白で、いまにも泣き出しそうだ。ネット際に甘く上がった球を俺は相手コート中央に思い切り叩きつけた。そうだ、俺は強い。強くなったはずだ。なんで副島先輩なんかに負けなくちゃいけないんだろう。部室の蛍光灯に照らされたお札の鮮明な印刷は、なかなか頭から離れてくれない。


マッチポイントのラリーで、篠原がこちらのコート中央付近に甘い球を打ちあげた。思い切りスマッシュを打てば篠原は打ち返せないだろう。これで終わりだ。


シャトルを迎えるため、俺は天井を見上げた。その瞬間、白い光に目が眩む。


バドミントンをしていると時々、照明にシャトルが重なり、距離感が分からなくなることがある。光が眩しいばかりか、自分で自分の影にすっぽりと覆われるシャトルは、輪郭がうっすらと見えるだけ。頼れるのは自分の直感だけ。あれくらいの勢いで打ちあがったシャトルは、これくらいの場所に、これくらいで落ちてくるだろう。そのときだけ降りてくる、バドミントンの神様の囁きに従うしかない。


とにかく当たる確率を上げることだけを考えて、ラケットをゆっくりと振り下ろす。力のない中途半端なショットは篠原にとって絶好球になった。俺は足を横にひろげ、腰を落として篠原のラケット捌きに意識を集中する。篠原のスマッシュ。俺は一瞬で見切り、ラケットを差し出した。それなりの威力での返球。


そのままラリーが続いて、俺が凡庸なドライブ、床と平行の軌道を描くショットを放つと、相手の返球はネットに引っかかって落ちた。審判をしている一年生が得点板の布をめくる。二十一対〇。試合終了だ。握手のためネット際に歩み寄り、ネット下から手を差し出す。


「強いね」


篠原は俺の手を強く握り、こちらを睨みつけるように見上げてそう言った。泣きそうだけど、泣かないぞ、という顔だ。俺は驚いて、慌ててそれなりの強さで握り返した。


「瑞姫と同じ中学なんだっけ?」


篠原は意外にもはきはきと喋った。


「そうだけど」


俺は返事をしつつ手を放し、コート外へと歩き出す。篠原もついてきた。


「瑞姫が彼女さんと仲いいよね」

「彼女さん?」

栢原かやはらさんだっけ?」


その通り。つい昨日まで、栢原実果は俺の彼女だった。


「宮沢と実果って仲いいの?」

「えっ、知らなかったんだ」


しまった、という顔の篠原。


「今日、宮沢は?」


周囲を見渡しながら俺は聞いた。


「部活は休んでるみたいだね。わたし、瑞姫と同じクラスだけど、今日は部活のために来たからわかんないや」

「部活のために来た?」

「うん。午前中は体調悪かったんだけど、午後から回復してきたから部活行こうと思って」

「そんなに部活好きなの?」

「うん。好きだよ」


篠原は笑顔で言って、それは本心からの笑顔に見えた。弱くても、レギュラーなんか夢のまた夢でも、こうして部活を好きな人がいる。これもまた、「部活」の良いところだと思う。


コートを離れ、俺たちは井口先生に結果を報告した。再度話しかける間もなく、篠原は女子の試合の審判に呼ばれていった。俺も男子の領域に帰り、三上先生にも結果を報告する。三上先生はどこかの試合の審判でもやっておけと俺に命じた。了解した旨の返事をして、振り返ると美晃が手招きしていた。


「ジャッジやってくれる? 一年生が足りなくて」


俺は腹を手で押さえながら首を横に振る。


「すまん。トイレ行かせて」

「どっち?」

「みりゃ分かるだろ」

「ウンコ我慢しながら二十一対〇とはすげぇな」

「だろ? というわけで、ジャッジは他のやつにやらせといて」

「おっけー」


手を合わせて謝罪の気持ちを表現しながら、俺は自分のカバンが置いてある場所に戻った。ラケットを置いて、スマートフォンをポケットに忍ばせる。そして、軽く会釈をしながら女子の領域を足早に通り抜け、体育館の外へ出た。薄雲に覆われた夕空に、野球部の掛け声がこだましている。


トイレの個室に入り、洋式便所に腰かける。昨日の夜以来、実果からの連絡はすべて無視している。実果が俺のことを引き止めるのは意外だったが、その気持ちも一時的なものだと実果自身が次第に気づくはずだ。バイト漬けで遊ぶ時間も金もなく、毎日疲れ切って高校生活もろくに過ごせない彼氏など実果の人生にメリットをもたらさない。そんなこと、逐一説明しなくたって実果も理解していくはずだ。


しかし、篠原との会話で気づいたのだ。いまの実果を放っておくのはまずい。俺との状態を問われて、「保留してる」と言いかねない。特進科の中で話が収まるなら、俺にも抗弁の機会があるだろう。みんな見知った顔だから、話を聞いてくれるはずだ。


ただ、普通科や、先輩後輩がいるバドミントン部にまで話が広がるのは堪らない。こじれている印象を与えて後ろ指をさされたくない。せめてこの一週間は心を平穏でいさせて欲しい。


「なんでお父さんがクビになったら、わたしと別れるわけ?」


画面に浮かぶ実果の言葉はそう始まり、次に「返事してよ」と続いていた。


仕方なく、俺は昨日言ったことを、もう一度、より詳しく、長文で繰り返した。そして最後に、「もう実果と一緒にいれる時間もない。デート代は自分のぶんも払えない。というか、実果だって嫌だろ、こんな彼氏」と打った。正直に言って気持ち悪い文面だが、こうでも言わないと別れることを決心してはくれないだろう。


これでよし、と画面を閉じようとしたとき、既読がついて、返事がきた。テニス部の練習サボってやがるな。「嫌じゃないよ」と実果が言うので、俺はデメリットを滔々と説いた。電子的口論になった。実果の言うことはだんだん支離滅裂になっているように思えた。


「お父さんの代わりに祐斗が働くなんておかしいよ」


おかしいさ。でも、それが現実なんだ。


「バドミントン、やめて後悔しないの?」


するさ。きっとする。でも、なにかで踏ん切りをつけなきゃいけない。


「今度の部内戦で勝って、レギュラーをもぎ獲ってからやめる」

「でも、大会には出ないんでしょ? 意味ないじゃん」


意味があるんだよ。実果は真剣にスポーツをやってないから分からないんだ。


そんなことを真剣にスポーツをやっていない人に言っても仕方がないので、俺は仕方なく「男のプライドの問題なんだ」と、論点をありもしない男女差に切り替えた。それからしばらく口論して、実果から三十秒間返事が来なくなったタイミングで俺は個室を出た。ちょっと長すぎたかもしれない。


体育館に入る扉の前に立つと、ラケットがシャトルを打つパシンという音や、軽快なステップに合わせてシューズが床を擦る音が聞こえてくる。俺は深呼吸してから扉を開けた。目が慣れるまで、眩しい光に少し目がくらむ。「バドミントン、やめて後悔しないの?」。


そうだ、このまま八百長の最終戦をすればきっと後悔するはずだ。この気持ちを五十万円なんかで買われてたまるか。俺はそう決意して、胸を張って体育館へと足を踏み入れた。

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