第7話
でも、そんな決意なんて、すぐに粉々になった。
帰宅すると、妹が泣いていた。
母親はまだ帰ってきていなくて、親父は自分の部屋に引きこもっているようだった。
やはり女子の方が精神的な成長が早いというのはよく聞く話で、個人的にも実際にそう感じることが多い。小学六年生の女子なんて、結構大人びている。俺は自分や、同級生男子の態度を見るにつけ、精神年齢が小学生の頃から変わってないんじゃないかと思うくらいだけど、女子はいつもいつも先を行っている。この妹だって、いっぱしの大人ぶった口ぶりで食卓を湧かせている。家庭の事情を考慮してわざとそうやって振舞っているのか、それとも、年頃の自然として大人ぶりたいのかは俺にも分からない。でも、役者として「大人ぶってる小学生」を演じているならずいぶん立派だし、後者でもガキ臭かった自分を思えば大人びていると言える。そんな妹が、ダイニングテーブルに突っ伏して、一心不乱に泣いていた。
妹は俺の気配に気づくと顔を上げた。唇を食いしばり、手の甲で涙を拭う。先ほどまで妹の頭で隠れていた場所では、封の切られた封筒が幾分の涙を吸っていた。
「ごめん。相談したい」
「いいよ、なんでも」
俺は椅子を引き、妹の隣に座る。いつから妹は泣いていたのだろう。学童保育から帰ってくるのは夕方ごろ。そこから逆算すると、一、二時間は泣き続けていることになる。
「これ、見て」
妹が封筒を差し出す。俺は三つ折りになったA4サイズの紙をつまみだす。
「馬鹿野郎」
今度は本当に声に出してしまった。まるでため息のように、ぽつりと呟くことになるとは思わなかった。
「払ってくれるのかな?」
洟をすすりながら妹はそう聞いた。俺はなにも応えず、文面を何度も目で追っていた。「学校給食費の納付について」。タイトルだけで、両親が何をやったか、いや、何をやらなかったかが分かる。
「みんなの前で配られたのか?」
妹はふるふると首を横に振り、
「ポストに入ってた」
と答えた。最悪の事態ではないようだ。
「とりあえず、母さんが帰ってきたら話を聞こう」
「ごめん」
妹は嗚咽を漏らしながら謝った。なぜ謝るのだろう。自分で解決しなきゃいけないと思っていたのかもしれない。そう思うと、妹以外の、世の中の全てに対して、言葉にできない嫌悪感が湧いてきた。
「それとね」
うつむきながら、涙をぼろぼろとこぼしながら、妹は絞り出すように言った。
「うん」
「これ持って行って先生に聞いたら」
「もう一回、学校に行ったってこと?」
妹はゆっくりと小さく頷く。
「修学旅行のお金も途中から払ってないって」
俺は思わず唾を飲んだ。自分が小学生の時の記憶を辿る。
「修学旅行って、もうそろそろなんじゃない?」
「まだちょっと先だけど、、再来週班決め。先生はお母さんに何度も頼んでるって」
肩を大きく震わせて、妹はしゃっくりを挟みながら話す。見ているこちらの胸がつまり、息苦しくなるくらいだった。
「部屋戻っときなよ。俺が玄関で待ってるから」
「ごめん」
妹はもう一度謝ると、よろよろと立ち上がり、目をこすりながら自室へと消えていった。
話を聞こう、そう言ったものの、経験上、答えは見えているようなものだった。
母は悪い話を先延ばしにする性格だ。最後の最後、ギリギリの、もうどうしようもないタイミングで、にやにやと笑いながらそう言ってくる。母が明真学園高校の名前を出したのも、最後の三者面談の直前だった。親父の失業も、一ヶ月経ってから聞かされた。払っていないということは、もう払えないのだ。もしくは、払わなくても本当にどうにかなると考えているかだ。あの両親にとって、給食費に手を付ける順番がそれなりに早くても不思議ではない。親父の酒と煙草の量、母が親戚に会うためにと買っていた小奇麗な服。
「ただいまぁ」
陽気な声とともに帰ってきた母の笑顔はすぐに凍りついた。まさか、息子が玄関先に仁王立ちしていて、無言で迎えてくるとは思わなかったのだろう。
「祐斗、どうしたの?」
一瞬たじろいでから、それでも再び笑顔を貼りつける。母の特技だ。
「これ、ポストに入ってたけど」
俺は督促状を突き出した。母は露骨に青ざめて、その血色を回復させることができないまま、さらにぎこちなく口の端を釣り上げた。
「あ、それね、ちょっと忘れてたから」
表情から嘘だと分かる。部室のベンチに座る副島先輩の姿が脳裏をかすめた。
「妹の修学旅行代、払ってるか?」
「それは、もちろん」
ああダメだと俺は思った。そんなに唇を震わせないでくれ。
「払ってないだろ? 俺、知ってるよ」
なんの物的証拠があるわけでもない。しかし、突然、いそいそと靴を脱ぎ始め、いかにもついで、という口調になって母は言う。
「ちゃんと後から払うつもりだから。ちょっと忘れてただけ。夕飯、すぐ温めるから」
母は俺の横をすり抜け、その足音がリビングへと入っていった。
俺は督促状を右手で握りつぶし、その拳を緩められないまま自室へ戻った。椅子へどかりと座り込み、天井を見上げる。
なんで気づかなかったんだろう。俺たちは順調に、そこそこ貧乏からかなり貧乏になっていた。なんとかなるだろうと思って、バドミントンのことばかり気にして、俺は完全にゆでガエルだったのだ。
修学旅行のことだって、きっと、母はギリギリに言うつもりだったのだろう。他にもどんな悪材料が貯まっているか分からない。修学旅行は間近に迫っている。どれほどの金額なのかは分からないけれど、一週間待たずに、いますぐ部活を辞めてバイトを始めれば、二、三万くらいは稼げるかもしれない。
いや、もっと効率の良い方法がある。どうせ、いま辞めてしまうくらいなら。
心の奥から、ぬめりとしたものが湧いてくる。五十万だ。高校生が容易に手に入れられる金額じゃない。俺の四年半のバドミントン生活は、このためにあったに違いない。
俺は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。アプリを開いて、一文字一文字、慎重に打っていく。手が震えて、何度もやり直した。
「今日の話、受けますよ」
「本当に?」
すぐ返事がきた。
「本当です」
「じゃあ、月曜日の昼休み。もう一回部室に来てくれ」
「わかりました」
俺は机上の充電器にスマートフォンを挿した。夕飯の支度ができたと母が呼んでいる。
部屋を出ると、妹も同時に自分の部屋を出たようで、廊下ではたと目が合った。妹の顔色は元に戻っていて、両親向けの健全な表情が見事に再構築されていた。
「なんとかするよ」
俺が言うと、
「本当に?」
妹は少しだけその仮面を剥がして、懇願するような目つきになる。
「本当だよ」
俺は妹を真っすぐに見て言った。
「ありがとう。ごめん」
妹はさらにもう一度謝った。
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