第5話

大規模な私立高校だけあって、明真学園の部室は広々としている。部員は部室と呼んでいるけれど、一般的な感覚に訴えかけるのであれば、ロッカールームと呼んだ方がいいだろう。壁際にはずらっと鈍色のスチールロッカーが並び、中央部にはベンチが三脚置かれている。


俺が部室に入ったとき、副島先輩はうなだれるような姿勢でベンチに座っていた。


ツンツンと尖った髪に、切れ長の目が特徴の先輩。小学三年生の時からバドミントンを続けている。去年、俺が一年生で、副島先輩が二年生のときに三回戦って三回とも惜敗していた。届きそうで届かない一線。越えられそうで越えられない壁だった。バドミントン歴四年半の俺が、九年半の副島先輩に勝てたら、俺はなんとなく、満足してバドミントンを辞められる気がしている。


副島先輩は俺に気づくと顔を上げた。


「昼休みに呼び出して、ごめんな」

「全然、大丈夫っす」


俺がそう答えると、副島先輩は再びうつむき、視線を床に落とした。


「いや、ごめんな」


理由は分からないが、副島先輩は再度謝った。なんと答えてよいか分からず、俺は返事をしなかった。


呼び出した側が話を切り出すものだと思い、俺は黙っていた。でも、副島先輩も黙ったままだった。壁に取り付けられた換気扇の音だけが部室に響いていた。年末大掃除のとき以外にあの換気扇が止まっているところを見たことがない。働き者の換気扇だ。


俺はしばらく副島先輩の前に立ちつくしていた。相手は先輩なのだから、こちらがベンチに腰掛けるわけにもいかない。不自然な沈黙が続いた。


「富田、片桐に勝てる自信あるか?」


副島先輩は唐突にそう言った。言った、というより、呟いた、という方が正しいかもしれない。


「自信はありますよ」


俺は敢えて、何気ないような口調で答えた。自信は本当にあった。いまの片桐先輩相手になら勝てる。


「俺に勝てる自信は?」

「ありますよ」


さらりとした声色をつくって俺は答える。正直な話、まだ五分五分だと思う。けれども、こう言っておくことで自分を奮い立たせることができる。勝利は気持ちから始まる。それは真理だと思う。


「俺も、富田に勝つ自信あるよ」


言葉とは裏腹に、まるで試合に負けたときのような、絞り出すような声だった。


「そうですか。来週ですね。頑張りましょう」


副島先輩の態度に何と反応してよいかわからず、俺はとりあえずありきたりなことを言った。


「そうだな」


短い返事のあと、もう一度、不自然な沈黙が続いた。


公式戦出場者を決める試合。勝敗についての会話。部室にこっそり呼び出されている。副島先輩にとってはおそらく、最後の大会。


俺だって文脈というものを知っている。でも、まさか、そんなわけないよな。


「副島先輩との試合、俺は楽しみですよ」


俺は心の中で祈りながら、努めて冷静に、この嫌な沈黙を破ろうとした。期待もむなしく、副島先輩は勢いよく立ち上がり。ほぼ九十度に頭を下げる。頭突きを食らいそうになって、俺は慌てて後ろに飛びのいた。ふくらはぎがベンチに当たり、ベンチの脚が床と擦れながら動く。


「負けてくれないか」


頭も心も真っ白になった。馬鹿野郎と言いたくなった。馬鹿野郎なんて、ドラマとかアニメとか、漫画でしか見ない台詞だ。でも、いま現実で、本当に使いたくなった。馬鹿野郎。それでも声は出なかった。喉から口までが動かない。いや、身体全体が金縛りにあったように動かなかった。


「タダでとは言わない」


副島先輩は顔を上げ、俺と目も合わせずに、自分のロッカーへふらふらと近づいていった。ズボンのポケットから鍵を取り出し、ロッカーを開ける。副島先輩はしゃがみこみ、両手で何かを持ち上げる仕草をして振り向いた。小さな箱を、捧げものでもするかのように両手で下から支え、胸の前に持ち上げたまま副島先輩は俺の前に帰ってきた。


「いま、開けるから」


副島先輩は片手を箱から離し、先ほどとは逆側のポケットからキーケースを取り出した。本来はたくさんの鍵をまとめて収納するものだが、そこには小さな鍵が一つだけぶら下がっている。副島先輩は鍵をつまむように持ち、小箱の鍵穴へと差し込んで捻った。カチッ、と音がして小箱の蓋が僅かに持ち上がる。副島先輩はキーケースをポケットに戻すと、その手で小箱の蓋を開けた。ロールプレイングゲームによく出てくる宝箱のように、後ろに蝶番の金具がついている形式だった。


「先輩……」


箱の中身を見て、俺は思わずそう声を漏らしてしまった。札束を前にして、俺はたじろいだ。


「五十万円だ」


副島先輩は真っすぐに札束を見下ろしている。馬鹿野郎、なんて言葉は俺の心から消えていた。


「こんな金」

「大丈夫。盗んだとかじゃない」


そんなことを聞きたいんじゃなかった。でも、受け取れません、の一言が喉まで上ってきて、俺はそれを飲み込んだ。


「ダメか?」


副島先輩は少しだけ語気を強めて言った。


俺は黙っていた。自分の中で色んな感情が駆け巡った。行け、という声と、断れ、という声がぐちゃぐちゃに混じって頭の中で反響した。


「ダメか?」


副島先輩がもう一度訊いてきた。


「保留で」

「えっ?」

「ほっ、保留で、お願いします」


副島先輩はきょとんとしていた。言った俺も、多分同じ表情だった。どうして保留なんて言葉が出てきたのか、俺にも分からない。


「そうか」


落胆交じりの声色でそう言って、副島先輩はパタンと箱の蓋を閉じた。そのまま振り返って、やっぱり捧げ物でも持つように箱を持ったまま、副島先輩はロッカーにそれをしまった。


「返事、待ってるから」


ロッカーを閉めたあと、副島先輩はそう言い残して部室から出ていった。俺は全身の力が一気に抜けて、ベンチへと座り込んだ。


五十万円。それはとてつもなく巨大な金額だ。時給千円なら、五百時間も働かなくちゃいけない。


俺は副島先輩のロッカーを睨みつけた。睨みつけながら、金のことを考えていた。金が要るのは、生活のためだけじゃない。妹は来年中学生になる。高い制服と教科書を買わされるだろう。部活に入ったら、道具を揃えて部費も払わなくちゃいけない。女子の私服がダサいのも致命的だろう。いや、中学校に入る前だって、小学校の修学旅行がある。あの番組に出ていた女子高生は、金を積み立ておらず修学旅行に参加できていなかった。小学校だとそこまではかからないだろうけど、でも、旅行に持っていくようなカバンくらい買いたいかもしれない。そういえば、俺が小学校のとき、女子は卒業旅行とか言って三月頃にどこかへ行っていた気がする。それに行けないのも不憫だ。


俺はポケットからスマートフォンを取り出して、「中学校 制服」と調べてみた。おいおい、結構するじゃねぇか。そういえば、体操服とかも買わなくちゃいけないんだな。


次は、「大学 授業料以外」。体操服を買わなければならないということから発想が飛躍した。大学進学にかかる費用のことがタイトルになっているサイトを見つけて開く。「こんなにかかるの? 大学で必要な授業料以外のお金!」という文章が目についた。パソコンってこんなに高いのか。大学の教科書、こんなに買わなくちゃいけないのかよ。


遠くからチャイムの音が聞こえてきた。慌てて部室を出て、校舎に取り付けられた時計を見上げると、午後一時の五分前だった。俺は人生で初めて予鈴の存在に感謝して、ダッシュで教室に戻った。

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