第13話 職歴12社目(輸入業務。美容業界。勤務期間1年6か月)
前職を10日で辞めて、転職活動をまたすることになり、絶望感でいっぱいだった。自分に自信もなくなっていた。どんな職業を選択すれば会社を辞めなくて済むか。本当に悩んだ。マイホームを買った私は、貯金がほぼゼロであった。それなのに仕事をしても辞めてばかりでこの年はどんどん貯蓄がなくなっていく。一度、生命保険料の引き落としが残高不足で出来ず督促状が来た。生まれて初めて両親から借金をするまでになった。80万円の借用書を書いた。ちなみにこの借金はこの約4年後に完済している。我が家では、家のローン、光熱費、食料宅配業者への代金、生命保険料、学資保険料、ペットの猫の保険料、すべての経費は、私の口座から引き落とされる事になっている。それプラス、毎月7万円を妻に食費及び雑費として現金を渡していた。毎月信じられないくらいの金額が根こそぎ持っていかれる心境だ。それなのに、長男がまだ1歳なのに妻は幼児教室に入会させると言い出した。私は反対だった。というより、払える金額がないのだ。しかも無職の転職活動中の無収入で、両親から借金もしている身なのに、妻は一向に譲らない。そこの所を分かってくれない。
「子供の早期教育が今の時代では当たり前なの。最初の3年間で将来が決まってしまうから、地頭をこの時期に鍛えるの」と言ってきかない。私は、また喧嘩をするのが嫌だったので、やむなく受け入れた。このおかげでさらに私の貯蓄は減るばかりだった。お金がない不安と、なかなか転職活動がうまくいかない苛立ちが混じり合い、この頃は常にイライラしていた。さらに追い打ちをかけるように、義母が毎日泊りがけで私たちの家にいる。自分の家のように勝手な事をする。新居なので私は壁に穴をあけたくなかったのでエアコンは最小限の数にしたかったのに、義母は勝手に業者を手配して5つの部屋にエアコンを設置してしまった。私は激怒した。
「なんで人の家の壁に勝手に穴をあけるような真似をしたんだ。そんなにエアコンなんて必要ないだろう」と言った。
義母は「あなたが、もたもたして頼りないからやったのよ。私がお金を出したんだから」と言う。さらに、ある日、知らないおばさんがやってきて義母が寝泊まりしている客室用の和室に仏壇を運んできた。義母は宗教団体に入会していて、どうやらその知り合いらしい。
「どなたですか。こんなの勝手に置かないでください」と言った。
そのおばさんは、「あら。もうお話が済んでいると聞いていたんですけど」と言った。義母に視線を移しても、私とは目を合わせなかった。
義母は、私が普通に働いている時は、「お疲れさまでした」と優しく、夕食を用意してくれたりするのだが、就職が決まらないで私が家にいると態度が変わった。私が朝起きると、目を合わせないように静かに和室にこもり、料理も作ってくれなくなる。義母は義父とは正式には離婚はしていないが、早い時期から別居状態で籍だけ一緒に入っていた。事実上シングルマザーで65歳まで保険の外交員をやって娘である私の妻と妻のお兄さんを育てた。そんな精神的にタフな女性だから、会社をすぐに辞めてしまう私が軟弱に見えたのだろう。
全く私の気持ちを理解してくれなかった。
すぐに辞めてしまう私の心をもっと強くしないといけない。自分の息子は、あなたとは正反対で何の弱音も吐かないで頑張っているのよと、すぐにお兄さんを引き合いに出す所が私をイラつかせた。
私のストレスはコップの水が溢れるように限界を突破していた。なんにでもすぐに切れるようになった。そして家具にその怒りをぶつけるようになった。何かイライラする事があるとすぐにタンスを蹴ったり、家の壁をパンチした。買ったばかりの子供用のチャイルドシートが上手く車の後部座席に設置できなくて、イライラして地面にチャイルドシートを投げ飛ばして破壊して一度も使わずにお釈迦にした。
部屋の中を歩いていて、椅子に躓いて足の指の先を痛めたら、その椅子を外の庭にぶん投げた。バイクの雨よけシートをバイク全体に覆いかぶせようとしてうまくいかない場合も、イライラして、近くに置いてある自転車を思い切り蹴り倒した。
食器を洗っていて、洗剤の泡が顔や服についてもイライラして近くにあった物に当たっていた。そして大声や奇声を上げた。そんな姿を見て妻は次第に私から心が離れていった。
妻は怖い人が大嫌いなのだ。私と結婚した理由も優しそうで怒らない人に見えたからである。そんな彼女にとって唯一の長所であった優しい人が怖い人になっていった。この頃からセックスレスが始まった気がする。子供の育児で疲れてセックスどころではなかったのもあるが。
マイホームも買い、子供二人に恵まれて幸せそうに見えるだろうが、就活もうまくいかなく、精神安定剤がないと生きていけず、夫婦間で価値観の違いも見えていて、これから夫婦で力を合わせていけるのか不安だった。
子供や家族全体を養っていく責任の重さを痛感していて、絶望感しかない時だった。
そんな中、内定をもらった会社が二つあった。一つは、商社で社員数50人ほどの会社。
もう一つは、社員数8人の零細企業の美容業界の商社。どちらの会社にするか。父親は断然前者を勧めた。父親が知っていた会社であり、やはり何といっても企業規模の違いである。ただ、面接の時に不安を感じていた。上司となる面接官のどちらかと言えばおじいちゃんが、圧迫面接をしてきたのである。
「君には何としても売っていくのだという強い気迫と欲がないからこの仕事には向いていない」と言われた。
「あ~そうですか~。それでは私は不採用ですね。」と切り返した。そうしたら、その面接官は「採用」と告げた。
なんだ?この人はと思った。そしてもう一つの不安は、想定年収がいくらになるか明確に答えてくれなかったのである。賞与は頑張り次第でかなり上下するとの事で、この面接時で年収がいくらになるか答えられないという。その点、もう一方の零細企業は、年収をはっきり言ってくれた。夏のボーナス、冬のボーナスもそれぞれいくらという風に、はっきりと答えてくれたので不安が解消された。従業員が8人で小さい会社の方が風通しが良く、働きやすいだろうと考えた。
入社初日。まず、営業部隊がいる本社に挨拶に行った。歩いていける距離だった。
上司の50代半ばの女性の小川部長と一緒に挨拶をしに行った。本社というにはみすぼらしいマンションの一階に営業社員10人ほどと事務員の女性、面接をしてくれた老死専務がいた。初対面ながらに営業部員から漂う冷たさを感じた。そしてその中に物々しい殺気みたいのが漂っていた。空気が非常に悪かった。「宜しく」とは言いつつも、みんなそっけない態度であった。この時はたまたま副社長はいなかった。そして、社長に挨拶をするために、これもまた歩いていける距離にある社長室に行った。社長は怖モテのルックスで、身長も190センチくらいあり、怒ると怖そうな感じで近くに寄りがたい感じであった。ヤクザの親分のような雰囲気を醸し出していた。挨拶をし終わると業務を開始した。
職務内容は、本社の営業担当が顧客である美容クリニックに営業をして頂いた受注商品、例えばヒアルロン酸を注入して肌のリフトアップを目的とする針糸と呼ばれる商品を海外から輸入する業務である。私が所属した零細企業は社長、副社長、専務を覗けばたった5人の職場である。我々は貿易を行う子会社という位置づけになる。普通の輸入貿易と違うのは、商品が医療機器であり、しかも国(主に厚生労働省)に医療機器として承認や認証を受けた商品ではないという点である。つまり、未承認医療機器であるので、本来であれば医師が直接個人で輸入をしなければならないが、本業が忙しいので、医師及びクリニックスタッフが貿易業務や、輸入通関業務などを行えるわけがないので、医師に代わり、輸入の代行をしているのだ。そのためには厚生労働省に薬監書類というものを提出して許可を受けなければならない。私の業務はその薬監書類を作成して厚生労働省に提出して許可を得て、それを通関業者に提出して輸入の許可を得て、商品をお客様であるクリニックに納品をさせる事である。仕事に慣れてきて、お客様からの受注業務、請求書作成、海外メーカーへの発注、海外メーカーへの送金依頼、お客様からの入金確認、簡単な仕訳業務、商品の入荷処理など、徐々に業務が増えていった。
その他の仕事である機械類のトラブル対応や、返品処理、認証品である鋼製小物などの輸入対応は、もう一人の貿易業務担当である先輩の森下さんが担当していた。年齢は私より5歳下だったが、前職が通関業者にいた為、私よりも貿易のキャリアを持っていた。
彼は、お昼休みに毎日クリームをビスケットで挟んだお菓子だけを一袋食べていた。たまたまその日だけかと思ったが、来る日も来る日も毎日同じものを食べていた。小鳥かと思った。もしかしたら、実家がそのお菓子の製造メーカーで、その御曹司だから、商品が余っているのでそれを毎日持ってきているのだと思っていた。あとで聞いてみたら、午後眠くなるのを防ぐためにあまり食べないようにしていたと言っていた。ちなみに、私の心の中では、小鳥先輩と呼んでいたが、何故か、ある時点から急に太りだしてきた。毎日お昼に食べるのはクリームサンドのビスケットだけなのに不思議に思った。いつしか私の心の中では、デブ先輩になっていた。
入社して2,3か月が過ぎた頃、年末調整があった。
ここで想定外の事が起きる。この年は、転職を3回して4社経験していたのでそれぞれの源泉徴収票が必要で提出を求められたのだ。当然私は、早期に辞めた会社の事は職務経歴書には記載していない。この事実が発覚して老死専務から経歴詐称だと非難され、「君の処罰に関しては顧問弁護士と協議するから覚悟をするように」と言われた。この時、小川部長が間に入ってくれ、私を擁護してくれたようである。結局私は、解雇されることもなく、仕事を続けられる事になった。しかし、これ以降、老死専務との溝は深まった。毎日、朝一番で、本社に行き、老死専務に書類の受け渡しを行っていたので、毎日顔を合わせなくてはならない。老死専務はいつも私に冷たかった。それを持っていけと言わんばかりに、顎で使った。
この会社で今でもおかしいと思うのは、この書類の受け渡しである。その中には我々の給料明細も入っている。封がしているわけでもなく、無防備な状態でお互いの給料が見えてしまうのである。ある時、部長の給料が見えてしまった。私よりたった3万円多い額である。私の給料が高いのか、部長の給料が安いのか。どちらにせよ、ほとんど変わらない給料に驚いた。ちなみにデブ先輩とは全く同じ給料であった。
入社して3か月後の年末。忘年会。初めて副社長と一緒に飲み会が行われた。そこで副社長から突然フットサルをやらないかと言われた。本社の営業部員は全員強制参加させられている社内のフットサルチームである。話を聞くと、月に二回、都内の方で開催されて、チームを二つに分けて紅白戦をしているとの事である。フットサルに全く興味がなかった私は断ろうとしたが、それを察した周りにいた営業部員たちが私を取り囲み、佐々木もやるよなと半ば強制入部させられた。デブ先輩は、入部を免れて嬉しそうだった。このフットサルが超体育会系であり、きつかった。仕事が終わった平日の遅い時間、夜8時くらいに始まり、10時までの2時間ぶっ続けで行う。2時間全力疾走である。はじめのうちは、吐きそうになった。2時間酷使した足は、疲労骨折したのではないかと思うくらい、歩けない。一歩一歩痛みを我慢して家路を歩いた。しかも練習場から家まで2時間30分くらいかかる私は、家に着くのが深夜0時過ぎだ。そして次の朝、6時に起き、疲れた体と筋肉痛の足を引きづりながら、仕事を普通にこなさなければならなかった。しかも、会社からフットサルの練習場までの交通費の負担は出ない。フットサルのコート代金は、みんなで割り勘である。そして何といってもブラック企業だなと思ったのが、2時間の紅白戦で6試合くらいするのだが、負けたチームは勝ったチームに対して水代と称し、100円を払わなくてはならない。つまり運悪く6回連続で負けた場合、水代だけでも600円失う事になる。休みの日もフットサルの日程が組まれる事があった。しかも、わざわざ電車に揺られ、都内の方まで出向かなくてはならない。もちろん自腹で。年末年始休暇のうち、2日はこのフットサルで一日がつぶれた。秋には、合宿というものがあった。関東郊外のフットサル場に現地集合である。もちろん交通費、コート代金、宿泊代は各個人の負担である。練習時間は、なんと一日6時間である。6時間ぶっ続けで紅白戦を行う。いくら秋の陽気であるからと言っても、体力の消耗と水分不足になる。私は一度、試合中に気分が悪くなって休ませてもらった。この合宿は、一年に一度のビッグイベントなので、全国の営業所からも営業部員が招集される。九州からわざわざこの縁もゆかりもない関東郊外の田舎まで来させられている社員もいた。
もちろん自腹だ。普段の練習でも、営業部員が例えばその日に関西地方に出張に行っていたとしても、フットサルの時間までに都内に戻らなくてはならない。みんな、副社長の思いのままに動く操り人形になっていた。副社長は酒が強い。そして、酒に弱い人がアルコールに飲まれる姿を見るのが大好きだった。フットサルに入部させられ、頑張って一年が過ぎた。12月に、フットサルチームだけの忘年会があった。フットサルの練習をいつも通りに行い、夜11時から宴会が始まるのだ。初めて参加する私はどんな目に遭うか分からない。ふと他の部員を見るとみんな顔色が悪そうだった。みんな下を向きながら沈んだ表情で宴会場に重い足取りで歩いていた。カラオケの一室で宴会は行われた。料理が次々に運ばれてきたが、みんな誰も食べようとしない。食べてもどうせ後で吐くことになることをみんな分かっていたのだ。深夜2時を回ったころ、それは始まった。副社長がとんでもない数の焼酎が入ったグラスを注文しまくっている。誰がこの量の焼酎を飲むのだ。明らかにそこにいた部員数とグラスの数が合っていない。ゲームが始まった。“いっせーのせ”で、両手の親指の両方、もしくはどちらかを挙げるか、全く挙げないかをして、自分だけ他の人と親指の挙げ方が違うと負けというゲーム。子供の頃よく遊んでいた。それをおっさん達が真剣にやっている。なんせ、負けたら焼酎の一気飲みが待っているから。あれだけあった焼酎のグラスがドンドンなくなっていく。最後の一つがなくなって私は安心した。もうこれで終わりだろうと。
私は愕然とした。副社長が部屋に設置してある電話で追加の注文をしている。店員がまた同じ数の焼酎が入ったグラスをお盆に敷き詰めて持ってきた。恐ろしかった。この宴は終わらない。深夜3時を過ぎていた。運悪くゲームに負けっぱなしの人と運よく勝ってばかりの人に分かれてきた。負けっぱなしの人は、トイレに行く回数が増えてきた。そのうちの一人、営業社員の若手の加藤さんは、酒が全く飲めなかった。とうとう廊下に倒れ、意識を失い、吐しゃ物をまき散らかした。お店の人が掃除をしてくれた。カラオケ店で働くとこういう目に遭うのかと思った。人材派遣会社の営業担当でこの宴会のためだけに呼ばれた男性も、今から吐きに行ってきますと言ったっきり、トイレから戻ってこなかった。その他にも廊下の壁にもたれて立ったまま寝て動かない人など、辺り一面に見たことない景色が繰り広げられていた。路上の電信柱の陰でおもいきり大きな声で「おえ~」っと吐いていた社員を見て副社長は、恍惚の表情を浮かべていた。この人は、部下のうめき声が性感ポイントなのかと思った。
私も何回かゲームに負け、焼酎を数杯一気飲みさせられたが、そのカラオケ店では平気だったが、始発の電車で帰り、しばらく電車に揺られていたら急に気持ち悪くなって途中駅で降りて、駅のホームで吐いた。その後、自宅近くでも電信柱に吐いた。あとでその話を副社長にすると嬉しそうに大笑いしていた。ドSだと思った。しかし、嬉しい事も一つあった。
そのフットサルの忘年会で、集まったメンバーが一人一人投票して、今年の敢闘賞を一人決めるというものだ。そして私が選ばれた。メンバー全員からお金をかき集めて1万円をもらった。そして、その中の営業社員から「佐々木は頑張ってたもんな」と言われた。嬉しかった。努力を他人は見ているものだと思った。フットサルを通して営業部員とは仲良くなっていった。これがきっかけで、副社長直々に仕事の命令を受けることが多くなった。海外メーカーの営業担当が日本に来日し、クリニックを回って商品説明をする際の通訳を任された。しかし全くと言っていいほど通訳ができなかった。「今なんて言った」と営業担当から聞かれても英語が聞き取れない。中々通訳をできないで困っている私を見て、海外メーカーの営業担当からは、しかめっ面をされる。しまいには、クリニックの先生から今のはこう言ってましたよと教えてもらうはめに。私は、赤っ恥をかいて汗が止まらなかった。営業からは、「佐々木、もういいわ。通訳をしなくて。引っ込んでろ」と言われた。私の心は傷ついた。この時、自分の英語力はビジネスの世界では役に立たないと感じた。私は一生通訳はやらないと心に決めた。一方、本業の貿易事務の方では、仕事に慣れていた頃、小川部長が、デブ先輩と私の業務を交換しようと言った。小さい会社なので二人が同じ事をできるようにという事だったが、同じ給料なのに、私の業務が毎日毎日簡単なルーティンをやっているのが気に入らなかったのではないかと推測する。業務が変わり、分からない事が増えた。機械の取説も読まないといけないようになったし、関係する海外のメーカーの数が極端に増え、メールでも担当の誰がどの会社で、何の製品について話しているのか分からなくなった。そのたびにデブ先輩に聞いては助けてもらっていた。
デブ先輩がいない時は、小川部長は「私になんでも聞きなさい」という言葉をもらっていたので、何かあって、考えても分からない事は間違えを防ぐために小川部長に聞いていた。
そうしたらだんだんと小川部長の機嫌が悪くなってきた。「そんな事、自分で考えろ」と言われた。急に私に対する風当たりが強くなっていった。我々の美容系の貿易担当は、小川部長とデブ先輩と私だけの三人だったので、互いの声が全て筒抜けだった。私がお客様であるクリニックの方から問い合わせを受けると、その様子を一部始終聞いた後に、「なんだ!さっきの対応は」と、語気を強めて怒られる事が頻繁に多くなっていった。私はだんだん、小川部長が怖くなり、業務で分からない事があっても全てデブ先輩に聞くようにした。どうしようもない時を除いて小川部長とは全く話さないように、関わらないようにした。そんな中、小川部長からの叱責は止まらなかった。他の社員が聞いている中で、「おめえはよ!」という誰もが振り返るほどの大声で汚い言葉を浴びせられた。これで完全にショックを受けて怖くなった。もうこの人には近づけない。何も聞けない。何も話せない。相談できない。完全に壁ができた。仕事に支障が出始めた。
私はその日、部長から命じられていた取説の翻訳を行っていたが、どうしても訳せない部分があった。これはこのままでいいのか、いや、やっぱり提出する前に部長に確認してから提出したほうが怒られないのではないか。自問自答してた。そしてパソコンの誤操作でデータが消えてしまった。提出日まで時間がない。私はまた怒られると絶望した。その日、会社の業務終了時間が来て、私は会社を出た。駅に向かう途中のコンビニでカッターを衝動的に買った。そして近くの公園に行った。辺りはもう真っ暗だ。購入したカッターの封を開け、自分の左手首めがけて思い切って切ってみた。「シュッ」と音ともに、左手首の皮膚が裂けてそこから血がタラっと流れた。目は虚ろ。鬱っぽかった。もう一度手首を切った。また別の箇所から血が流れる。ポタポタ血が地面に落ちた。その光景を見て私は我に戻った。そして怖くなり、涙がこぼれてきた。とっさに両親の顔を思い浮かべた。両親から授かった体に傷をつけてしまった。申し訳ない気持ちになった。携帯を取り出し両親に電話をした。両親が電話に出ると、私は何の説明もなく「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら謝った。両親は「どうしたの?どこにいるの」と異変に気付き動揺し始めている様子だった。
「手首をカッターで切ってしまった」と伝えた。「とにかく、病院か駅に行って処置をしてもらいなさい。そして、今日は実家に帰ってきなさい」と言われた。両親の声を聞いて少し心に落ち着きを取り戻し、駅に向かって歩いた。駅員に手首を見せ怪我をしてしまいましたと言って、血だらけの手を見せ、すぐに包帯を巻いてくれて止血された。私はその腕のまま、電車に乗り両親が待つ実家へ帰った。
また会社を辞めることになると覚悟した。案の定、しまいには朝起きれなくて会社に行けなくなった。妻と義母は、またかという顔をして私の体ではなく、お金の心配をした。老死専務も私の事を心配する言葉をかけるどころか、一身上の都合による退職を勧めてきた。私の方から幕を引くのがいいのではないかという圧をかけてきた。精神科に診断書を書いてもらい会社に提出して受理され退職することになった。老死専務は、この時も私を疑って、面接の時、精神科に通っていた事実を隠していたのではないかとまた私が経歴詐称の罪を犯したかのように私に罪を着せようとした。私は心の中で、「面接の時に、精神科に通っていますなんて言えるわけないでしょう」と思った。ふと脳裏に、車関係の会社にいた時の事を思い出した。昼休みに食堂で毎日食事をした後に怪しい謎の包みを開けて中の白い粉を口に入れ、水で流し込んでいた人がいた。製造部の人だった。今思うと彼も心身の病を抱えていたのだろうか。
障碍者雇用枠で採用される障害手帳を持った人ならともかく、私のようにグレーの人はひたすらそれを隠しながら戦っているのだ。そして家族を養うために一般職枠で転職活動をする。この何が悪い?これは正当防衛である。私はこれまで受けたパワハラの中でも小川部長の叱責が一番恐怖で、今もなおこの恐怖がトラウマになって蘇ってくる。
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