第9話 職歴8社目(貿易業務。メーカー。正社員。勤務期間3年6か月)

年が変わり2013年1月。某メーカーの海外営業(輸出担当)に正社員として採用された。輸出業務は初めてだが、翻訳をやっていた英語力を買われた。この会社の最寄り駅から会社までラブホテル街を通る。夜になれば娼婦が立ち、お兄さん遊んでいかない?とミニスカートを履いた50代と思われる女性が近寄ってくるようなディープな路地である。この会社に決めたのは面接をしてくれた同じチームで先輩となる福田さん、玉山さんの人柄が良く、面接の時に一緒に頑張りましょうって言ってくれて心強かったのを覚えている。

しかし、初日で嫌になった。福田さんからパソコン操作の事で何故こんな事も分からないんだと叱責された。他にも業務内容の見積書を完成させる事ができない。分からないから何度も福田さんに申し訳なさそうに、か細い声で聞いた。そうすると声が小さいとさらにイライラさせてしまう。さらに商品の機械の構成部品の手配や工場との出荷の件など、仕事の流れが頭に入っていかない。仕事を覚えるのが遅い私に福田さんはしびれを切らした。入社して1週間経った頃には、叱責がひどくなり、となりの部署にも聞こえるぐらいの声で叱責されるようになった。その隣の部署の上司から福田さんにもう少し優しい言い方で教えた方がいいと福田さんが言われたほどだ。

しかし叱責は続き、10日が経過したあたりで私は朝、布団から出られなくなった。そのまま会社に行けなくなった。行かなくてはならないのは分かるが福田さんの顔を思い出し、恐怖を覚えた。私はもう一人の先輩の玉山さんに電話して相談した。

「福田さんが怖くて会社に行けないんです。海外営業の仕事にもついていけません。辞めたいです」と泣きそうな声で言った。

玉山さんは、「辞めるのは待ってよ。じゃあ、俺がやっている輸入の方ならどう?おれが教えてあげられるし、輸出よりは仕事内容的に決まった事を覚える事が多いから分かりやすいと思うんだ」。

「ありがとうございます。考えたいと思います」と伝えた。そして私は輸入業務に移り、玉山さんと引き継ぎをした。海外営業ではなくなるので営業手当の1万円は支給されなくなり給料は少し減った。玉山さんとの引き継ぎは順調に終わった。最初の1か月くらいは不安でいっぱいだった。ちゃんと引き継ぎができるのか。業務のやり方を教わりながら業務を片付けるので時間も倍かかる。玉山さんと私は毎日22時、23時くらいまで残業した。毎日会社の最終退出者となった。しかし2か月が過ぎた頃には私一人でも業務を回せるようになり自信もついていた。

商品である機械の構成部品の金属やプラスチックなどの材料を海外サプライヤーから購入するのが輸入業務である。海外サプライヤーはタイ、台湾、中国にある15社。それぞれの会社に毎月もしくは隔月もしくは、会社によっては数か月に一度の間隔で注文書を送り、納期を確認し、金額の変更がないか確認し、変更があれば価格交渉を行う。出荷前になったら出荷書類を入手し注文した商品と差異がないか確認し、船のブッキングをしてもらい貿易書類であるインボイス、パッキングリスト、BL(船荷証券)を入手し再度チェックし、船が日本に到着する少し前に日本の通関業者からArrival Noticeという書類を受け取り、通関業者に通関依頼をして貨物を指定した場所、日時に納品してもらう段取りを行う。貨物(商品)が到着したら商品の品質に問題がないか抜き打ちチェックをする。ステンレス材料だと指定した材料が使用されているか、寸法(厚さや径)が交差範囲内かなど、外観チェックを行う。私もノギスを使って行っていた。あるタイのサプライヤーは指定した材料以外のもので作った部品をよく出荷させていたので、不適合品をタイに送り返し、良品を再度EMS(国際宅急便)で送ってもらうというやりとりがしょっちゅうあった。商品が注文通りに届いたら経理処理と、海外サプライヤーに部品代金を支払うために銀行のホームページを使用して送金依頼を行う。タイのある会社は商品の品質に信頼があり価格交渉でも良心的にしてもらっていたので懇ろな関係になっていた。別の会社からこの会社に商品の製造を移管する事も良く行われていた。価格もより安い値段にしてくれたので、私の価格交渉の成果という風に上司に良い報告ができる。したがって注文する種類と量が増えるので送金する金額も一度で2億円を超える事も珍しくなかった。銀行のホームページで私が送金依頼ボタンの確定を押せば2億円がそのタイの会社の銀行口座に振り込まれる事になるのを考えると身の引き締まる思いだった。責任ある仕事を任せられていると思った。価格交渉も各社と定期的に行う。タイのサプライヤーは8社あったが、その中でも値上げの要求を毎回注文するごとに言ってくる会社があった。その当時の為替変動を理由にしたり、タイの首相が変わって政策が変わり、人件費や物価が高騰しているなど、色々な理由をつけて値上げを要求してくる。しかもその金額を受け入れないと商品を出荷させないと強気なので、商品がほしくて急いでいるこちらは止む無く高い価格を飲まざるを得ない。

「交渉の結果、前回注文時よりも何パーセントの値上がりになりました」と私の上司である専務に報告すると、「佐々木。お前の給料から引くからな」と冗談か本気か分からない脅しのような言葉をもらうこともあった。しかし、この仕事がだんだんと好きになっていって軌道に乗っていくのを感じていた。通関業務を依頼している通関業者の営業担当者が定期的に訪問して私に会いにやってくる。相手は課長職でその業界のプロ。ちょっと前まで派遣社員だった私とは社会人としての経験も、知識も、人間的にもすべて格上の45歳の男性だった。彼から見れば私など赤子に等しい存在だったが、年間数千万円という通関費用を払っている以上、私が接待をされる立場になった。毎回のように高級料理店に行っては、カニやら刺身やらご馳走をして頂いた。急に自分が偉くなった感じがした。


一方、自分の業務を後輩である私に譲った玉山さんは、海外営業、いわゆる輸出の仕事を福田さんから教わる形になった。10年輸入を経験してきた玉山さんでも輸出の業務は苦労していた。国内にある数百あるサプライヤーから見たこともない部品を購買して部品を集め商品の機械を組み立てるための製造手配を取る。

お客さんから修理の依頼やら不具合品の処理なので電話がバンバン鳴る。そのたびに図面を印刷し不具合のある部品を探し出し原因を究明する。ある時、玉山さんが新規開拓営業の一貫で渡したパンフレットに対して100円を請求したら、その受取人が「100円を取るなんて聞いてませんが!」とぶち切れている様を見た。私はビジネスの世界では事前の了承がないと100円の請求でも怒られるのかと驚いた。さらに、その他にも見積やら、請求書やら製造手配書類やら様々な業務とともに、予算会議資料の作成や月末の締め作業など細かい作業と膨大な仕事量にとうとう根を上げてしまった。いわば私の身代わりとなってくれた玉山さんに申し訳ないという思いを感じつつも、何もしてあげられなかった。近くにいながら何もできないもどかしさに私も苦しんだ。


玉山さんは「おれ、この会社辞めるわ。やっぱり輸入に戻るわ。実は転職活動してるのよ」と言った。上司には業者との商談に行くと言って、行き先ボードに都内にある会社名を書きつつも、実際は転職の面接のために会社を訪問していた。

しかし、転職すると現在の年収よりも下がるので奥さんが許してくれないのだと言っていた。この頃、玉山さんは40歳手前だった。私はそのくらいの年になると転職が難しくなるのかと聞き流すくらいであったが、今ならその気持ちが痛いほど分かる。


入社して一年が過ぎた12月、初めて賞与を満額もらった。額面で50万円が支給された。

私はとても嬉しかった。派遣社員が長かった私にとっては、こんなにもらってよいのかと思うぐらいの金額だった。新卒で入ったパン工場も賞与をもらう前に辞めていたし、マウンテンテックでは賞与の支給はないとされていたし、派遣社員の時も、もちろん賞与は出ない。人生で初めてもらった賞与。しかも50万円。私は喜びに浸った。この会社で頑張り続けようと思った。2013年の年末から翌年の年始までの正月休みは最高の気分で過ごしていた。結婚して妻と初めて過ごす正月休みで賞与も頂き仕事が軌道に乗ってきたところである。このまま人生が進んでいくと思っていた。


悪夢は突然やってくるのであった。2014年1月中旬。まだ正月休みボケが残ったままのある日、私は専務に呼ばれた。

「佐々木。君は本社勤務ではなく、関東の地方の工場の子会社へ転籍となる。業務内容は変わらないが、給料体系も子会社に準じることになる。今のお前の自宅から通えるか」と聞かれた。青天の霹靂であった。正月休みボケが一気に頭の中から消し飛んだ。

私はその場に立ち尽くし、少しの間黙ったままになった。「分かりました」という言葉を返すので精一杯であった。そして悔しかった。転籍となった理由はいまだに分からないが、海外営業で入ったのに、わずか10日間で輸入業務に移った事が気に入らなかったのか。それとも私という人間に賞与をこのまま50万円も与え続ける事に疑問を感じたのか。経費削減か。色々考えた。玉山さんなら何か知っていると思い、転籍になった報告と理由を聞きに行った。

玉山さんが言った。「佐々木君、あれじゃない? 中国の会社の部品の不良率がなかなか下がらないまま放っておいているでしょう。あの対策をしていなかったからじゃない?」と言った。

確かに玉山さんの言った通り、毎月、役員に報告する海外購買部品の不良率の報告書において、中国の数種類の部品について不良率が下がっていないのにも関わらず対策を講じず、数か月そのままにしておいていた。私の中ではそんなに大きな問題とは思っていなかったのである。しかし、高いお金を出して買っている部品が不良品ばかりで、そのままにしているという事は経営側からみれば確かに目をつぶるわけにはいかない。その責任を取らされたのだ。きっと。私はハッとした。事の重大さをその時はじめて気付いたのである。こうして私は給料を減らされ、通勤時間が片道2時間45分かかる子会社へと転籍となった。


2014年2月10日。関東の地方にある子会社への初出勤の日。その前日には大雪が降っていた。辺り一面に雪が積もっていた。テンションが下がりきっていた私は気分を立て直す事ができない。暗い気持のまま初出勤した。電車を3回も乗り継ぎ、会社と最寄り駅を繋ぐ田んぼで囲まれた道は長く長く、重い足取りをさらに遅くさせた。やっとの思いで会社に着き、事務所の人達と顔を合わせる。挨拶を澄ませ、早速午前中から本社でやっていた仕事を一人黙々とこなす。職場が変わっただけで仕事は今まで通りだから何の緊張もない。

お昼になり、ある一人の若い女性社員が「佐々木さん、これから雪合戦するんですけど、一緒にどうですか」と誘ってくる。

内心、35歳で雪合戦はないな~と思いながらも誘われるままに外に出た。若い社員たちが子供のように無邪気に雪合戦をしている。雪を丸めてお互いそれを投げ合って、真っ白で綺麗な雪が顔や手に当たると冷たかった。だんだん本気になって雪を握りながら、相手の所に走って向かい雪ボールを投げ合う。こんな遊び、いつぶりだろう。

久しくしてなかったな。童心に帰った気がした。そしてこの事務所の人達の温かさに触れた気がした。みんな、一人孤独で来たおじさんの心を癒してあげようとしているのが分かった。たまらなく嬉しかった。今でもこの時、一緒に雪合戦をしてくれて私を迎えてくれた人達の顔と表情、この時のシーンを忘れはしない。転籍になり、給料も減り、通勤時間が往復5時間以上になってブルーになっていた私は、気持ちを入れ替える事が出来た。とにかく、この場所で頑張るしかない。そう思った。


良い事もあった。これまで都内の本社にいた時には製品を直接見る機会がなかった。

しかし工場であるこの場所では自分が輸入した部品を直接見る事ができる。それが他の部品と一緒に組み立てられ製品である機械になっていく。しかも、製造部の人や、開発部門の人、設計者が近くにいて直接コミュニケーションを図れる。図面の読み方や、技術的な事を何でも教えてくれる。これは頼もしかった。

それからというもの、通常の輸入業務から価格交渉、納期管理、品質改善活動に力を入れて社内の業務改善運動にも積極的に取り組んだ。本来の私の業務とは違う国内部品の倉庫業務も自ら志願して手伝いに行った。月末の棚卸ともなると、数百という数の部品を梯子に乗りながら一つ一つ数えた。製造現場から部品が欲しいと言われれば、広い倉庫の中からピッキングして渡す。お客様から注文があればピッキングしてビニール袋に入れたり、箱に梱包してラベルを貼り、伝票を発行して出荷作業を手伝った。製造部で人が足りない時は、積極的に挙手をして製造部を手伝った。不器用で慣れないながらも、ステンレスや、アルミ材を機械で曲げ加工したり、専用の機械でビス止めしたり、製品に塗料を吹き付けたり、何でもした。そうすると周りからの反応も違ってくるのを感じた。みんな私の事を仲間と思ってくれていると感じた。廊下ですれ違えば他愛のない世間話を自然とするようになったし、通勤時間が遅い私の事を気遣ってくれて定時が近づくと「佐々木さん。早く帰りなよ」と優しい言葉をかけてもらったり、お菓子をよく頂いたりした。本業の輸入業務の方も順調で、問題だった部品の不良率も改善され特別目立った事案もなくなっていた。同じ敷地内にある研究開発センターと協力して新製品の部品を海外のサプライヤーにOEMで作らせて大量生産させるプロジェクトのメンバーに抜擢され、研究開発センターと海外サプライヤーの懸け橋的役割を担った。研究開発センターの技術者は英語が不得意だったので私の英語力が存分に発揮されプロジェクトはうまくいった。私の英語力が役に立った事を実感して嬉しかった。この頃は仕事が充実していた。懸念していた通勤時間も次第に慣れ、苦にならなくなっていた。このままずっとこの会社で輸入業務をやっていく事ができると思っていた。


妻は結婚を機に、それまで7年間正社員として働いてきた会社を辞めて専業主婦になった。同じ職場の女性社員からいじめられていると、しきりに私に訴えていた。妻の会社の内情は全く分からなかったので、私にとっては妻の言葉が全ての情報だ。妻は結婚を機に寿退職したいとしきりに私に懇願した。正直、内心私は自分の給料が低く、将来の蓄えもしなければならないので妻には働いてもらいたかった。しかし、妻は何でも自分の思い通りにならないと泣き喚く癖があった。私はしぶしぶ妻が専業主婦になる事を受け入れた。しかし専業主婦になった妻は家事を全くしなかった。妻のお母さん、つまり私から見れば義母が近くに住んでいたので、毎日自転車で私たちの1LDKのマンションの狭い部屋に通っては、掃除、洗濯、食事の用意をするようになった。私が帰宅すれば毎日義母が食事を用意し、お帰りなさいという。妻は自分の部屋で寝ている。どうしたの?と聞くと、鬱っぽいのだと言う。しかし、休みの日になれば私とレジャーを楽しめる。彼女の言葉が信じられなくなってきた。

明らかに堕落した生活をしているようにしか見えなかった。そんな頃、私の携帯に仕事中にも関わらず妻からラインが頻繁に送られてくるようになった。


「今日は営みの日だから早く帰ってきてね」。


私はお金がなかった事もあるし、自分たちに子供ができるという事は全く想像もしていなかった。しかし、妻にとっては年齢的な焦りもあったようで、結婚して専業主婦になった途端、子作りに全集中した。精子と卵子が受精するタイミングを超音波か何かで調べ、いつ性交をするのが最適なのかを予想するクリニックに行ったり、女の子がほしかった彼女は産み分けのクリニックに行ってそのタイミングを念入りに調べた。そしてクリニックの先生がこの日がチャンスと勧めた日に、彼女は事前に私に今日は営みの日だから忘れないでねと伝える。そして私が友達と会ったりなど、予定を入れないように営みの日の一週間前くらいから毎日ラインを送ってくるのだ。過去に私が風俗に行っていた事も彼女にとって杭を打っておかねばならなかった。彼女の偏見なのだが。私に専門のクリニックに行って精子を抜き取って病気がないかを調べてきてと言われ、わざわざ都内のクリニックまで行かされた。小部屋でVHSのアダルトビデオを見させられ、興奮もしないのに絞り出すように精子を出して、それを受付の人に差出し、病気がないかエイズにかかってないか調べてもらったりもした。そういう経緯を経て私たちは男の子を授かった。


勿論、最初は子供なんて頭の中に想像もしていかった私でも、子供を目の前にしたら本当に生まれてきてくれてありがとうという気持ちになった。可愛くてたまらない。毎日、早く仕事を終えて帰るのが楽しみになった。子供ができてからは、妻もさすがに一日中寝てはいられない。育児をやるようになったが、子供ができたことでますます義母が家事を手伝うようになり、早朝から、夜はご飯とお風呂を済まして子供が寝て落ち着くまで遅くまでいた。勿論、助かった部分も多々あるが、毎日義母と顔を合わすことでフラストレーションがたまってきた。そして家事を義母がやっているので義母も意見を言うようになってきた。その中で赤ちゃんが泣き叫ぶ。その声にみんな不機嫌になる。負の連鎖が確立していった。長男が誕生しても、妻の小作り全集中は止まらなかった。妻は女の子がほしかったのだ。私はこれには大反対だった。子供を二人も養う事はできない。子供は一人で十分だった。私は三人兄弟の長男で弟が二人いる。子供にとって兄弟がいる方が望ましいのは分かっている。しかしお金がない。生まれてきた長男には申しわけないがこれ以上子供はほしくなかった。

しかし、妻は女の子ができるまで諦めないと譲らない。いつもは妻の意見に従う私が突っぱねるので妻は私に切れた。ペットボトルで頭をたたかれた。そして、泣き叫び、言う事を聞かなければこのマンションのベランダから飛び降りると脅された。私はまた心が折れた。

この人には何を言っても無駄だ。そして、また暫く経ってから彼女から

「今日は営みの日だから早く帰ってきてね」のメールが来るようになった。

この頃のセックスは義務でやっているので、二人にとって気持ちいいとか、そんな事はどうでも良かった。妻は子供が生まれますようにとペニスを入れられ充足感でいっぱいの表情を浮かべ、私は早く終われとペニスを入れながらピストン運動を事務的に行い、早く射精して終わるのを待った。私はこの時のセックスのトラウマが今でも消えない。こんな気持ちの良くないセックスは初めてだった。当時セックスが嫌になっていた。


そしてまた彼女は妊娠をした。第二子を妊娠すると彼女は私に転職を勧めた。理由は当時住んでいたマンションが1LDKで狭かったので4人家族になったら住めないという事。

確かに子供が出来て3人で住んでいても狭かったし、猫も一匹飼っていた(今も元気に暮らしている)ので猫のゲージのスペースも取る。妻は自分の部屋があるが、私には自分の部屋というものはなく、さらにそこにまた家族が一人増えるとなればこのままではいけないとは思った。しかし、転職は違う。私はこの工場で働き続けるつもりだった。仲間と離れたくなかったし、仕事も順調だった。やりたい仕事が他にあるわけでもない。私にとっては転職する理由がないのだ。彼女は私にこう言った。

「今の工場の給料は低すぎるよ。もっと給料をもらえるところが絶対あるからもったいないよ」と。私は跳ね返すように言った。「家が狭いのはよく分かっている。だったら、私の勤務先である工場の近くで家を探そう。あの辺りだったら都内よりも安く家を購入できるから」。すると妻がヒートアップしてくる。

「ダメだよ。私は住所が東京以外になるのは嫌だ。信一さんの勤務先の工場だとお母さんも手伝いに来られなくなっちゃうし。絶対都内で買える家を探す」とぶち切れ寸前である。

そして止む無く私は彼女に屈服し、都内で家庭の資金繰りを見て家探しをお手伝いしてくれるカウンセラーの元へ行くことになり、当時の雀の涙ほどの給料の私が都内のどこだったら家を購入できるかを相談した結果、買えた家が現在の東京郊外の山奥である事が分かった。山奥だが、彼女はお母さんが来られる範囲であり、住所も東京都なので納得した。

そうして私は転職する前の状況で家のローンを組むことになった。そしてその後で転職活動を始めることになった。順序が逆である。私はやっぱり輸入業務をやりたかったので輸入で仕事を探した。あるメーカーの会社で最終面接まで進んだ。その中で面接官から、

「輸入業務は他の人で採用が決まってしまいました。佐々木さんさえ良ければ営業はどうですか?営業の方が給料は高いので佐々木さんの希望年収にも合いますよ」と提案された。

私は迷った。以前のマウンテンテックのトラウマがあったのだ。しかし、マウンテンテックは完全なる新規開拓営業で電話営業。こちらは、ルートセールスで電話の売り込みはないとの事。ノルマも厳しく設定されているわけでもない。私は営業職での入社を決意した。

ここから私の転職人生が始まる事になるとは知らずに。

こういう経緯で私は関東の地方のメーカー工場を退職する事になった。まもなく私の送別会が行われた。私は会の最後の挨拶でこう言った。


「本当はこの会社を辞めたくはないんです。この会社や仕事が嫌いになったわけではありません。家庭の事情で止む無く辞める事になりました」と。

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