第8話 職歴7社目(翻訳業務。正社員。勤務期間5か月)

入所日。出勤前に父親が部屋の白い壁を背景に写真を取ってくれた。

事務所の最寄り駅に降り立ち、駅直結の高層ビルを見上げる。立派だ。このビルの24階に事務所が入っている。本当にこのビルが職場なのか。私は信じられなかった。そしてエレベーターに乗る。同じように、高層ビルの各階の事務所に出勤する人達が乗り込む。私は顔の引き締まった彼らを見て、私もその中の一人なのだと実感し嬉しかった。そして誇りと気高さを手に入れた感じがした。事務所のエントランスに着くと面接に来て以来見るお花と絵画が視界に入った。そうそう。ここの事務所だ。自分はエリートだと勘違いし舞い上がった。

入所してすぐに私の歓迎会を開いてくれた。皆優しく私を迎えてくれた。ちょうどこの頃、妻と出会い、デートを重ねていて結婚を前提に付き合っていた。私は仕事で夢が叶い、プライベートでも彼女を手にし、全てがうまくいって怖いものがなかった。ちなみに風俗は妻のお陰で卒業できた。妻は今でも言う。仕事を終え、ビシっと決めたスーツを着て私が高層ビルからエレベーターで降り、待ち合わせ場所に来る姿がカッコ良かったと。それで私と結婚する気持ちになったと。私と妻は食事をした後、私が働く高層ビルの展望フロアに上った。そこから見下ろし広がる夜景に向かって、「この景色は俺たちのものだ!」と叫んだ。本当に全てがうまくいっているように思えた。この時、幸せの絶頂を感じていた。


特許事務所での翻訳業務。3か月が経過してから職場で異変が起きた。職場の上司から怒られるようになった。

「翻訳ができていない。ちゃんと訳せていない」と。私は「えっ!?」と思った。釈然としなかった。私の中では訳せていると思っていたからである。技術文書なのでもちろん意味は理解していない。ただ、ちゃんと専門用語は使っているし、英語の文法も間違っていないと思っていた。しかし、肝心の英語力が不足していると指摘された。

これを読んで英語力を上げなさいと言われ分厚い英文法の本を渡された。しかし、私はこの時に事の重大さを分からず、妻とのデートを優先させた。週末も彼女とデートを重ね、結局この本を開ける事は一度もなかった。ある日、出勤すると所長室で所長が呼んでいると上司から言われた。初めて所長室に入った。普段は誰も立ち入る事ができない部屋だ。

大きな窓があり24階からの景色が広がっている。所長に言われた。

「佐々木君。残念ながら君の翻訳と英語力だが、当社の基準に達していないと判断しました。翻訳業務では君を雇う事は出来ない。地方の支店での事務職なら君に就いてもらってもよいが、それは君の求めている仕事ではないだろう?会社側としては辞めてくれとは言えないから、ここで身の振り方を決めてもらうのが会社としては有難いのだが」と言われた。

結局は首である。私は試用期間中の5か月目で首になった。というより退職を促されて辞めた。また無職になった。所長室から見る24階の景色が突然灰色になり崩れ去った。

彼女(妻)に伝えなくてはならない。私はフラれると思った。無職になった事を伝えて捨てられるぐらいなら私の方から別れようと言おうと思った。


都内のバフェ専門店で彼女を待ち、神妙な面持ちでいた。待ち合わせ場所に到着した彼女は明らかにいつもと違うと私の様子に気付いた。

「どうかしたの?」。

私は意を決して言った。「これを見て」と彼女に異動命令の書類を渡した。

「どういう事?」。

「要するに首って事だよ。都内で翻訳業務に就く事は無理だから、地方の支店で事務をやれって。つまり、ほとんど解雇通知と同じ事さ。会社を辞めるよ。だから俺たちも別れよう。無職になったこんな男とは別れた方がいいよ」。

彼女はうつむき、そして目を抑えて泣き出した。

「その会社は酷いね。私は大丈夫だよ」と言ってくれた。

「えっ?でも無職になったんだよ」。

「そんな事で別れないよ。一緒に頑張っていこう」と言ってくれた。私は本当に彼女から愛されていると思った。私の仕事に惚れたとかではなく、私自身を見てくれていたのだ。

私もいつの間にか涙が溜まっていた。この人を失いたくないと心から思った瞬間である。

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