第3話 職歴2社目(新聞配達。奨学生。勤務期間4か月)

パン工場を退職して、英語の専門学校で英語を本気で勉強してやると決めていた。専門学校だったら入試はなく、作文さえ書けば誰でも入学できるからだ。そして大学の学費を両親に払ってもらっていたので、専門学校の学費までは親には負担をかけたくないという思いから、新聞奨学生という道を選んだ。朝と夕方の新聞配達及び集金、その他付随業務を月に6日の休みで働く代わりに奨学金を頂き自分で学費を払いながら専門学校に通うというスタイルだ。

ここで何故英語を本気で勉強したいと思ったかについての理由だが、きっかけは中学3年生に遡る。

私の世代は、英語の授業が中学1年生から始まった。アルファベットを覚える事から始まって、簡単な単語を覚えて、短い文章が出てきて、だんだんと長い文章を作ることになるのだが、私は英語の成績が中学1年生から良くて三年間、5段階の評価で5を取っていて自信があった。そして中学3年生の2学期に10段階評価で10を取った。10を取れるのは学年160人の中で2~3人。つまり私の英語力は学年でベスト3に入ったという事だ。

この時に完全に英語への自信とプライドを持った。誰にも英語では負けないと。


そして高校に入学した。分詞構文や現在完了形が出てくる。ついていけない。全く理解ができなかった。成績も10段階評価で5とか6にまで下がった。自分のプライドはズタズタに引き裂かれた。そして高校、大学でも劣等感を抱きながら、英語から離れていった。

そしてパン工場での勤務を経験したのだが、そこで肉体労働の過酷さを経験し、自分に英語の能力がないからこのような肉体労働の仕事しかないのだと思った。英語を本気で勉強してHOEICの点数を伸ばして英語力を身に着けて英語を生かせる仕事に就こう。

そう決意したのである。


縦浜駅東口で夕日新聞社の新聞奨学生カウンセラーのおばさんと待ち合わせをし、近くのとんかつ屋さんで食事をしながら和やかに面談が行われた。感じの良い方で、美味しい豚カツをごちそうになってこれから頑張ろうと思った。この後とんでもない過酷な日々が待っているとも知らずに。


晴れて英語の専門学校への入学が決まって、配属となる新聞屋さんの寮に入寮する日。

両親が地元の最寄り駅まで車で送ってくれた。この時24歳。人生で初めて親元を離れて一人で働きながら暮らす。両親の心配そうな顔を今でも忘れない。自分も親になったから今なら分かる。自分の子供が初めて一人暮らしをするため自分の元を巣立つときの気持ちを。

やがて来る自分の子供が一人暮らしをする時、自分はどう感じるだろう。きっと子供離れしないバカ親だから、寂しい気持に耐えきれず計り知れない思いに浸ることになるのだろう。

4月の専門学校の入学の前に先駆けて3月20日ごろに新聞屋さんの寮に入寮した。寮と言っても3階建てのマンションの一階が新聞販売所で、その2階だ。


そして早速新聞配達の業務が始まった。朝刊を配る前に、チラシをセットする時間があるので、起床時間は深夜2:30と決められていた。眠い目をこすりながら一階の仕事場に行くと、チラシをセットするトントントンっていう音が鳴り響いていた。先輩社員のおじさん達が皆、職人のように見えた。数十種類あるチラシを綺麗な束にまとめていき、それを一セットずつ新聞の間に挟んでいく。簡単そうに見えるが自分がやってみると中々うまくきれいな束にならない。時間もかかるし、何度もやり直す。

そうこうしているうちに配達の時間の4時になった。先輩社員の後ろをバイクでついて回った。とにかく、バイクを降りたら、走る。走る。集合住宅マンションなんかも階段の上り下りをスタスタ走る。とにかく休むことなく走る。

一軒一軒道順とお客様の名前、新聞の置き場所を確認する。1、2週間もすれば覚えてしまい、一人で配れるようになった。朝の6時過ぎには全て配り終え、所長からお疲れ様の缶コーヒーを頂く。運動した後、朝日を見るのは気持ち良かった。その後、まかない飯を作るおばさんが用意してくれた食事を食べ、シャワーを浴び、休憩してから昼間は寝る。そして夕方になり夕刊を配り、配りながら集金もする。留守の家があれば、また出直して再度訪問をする。これが非効率でたまらなかった。中には居留守を使う人もいて、明らかに人の気配がするのだ。そうこうしているうちに、4月になり学校の入学を迎えた。泥臭い新聞配達の世界とは真逆の、キャピキャピした女子生徒がほぼ人数を占める中、24歳の男がぽつんといる。明らかに浮いている。パン工場で仲良くなった女の子達とは少し違って、垢ぬけていて、化粧も濃いし、ファッションも奇抜だし、少しビビった。もちろん話せば印象は違うのだろうが。最初の印象では本当に仲良くなれるのか、不安になった。


そして学業と新聞配達の両立生活が始まった。

2時30分に起きて新聞を配って6時過ぎ、すぐに食事をしてシャワーを浴び、着替えて出かける準備をする。新聞配達の寮から専門学校までは電車で40分かかった。9時~15時まで学校の授業をうける。すぐに寮に帰ってそのまま休みことなく夕刊の配達をする。夕刊を配り終えたら集金や、次の日の仕事の準備をする。そうすると20時近くになる。ここまで休みなし。行きつく暇もない。ここからシャワーを浴び夕飯を食べ少し自由時間を過ごして寝るが、せいぜい睡眠時間は5時間くらいだった。相当ハードだった。

同じクラスに私と同じように新聞配達をしている奨学生がいたが、みんな授業中は寝ていた。私も睡魔に耐えながらも授業を受けていた。


新聞配達だけならば続けられたのだろうが、至上命題でもあった英語力を向上させる、HOEICの点数を上げるという事を目標にしていた自分にとって、あまりにも新聞配達の仕事との両立は難しかった。英語を専門的に勉強する学校だけあって、毎日の宿題もあり予習復習が必要になってきた。HOEICの試験も3か月に1度実施された。まず、入学時に受けさせられたが、この時の点数が355点だった。そして新聞配達をしながらなんとか頑張っていたのだが、その3か月後に受けた試験は405点だった。その次受けた時は415点。当時の私の目標は早く600点を超える事を念頭に入れていた。私の中ではもっと点数が上がっていると思ったのに全く変わらなかった点数に愕然とした。焦りを感じた。何のために高い学費を払っているのか分からないじゃないか。新聞配達の仕事をするためにパン工場を辞めたわけではない。新聞配達はあくまでも英語を勉強するための資金調達のために必要な手段だ。その英語の勉強が新聞配達の仕事に侵食され始めている。現に、新聞配達をし終わって学校に行っても疲れと寝不足で強烈な眠気が襲ってきて授業中眠ってしまう事が頻繁に起こり始めていた。学校の宿題もできずに夕刊配りが始まって、集金などを澄まして、次の日の朝の準備作業が終わればすぐに20時、21時になってしまう。そこからお風呂に入って食事をしても22時に寝るのが限界だった。そして眠りについたと思ったら2時30分に起きなければならない。毎日睡眠4時間30分くらいで頑張っていたが限界だった。


私の中でトラウマになったのが、眠りにつく時に聞かされる雨音だった。雨の中の新聞配りはきつい。しかも、新聞一つ一つをビニール袋に入れる作業が増えるから、もっと早く起きなくてはならない。そして、ビニール袋に入れた新聞は、バイクに積み上げるのが難しくなり、一度に全て積み上げられないので2回に分けないといけなくなる。そして配達時間も遅くなる。


そんな中、ある出来事が起きた。

その日、大雨が降りしきる中、ビニール袋に入れた新聞を高く積み上げ配達をしていた。

ある道路の交差点でバランスを失い、バイクを転倒させてしまった。積み上げていた新聞は全て道路の真ん中でバラまかれた。自分も道路の真ん中で仰向けで倒れた。怪我はなかったが、その時、雨に打たれながら、自分が惨めに感じた。配達を完了させないといけない時間も迫ってきている焦りもあって、大声で泣き叫んだ。これ以来、雨が大の苦手になった。

夜、寝る際に雨が降っていると眠れなくなった。そして朝起きて雨が降っていると外へ出られなく体が身震いするようになった。そしてしばらくたって、カウンセラーのおばさんに辞める事を伝えた。おばさんはがっかりした様子であった。学校の学費については、また両親に面倒を見てもらうことになった。本当に申し訳ないと今でも思う。

クラスメイトにも私のほかに何人か新聞奨学生をやっている人がいてお互い励ましあってきたが、私が辞めて以来、彼らに対して面と向かってしゃべることができなかった。後ろめたい気持ちになった。当時、新聞奨学生は学費を前借して借金をしていた。そして、毎月支払われる新聞配達の給料などからその借金を返すことになるのだが、私は借金をせずに新聞奨学生となっていたのですぐに辞めることができた。彼らは辞めたくても借金があるので辞められないのだ。だから、クラスメイトの中には、学業との両立が難しくなり、学校を辞めてそのまま新聞配達員になった人もいた。


本当に私は恵まれていると思った。人生をやり直すことができた。


だったら、意識を変えて、英語の勉強を本当に死ぬほど頑張ろうと両親に誓った。新聞配達をしなくてもよくなった私は、毎日時間の余裕ができた。普通に眠ることができるようになったし、学校の放課後新聞を配る必要もなくなり、その時間を勉強に充てることができた。ここから猛烈に勉強した。とにかくそれまで勉強できなかった時間を取り戻すかの如く、必死に勉強をした。放課後も時間の許す限り勉強をした。英語学習初心者が愛用する参考書は、ボロボロになった。私は電車の中で勉強するのが落ち着いたので、放課後、川の毛線の中で勉強して夢中になっていたら3周もしていたという事もあった。


そして、一年が過ぎた。2年生の夏休みが終わって受けたHOEICの点数で初めて600点を超えた。この時の嬉しさは強烈に覚えている。600点を超えると学校の廊下の掲示板にHOEIC上位ランキングとして張り出される。それが誇らしかった。そうすると、新聞配達を辞めたという負のレッテルが剝がされて、尊敬の眼差しで見てくれるクラスメイトも出てきた。私の事を好きになってくれる女子が現れたのだが、私は両親に誓ったこの2年間は遊びを我慢して勉強し続ける事を守った。私の事を好きになってくれた女の子は可愛かった。よくミニスカートを履いていて、中々振り向いてくれない私に向かって、授業中、よくスカートをヒラヒラさせてパンツを見せてくれた。それでも私は無視して相手にしなかった。今、思えば本当に惜しい事をしたと後悔しているのだが、当時の私は狂気じみていて、とにかく自分のベクトルを勉強する方向へとマインドコントロールしていた。

その甲斐あって、入学から2年間でHOEICの点数を300点も上げる事ができた。しかし、HOEICの点数を上げる事だけに注力していた為、気づいたら就職活動を全くせずに、もうすぐ卒業を迎えてしまうという状況になっていた。英語を使う仕事が何なのか、英語を使って何をやりたいのかがまだ見えてなかった。というより翻訳をやりたいという思いはあったのだが、まだ自分のレベルがそれに達しているとは思っていかなかった。


そんなときに学校で主催していた卒業生のOB就職説明会に参加した。その中で営業の仕事をされている方の体験談を聞き、「営業が楽しくて、今すぐにでも戻りたいですよ」という言葉と楽しそうに仕事をしているその笑顔が頭から離れず、一度営業をやってみるのもいいだろうと思えてきた。

そして3社目の人材派遣の営業職に就くことになる。

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