第2話 職歴1社目(パン工場勤務。正社員。勤務期間8か月)

2003年の3月に大学卒業を控えていた2002年10月。大学4年生であった私は、重い腰を上げやっと大学の就職課に貼ってある掲示板を見て、興味のありそうな求人について問い合わせをしてみた。その中で某大手のパン工場の採用が決まった。もう一つ、新聞の折り込み広告で見つけた近所の不動産会社の営業職も決まっていたが、パンの方が馴染みもあるし、知っている会社だし、そんな単純な理由で入社を決めた。この先、とんでもない事が待ち受けているとも知らずに。

入社する前に、私を含めた大卒組だけ本社が経営する都内のレストランに呼ばれて、歓迎会が行われた。ここで初めて見る同期組。人生で初めて見る同期、目の前にはレストランのフルコース。なんだか自分が偉くなったように感じた。しかし職場はここではない。

配属となる郊外の工場では、ただパン製造を行う人員の一人に過ぎなかった。

ボロボロの古い工場。掃除が行き届いていない。パンが運ばれるベルトコンベアの裏側にはショウジョウバエの巣があちらこちらにあった。よくこんな状態のままパンを製造できるなと思った。

私が配属となった部署は焼成。パンの生地を成形してベルトコンベアで焼成部門に鉄板ごとパンの生地が流れてくる。その熱くて重い鉄板を軍手を二重に着けて手で窯(オーブン)にひたすら入れていく作業を一日中延々と続ける。生地の発酵した酸味の強い独特の匂いと、窯からの熱風が吹き荒れる灼熱地獄の中での肉体重労働。4月だが体中の汗が流れ出た。休憩の時には炭酸ジュースを一気飲みしまくっていた。久しぶりに来た新人がどのくらいもつか、観察してニヤニヤしている先輩のおじさんたちと一緒に働く。有名なアニメに出てくる窯で働く妖怪のようなおじさんもいた。この人がアニメのモデルかと思った。

一日働いただけで体中が痛くなった。腰が特に痛い。全身筋肉痛。前かがみの姿勢が長時間続いたので、猫背のまま体が硬直したようになり、体をそり返すと痛かった。

通勤時間は2時間。残業もあったので毎日毎日行くのが辛かった。一日中汗だくになり発酵臭の中で働く。シャワーも浴びないから臭いが取れず、帰りの電車で自分が臭いのが分かった。いつも電車では人が自分から離れて立っていた。ちょうどこの頃、仕事帰りに家系ラーメンを食べる事を覚えた。一日肉体労働をした後の家系ラーメンは格別だった。


唯一の救いは同期の女子達との交流を深められた事。同期は全員で13人。私はその中で唯一大卒だった。他の同期はみんな高卒だったので18歳か19歳。ほとんどが高校を卒業したばかりの女の子。皆からは少し年齢が上の優しいお兄さんという事ですごく慕われた。

私は中学、高校、大学と女子生徒と一切交流がなく卒業したため、女の子達と仲良くなる事を人生で初めて味わった。そのせいか当時舞い上がってしまった。仕事のことはこれっぽっちも考えず、皆といかに仲良くなれるか、いかに彼女達を笑わすかに全集中していた。

事前に買っておいた鳥の被り物をもっていき、パン工場と最寄り駅を往復する送迎バスの中で、その被り物を突然かぶって、みんなを驚かせたり、少し怖そうな先輩社員を階段の下で皆で待ち伏せして、先輩が来たら自分が「わあ一!」と驚かせて皆を笑わせたり、会社なのに学校のように振舞っていた。今、思えばなんとも若いというか、世間知らずというか、幼稚というか、会社内でやるような事ではないと思えるのだが、当時の私は遅れてきた青春を取り返しているような気持だった。同期で仲良くなった子と一緒に帰る事も多くなった。えみちゃんは、自分と帰る方向が同じだった為、頻繁に一緒に帰った。どうやら彼女は私の事を好きになったらしい。当時童貞で付き合った事のない私でも分かるくらい猛烈なアタックを受けた。包装の部署に配属になったえみちゃんは、包装が悪くて商品にならなかったパンをよく私に手渡してくれた。そして電車の中では、私のすぐ隣に座った。私のつまらない世間話を真剣に聞き、頷いては相槌を打ち、真面目に大人しく紳士に私に接していた。

ものすごく私に気を遣っているのが分かった。仕事が終わって会社の送迎バスで会って、そのまま一緒に帰るのは自然な流れだが、彼女の包装部門と私の焼成部門は、出社時間が異なるので、朝、通勤途中で一緒になる事はないはずなのだが、おかしなことに毎朝、彼女を駅で見かけては一緒に会社に向かった。

彼女は私の事を待ち伏せしていたらしい。今ではストーカーと呼ばれそうだが、それも可愛く思えた。

ただ、彼女には申し訳ないが、私には他に同期で好きになった子がいた。それがあさみちゃんだった。あさみちゃんは、男だったら誰でも好きになる今風なギャルで、屈託なく誰にでも優しく、親しくするから誰でも友達になるタイプ。そして可愛い。皆からモテる。あさみちゃんが配属になったのは成形部門。彼女とは住んでいる地域も全く真逆で、一緒に帰る事もなく、職場でも一緒にならず、唯一会える時間が昼休みや休憩の時だけであった。

ある時、そんなに親しくもなっていなかったのに勇気を出して告白してみた。


「好きだ。付き合ってくれ」。


「私には彼氏がいるから無理」と言われた。

それでも彼女への思いは消えなかった。しかし、諦めざる負えなかった。


そんな折、品質管理部門に中途採用で入社してきた3歳年上のまりさんがやってきた。私は、一目見たときに一瞬でその美しさの虜になった。今までこんな綺麗な人は見たことがない。完璧なルックスで、彼女は瞬く間に職場のアイドルになった。マドンナと言った方がしっくりくる。妖艶。魔性。色っぽい。大人。セクシー。どんな言葉で形容しても当てはまる。

私は、彼女と何としても親しくなりたいと思って、唯一のチャンスである、お昼休みに食堂で、自分の食器トレーを持って彼女が座っている席に近づき「一緒にいいですか」と言った。彼女はうなづいた。そして彼女と対面して食事をしながら話をする機会を伺っていたが、緊張と自分の会話力の無さ、そして周りの人達のニヤニヤしてこちらを見ている様子が気になり、食事と会話に集中できず、沈黙のまま、なんとも言えない空気が漂った。

そして彼女がゆっくり口を開いた。


「職場にいづらくなるんじゃないですか?」。


そして彼女は淡々と食事を続けた。私は余計に黙り込んでしまった。

結局、この時は何もしゃべる事ができなかった。


そんな事があってしばらく過ぎた頃、転機が訪れた。なんと私は品質管理へ異動になった。

そう。マドンナのまりさんと一緒の部署に配属になった。そして、まりさんが私のお世話係をする事になった。なんとも夢のような話。近くで見るまりさんは、本当に美しく、妖艶で艶々している。魔性の女のようなオーラがあり、その瞳を見ていると奥まで引きづりこまれそうな魅力を放っていた。私は完全に彼女の虜になった。彼女から仕事を教わっても何も頭に入ってこない。ただただ彼女の顔を見ていた。抱きしめたかった。自分のものにしたかった。彼女に気に入られたかった。自分の気持ちに気付いてほしかった。もう気が狂いそうなくらい彼女の事で頭がいっぱいになった。しかし何もできないもどかしさ。ただただ彼女を見ている事しかできなかった。そんなある時、同期で一度ふられているあさみちゃんが彼氏と別れたという噂を聞いた。彼女と話してみるとやっぱりそうらしい。相当落ち込んでいる。フラれてから彼女とは少し疎遠になっていたが、彼女に元気を出してほしいと思い、彼女と連絡先を交換し、仲良くなっていった。そうするうちに、忘れていたあさみちゃんへの気持ちが次第に復活してまた彼女を好きになってしまった。しかし、あさみちゃんは私の事は彼氏とは見る事ができないらしい。あさみちゃん、まりさんを同時に好きになったが両方へ思いが届かない苛立ちもあって、憂さを晴らすようにえみちゃんとは二人でデートをするようになっていた。彼女は私の事が好きだから誘えばいつでもデートをしてくれる。自分の思い通りになる。彼女はお酒が飲めないのに、無理をして私の好きそうなお洒落なバーを見つけてくれたり、デートも私に気を遣って、彼女の家からは遠い私の家の近くまで来てくれたりしてくれた。しかし、私は本気でえみちゃんと付き合うつもりはなかった。しかし、彼女と会う事で自尊心を保つ事ができた。

ある日彼女がとうとう彼女の部屋に来てと言ってきた。私は「えっ」と思ったが、彼女の家に向かった。

彼女は実家暮らし。その日は両親もお兄さんも留守にしているという。

彼女の部屋に着いて、彼女は自分のベッドの上に静かに座って私に背を向けたまま言った。

「家族はみんな外出しているから」。

私はこれまでの人生で風俗嬢以外の女性とセックスをした事がなかったが、これがサインかと思った。彼女の背後から彼女に近づいていった。そして服を脱がそうとした。

その時彼女が言った。

「私、めちゃくちゃ毛深いから恥ずかしいの。びっくりしないでね」。

「そうなの?どのくらい毛深いの?」と聞いた。

「男性並みに毛深いの」。

私はそれを聞いて、盛り上がっていた気分が急に冷めてしまった。

彼女から離れて「やっぱりやめようか」。

彼女は「えっ?」と言って、私を追いかけてくるが、

私は逃げるように彼女の家を飛び出して帰ってしまった。

今思えば、いや、当時も気づいていたのだろうが、えみちゃんには本当に悪いことをしたと思う。その気がないのにデートを重ねてその気にさせて。それ以上の関係にはならなかったが、彼女の気持ちには答えてあげることはできなかった。

その一方で、まりさんと、あさみちゃんへの気持ちはますます高まっていった。

くしくも二人の人を同時に好きになってしまった。そんな中、あさみちゃんも総務に異動になった。屈託のない19歳の可愛いかおりちゃんは、職場の営業の男性から可愛がられるようになった。それを目の前で見ている品質管理のマドンナのまりさんは面白くない。ある時、あさみちゃんが泣いていた。女子の更衣室で朝、一緒になったまりさんから強烈に怖い事を言われたと。私が好きなまりさんがそんな事をするとはショックを受けた。そして現に目の前で私の懐の中で泣いているあさみちゃん。自分の頭の中で整理できない。どちらの味方をすればよいのか。「最近私、激やせしているの気づいた?」とあさみちゃんが私に言った。確かに腕とか激細して、体も枯れ木のように細々としている。私がどっちつかずにフラフラしているから彼女のサインに気付いてやれなかった。

そんな折、まりさんから呼び出しをくらった。突然こう言われた。


「私、年上の人が好みなの。だからごめんね」と。


私が告白をする前に、私の気持ちを推し量ってか先制攻撃をくらった。

そして、この直後、私は品質管理からまた焼成部門への異動を命じられた。


あさみちゃん、えみちゃんの事があり、誰一人として幸せにする事ができずに泣かすような事ばかりしていて気持ちが萎えていた。そんな中でやる灼熱地獄の鉄板運びは体に堪える。

もうこの仕事はできない。会社に退職を告げた。そして最後の日、挨拶周りをした。

最後に挨拶をした人は総務のあさみちゃん。


「色々ごめんね。ありがとう」という言葉をかけた。そして彼女はうつむいて、そのまま机の上に泣き崩れた。


他の同期の女の子達にも最後の別れを言った。そのうちの一人の女の子が私との別れを悲しんでくれて泣いてくれた。私も思わず泣きそうになった。

彼女たちには色々楽しい思い出を作ってもらって感謝している。

新入社員だけで行った社員旅行では、バスの中で工場長たちとお酒を飲んでバカ騒ぎをして、私は人生で初めて酔っ払って、途中寄った見学施設の道端ででんぐり返しをした。同期の女の子達はバカ笑いをしている。彼女たちのおかげで何とも言えない濃厚な青春な時間を過ごさせてもらった。本当にありがとう。今でも時々思い出しては甘酸っぱい青春だったなと感じているよ。

4月に入社して12月に退職したので、たった8か月間の出来事だった。

退職理由を書くとすれば、仕事が辛かった事と、自分の好きな英語を本気で勉強してみたくなったからである。

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